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先輩、私にだけ心の音がダダ漏れです。  作者: 如月白華


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熱帯夜の錯覚

 外の世界を隔絶するように、雨風が窓を叩き続けている。

 光莉の部屋は、停電によって空調が完全に沈黙し、密室特有の生温かい空気が、澱み始めていた。 湿度計の針は見えないが、呼吸をするたびに肺が重くなるような、ねっとりとした水分を感じる。


「……暑いわね」


 床に置かれたスマホのライトが、天井に向かってぼんやりとした光の柱を作っている。その薄闇の中で、西園寺瑠璃が不快そうに襟元を指で弾いた。首筋には玉のような汗が滲み、いつもは美しくなびく髪も、湿気を帯びて気怠げに頬に張り付いている。


「……そうですね。窓も開けられませんし」


 光莉も額の汗を拭った。狭い部屋に二人きり。互いの体温が逃げ場を失い、この空間の温度をじりじりと上げている。雨の匂いと、そして、微かに甘い――瑠璃の香水の香りだろうか――が、熱気混じりに漂ってくる。


「……限界だわ」


 瑠璃が短く呟くと、躊躇なく胸元のボタンに手をかけた。


「えっ、先輩?」


「ほかにないでしょう、こんな状態で」


 しゅる、と衣擦れの音が湿った空気に響く。瑠璃はシャツのボタンを一つ、また一つと外し、スカートのフックにも手をかける。躊躇いのない動作で布地が床に滑り落ちると、そこにはキャミソールと下着だけを身に着けた姿があった。


「……っ」


 光莉は息を呑んだ。スマホの間接照明が、瑠璃の身体を象牙色に浮かび上がらせている。華奢な鎖骨の窪みに、汗が溜まり、宝石のように光っていた。細い二の腕、滑らかな背中のライン。服を脱ぎ捨てたその姿は、あまりにも無防備で、艶めかしい。


「あなたも脱ぎなさい、光莉」


 瑠璃の声は、熱さのせいか、いつもより少し低く、潤んでいた。

 光莉がおずおずと視線を彷徨わせていると、瑠璃は濡れた瞳でこちらを見据えた。


「熱中症になったらどうするの。それに、わたし一人こんな格好おかしいじゃない」


 それは命令というより、どこか甘えたような響きを含んでいた。

 この暑さで思考が溶けているのだろうか。光莉は観念して、背中を向けて服を脱いだ。

 キャミソールと下着だけになり、肌が空気に触れると、少しだけ涼しさを感じたが、それ以上に心臓が早鐘を打っていた。


 二人は、シングルベッドの縁に並んで腰を下ろした。きしっ、とスプリングが沈む。

 肩と肩の間隔は数センチ。

 会話はない。ただ、互いの呼吸音と、外の雨音だけが聞こえる。じっとりと汗ばむ肌。上昇し続ける体温。自分の肌と、隣にいる瑠璃の気配が、熱で溶け合って境界線が曖昧になっていくような錯覚。


 その時。ぬるり、と。

 瑠璃の手が、シーツの上で光莉の手に触れた。


「……」


 少し湿った指先が、光莉の指に這うように絡んでくる。

 嫌ではなかった。むしろ、その生々しい感触と熱量が、鼓動を加速させる。


「……ありがとう、光莉」


 瑠璃が、ポツリと漏らした。

 その声には、普段の威厳ある響きはなく、ただの素直な少女の弱さが混じっていた。


「あの試験……わたくし一人では、絶対にクリアできなかった」


 絡めた指に、力がこもる。痛いほどに。


「最後、光莉の声が聞こえなくなったとき、……怖かったの。また一人になるんじゃないかって。でも、あなたは帰ってきてくれた」


 光莉は、横顔だけでその「音」を聞いていた。

 瑠璃の心から漏れ出すのは、安堵と、依存に近い感謝の響き。

 そして、その奥底にある――どろりとした、蜜のような執着。


「……私の方こそ、感謝してます」


 光莉は、絡められた手を握り返した。


「先輩の的確な指示があったからです。それに……」


 光莉は、自分の右耳に触れた。


「このイヤリングがなかったら、私は風の音なんて拾えませんでした。……これが、私を導いてくれたんです」


 瑠璃が、ゆっくりと顔を向けた。

 薄暗い部屋の中で、瑠璃の瞳が光莉を捉える。下から照らす頼りない光を受けて、二人の耳元のイヤリングだけが、小さなく冷たい光を放っていた。


「……きれい」


 瑠璃が、うわごとのように呟いた。

 その視線はイヤリングに向けられているようで、実はもっと奥――光莉の瞳そのものを覗き込んでいるようだった。


 熱い。


 瑠璃の視線が、物理的な熱を持って肌を焼くようだ。


(……先輩の音が、変わった)


