発熱
翌朝。
台風一過の空は、憎らしいほどに澄み渡る青だった。
しかし、寮の談話室に漂う空気は、昨夜の湿気をそのまま引きずったように、どこかむず痒く、落ち着かないものだった。
「……あら、ごめんなさい。このごみはあっちの袋だったかしら」
昨夜の「ささやかな祝勝会」の後片付け。
九条ねねは、どこか精彩を欠いていた。
空き缶を燃えるゴミに入れようとしたり、ふと手が止まってぼんやり宙を見つめたり。
その横顔は、恋する乙女のように緩んだかと思えば、急に真顔になって首を振る。情緒が迷子だ。
一方、西園寺瑠璃と小林光莉のふたりもまた、異常事態だった。
「ひ、光莉! そっちのゴミ袋を取ってちょうだい!」
「あ、はい! どうぞ!」
「きゃっ!?」
ゴミ袋を手渡そうとして指先が触れ合った瞬間、瑠璃が感電したように手を引っ込めたのだ。
「……っ、ご、ごめんなさい!」
「い、いえ! 私の方こそ!」
二人は顔を真っ赤にして、それぞれ違う方向を向いて作業を再開した。
視線を合わせられない。昨夜の「寸止め」の熱が、指先に残っている気がする。
四人中三人が、昨夜の嵐の余韻に脳を焼かれ、まともな会話すら成立していない状態だった。
そんな中。ただ一人、常盤奏だけが淡々と動いていた。
「…………」
無言でペットボトルを潰し、テキパキとテーブルを拭き上げる。
その表情はいつも通り涼やかだ。
(……すごいなぁ、奏ちゃんは)
光莉は感心しながら彼女を見た。昨夜も九条先輩を一人で支えていた。
その姿を思い出していたが、光莉は小さな違和感を覚えた。
動きが、機械的すぎるのだ。視点は定まっているようで、どこも見ていない。
白い肌はきれいというより血の気がなく、額にはうっすらと脂汗が滲んでいる。呼吸も、意識して整えようとしているのか、時折浅く速くなっていた。
「奏ちゃん? 顔色が……」
光莉が心配になって声をかけようとした、その時だった。
ガシャン!!
重い音が響き渡った。
奏が持っていたゴミ袋が床に落ち、散乱する。
そして奏自身も、糸が切れた操り人形のように、膝から崩れ落ちていた。
「奏ちゃん!?」
「常盤さん!?」
光莉と瑠璃が叫ぶ。
だが、誰よりも速く動いたのは、やはりねねだった。
「奏ちゃんッ!!」
ねねは持っていた袋を放り投げ、床に倒れ込んだ奏に滑り込んだ。
膝をつき、すぐさま奏の肩を支える。
「……っ、すみません……足が、もつれて……」
奏はうつ伏せのまま、床に手をついて起き上がろうとするが、腕が小刻みに震えて力が入らない。
「落ち着いて。立たなくていいわ」
ねねが奏の額に、自分の額をコツンと当てた。
熱を測る動作。その瞬間、ねねの表情が曇った。
「……ひどい熱。焼けるみたいじゃない」
「……少し、体が重いだけです。これくらいなんともないので、作業を……」
「バカねぇ」
ねねの声は小さく優しかった。
泣きたくなるのを堪えるような、静かで、優しい響きだった。
「どうしてこんなになるまで黙ってたのよ。……無理をして倒れろなんて指示、私は一度だってしたことないでしょう」
ねねは、悔しそうに唇を噛んだ。
「……光莉」
状況を見ていた瑠璃が、即座に指示を出した。
「常盤さんの部屋まで肩を貸してあげて」
「はい! 奏ちゃん、つかまって!」
光莉が慌てて駆け寄り、奏の腕を取ろうとした。 だが。
「待って」
ねねの手が、光莉の手をそっと、けれど断固とした力強さで制した。
「え……?」
「いいの。ありがとう、光莉ちゃん」
ねねは光莉の手を外すと、自分の細い腕を奏の脇の下に差し込んだ。
「この子は、私が連れて行くわ」
「で、でも、九条先輩一人じゃ……」
奏の方が背が高い。華奢なねね一人で支えるのは無理があるように見えた。
けれど、ねねは譲らなかった。その瞳には、「誰にも渡さない」という強い意志と、パートナーとしての責任感が宿っていた。
「大丈夫よ。……ほら、立つわよ、奏ちゃん」
「……先輩、重い、です……」
「いいから。……私につかまってなさい」
ねねは、奏の体重を一身に支え、ゆっくりと立ち上がらせた。
よろめく奏の腰を、ねねがしっかりと抱きとめる。物理的には重いはずだ。足取りもおぼつかない。 けれど、その姿は昨夜とは真逆だった。
雷に怯えて守られていた少女は、今、熱に倒れたパートナーを守るために、必死に前を向いていた。
「……行きましょ。私の部屋でゆっくり休ませてあげる」
ねねは、奏を庇うようにして出口へと歩き出した。
その背中は小さかったが、不思議と大きく見えた。
残された談話室。散らばったゴミと、静寂だけが残る。
「……行っちゃいましたね」
光莉が呆然と呟く。
瑠璃は、二人が消えた扉を見つめ、ふぅと小さく息を吐いた。
「……昨夜とは逆ね」
「え?」
「守られる側と、守る側。……二日とも意外な顔が見れたわ」
瑠璃はそう言って肩をすくめると、ゴミ袋を手に取った。
「さ、私たちも片付けを終わらせるわよ」
瑠璃はそう言って背中を向けると、昨夜のことを忘れようと淡々と作業に戻った。