 光莉の耳に届くノイズが、質を変える。

 感謝や安堵といった形のある感情が崩れ去り、もっと原始的な、衝動のような「音」が膨れ上がっていく。触れたい。確かめたい。


 瑠璃の瞳が、とろんと潤んでいる。

 そこには理性的な計算はなく、ただ目の前の「美しいもの」に吸い寄せられる、無防備な本能だけがあった。


 瑠璃の顔が、ゆっくりと近づいてくる。


(……先輩?)


 光莉の体が強張る。逃げようと思えば逃げられた。けれど、体が金縛りにあったように動かない。 いや、違う。逃げたくなかったのだ。この蒸し暑い闇の中で、理性を失いかけている瑠璃が、どうしようもなく愛おしかったから。


 近づいてくる甘い吐息。まつ毛の震えまで見える距離。

 瑠璃から溢れ出す心の音が、かつてないほど切なく、甘い旋律となって光莉の鼓膜を震わせる。


(……ああ)


 光莉は悟った。

 この距離は、もう、そういう距離だ。


 心臓が破裂しそうだった。

 けれど、光莉は拒絶しなかった。

 震える瞼を、静かに閉じる。


 ――熱い吐息が、鼻先にかかった。


 あと数ミリ。

 触れるか、触れないか。

 互いの引力だけで引き寄せ合う、その瞬間。


 パッと、世界が白く弾けた。

 部屋中の照明が一斉に点灯し、ブゥゥン、とエアコンが再起動の音を上げる。

 非常電源が復旧したのだ。無機質で鮮明な蛍光灯の光が、部屋の隅々までを容赦なく暴き出す。


「……っ!?」


 目前に迫っていた唇が、弾かれたように止まった。

 光莉が薄目を開けると、そこには至近距離で硬直する瑠璃の顔があった。


 目が合う。

 時間にして、わずか一秒。

 けれどその一秒で、瑠璃の瞳に理性の色が急速に戻ってくる。

 自分が今、何をしようとしていたのか。パートナーに対して、この距離で、無防備な顔を晒して。


 沸騰するような音が聞こえた気がした。

 瑠璃の顔が、首筋まで一気に朱に染まる。


「ひゃっ!?」

「あ、わ……っ!?」


 二人は弾かれたように飛び退き、ベッドの両端まで距離を取った。明るすぎる部屋の中、下着姿で、汗ばんで、顔を真っ赤にして向かい合う二人。あまりにも気まずい。

 さっきまでの濃密な空気は霧散し、代わりに耐え難い羞恥が押し寄せる。


「あ、あ、あのっ!」


 瑠璃が裏返った声で叫び、床に落ちていたブラウスをひったくった。


「ふ、服! 着るわ! 」


「は、はい! 私も着ます!」


 二人はパニック映画の登場人物のような速さで、背中を向け合って着替え始めた。

 ボタンを掛け違え、スカートに足を引っかけそうになりながら、必死に「日常」という鎧を纏い直す。


 数分後。どうにか服を着た光莉は、まだ高鳴っている心臓を押さえながら、チラリと瑠璃を見た。瑠璃は窓際で腕を組み、不自然なほど背筋を伸ばして、窓の外を見つめていた。

 その耳は、まだ熟れた果実のように赤い。


(……しなかった)


 光莉は自分の唇にそっと指を当てた。熱い吐息の余韻だけが残っている。

 もし、あと一秒、電気が点くのが遅かったら?


 外の嵐は過ぎ去ったが、光莉の心の中には、もっと厄介で甘苦しいモヤモヤが焼き付いてしまったようだった。

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