計算外
奏の部屋は、談話室よりもさらに深い静寂と闇に包まれていた。
外の嵐の音だけが、壁一枚隔てて轟々と唸っている。
カチッ。
小さな音がして、部屋の隅にほのかな明かりが灯った。
奏が防災用リュックから取り出した、乾電池式のランタンだ。
暖色の頼りない光が、無機質な部屋をぼんやりと照らし出す。その光の先、シングルベッドの上には、薄手の毛布にくるまり、芋虫のように丸まっている「塊」があった。
「……うぅ……」
毛布の中から、押し殺したような嗚咽と、うわごとのような呟きが漏れてくる。
「……誰もいない……ママ……」
九条ねねは、過去の幻影の中にいた。幼いころ、一人残された家で遭遇した暴風雨。
その記憶に侵されていた。普段の余裕に満ちた彼女からは想像もつかない、脆く、壊れかけた姿。
奏はランタンをサイドテーブルに置くと、ベッドのそばに立った。
「九条先輩」
呼びかけるが、反応はない。ねねは両手で強く耳を塞ぎ、外界を拒絶している。
再び雷鳴が轟く。
ねねの体がビクリと跳ね上がり、さらに強く毛布を頭から被り直した。
「……いやっ! ……怖い、こわい……っ」
「大丈夫です。ここは寮です。頑丈ですし、そんなおびえる必要はありません」
奏は努めて冷静な声で語りかけた。そうして不安を取り除けると思ったからだ。
だが、ねねの震えは止まらない。彼女が見ているのは現実の雷ではなく、記憶の中に焼き付いた孤独な嵐なのだ。冷静な言葉も事実も、今の彼女には届かない。
(……どうすれば)
奏は立ち尽くした。
彼女にとって、こうした感情への対処は専門外だ。けれど、目の前で震えるこの人を、ただ見ていることなどできなかった。
(……遮断するしかない)
奏の中で、一つの結論が出た。
彼女を怯えさせている音を、物理的に塞ぐ。そして、彼女が今いる「孤独な過去」から現実へと引き戻す。
そのためには――。
ギシッ。
ベッドが沈んだ。奏は静かに、躊躇なくベッドへと上がり込んだ。
「……っ!?」
気配を感じたのか、ねねが毛布の隙間から顔を上げる。
ランタンの光を受け、涙で濡れた瞳が大きく見開かれた。その視界いっぱいに、奏の顔が迫る。
「……かな、でちゃ……?」
ねねが名を呼ぶより早く、奏は正面から、その体を抱きしめた。
「……っ!」
ねねの息が止まる。
逃げ場のないベッドの上。奏の両腕が、毛布の中でねねの背中に回り、強く引き寄せる。
そして。震えているねねの両耳を、手のひらでふわりと覆った。
奏の手の温もりが、雷鳴を遮断する。
「……」
ねねが、奏を見上げる。
奏は、その濡れた瞳を真っ直ぐに見つめ返すと、ゆっくりと顔を寄せた。
覆った手のひらの隙間。頬に唇が触れそうなほどの距離。
「……私がここにいるから。大丈夫です」
耳元に、吐息と共に囁きが吹き込まれる。
「安心してください。……私が守りますから」
その声は、鼓膜ではなく、脳髄に直接響くようだった。
ドクン。
ねねの胸の奥で、小さな火花が散った。
雷の恐怖とは違う。もっと熱く、痺れるような動悸。奏の吐息が耳にかかるたび、背筋がゾクゾクと粟立つ。
(……な、に……これ……)
ねねは混乱した。
いつもなら、私の方から揶揄うように抱きついている。肌が触れることなんて慣れているはずだった。
なのに、どうして。奏に抱きしめられている今、指一本動かせないほど体が熱い。
奏は、ねねの反応など気にする様子もなく、背中に手を回すとさらに腕に力を込めた。
ぎゅうう、と。ねねの柔らかい体が、奏の華奢だが芯のある体に押し付けられる。
ねねの胸が押し潰され、互いの体温が境界線を溶かしていく。
私が守ります。
そんな奏の無言の意思に絡め取られ、ねねは抵抗する力を失った。気づけば、彼女は奏の胸に顔を埋めていた。
(……聞こえない)
あんなに怖かった雷の音が、遠い。
代わりに聞こえてくるのは、耳元で響く、トクトクトクという規則正しいリズム。
奏の心音だ。彼女らしく、こんな時でも乱れない、静かで力強い音。
その音が、嵐に怯えていたねねの心を、ゆっくりと現実に繋ぎ止めていく。
(……あったかい)
奏の匂い。奏の体温。奏の音。世界には今、それしかない。
恐怖で凍りついていた思考が、熱でぼんやりと溶かされていく。
――ドクン、ドクン、ドクン。
ふと、ねねは気づいた。奏の静かな心音に重なるように、もう一つ、尋常ではない速さで脈打つ音が響いていることに。
それは、自分自身の心臓の音だった。
(……変ねぇ)
ねねは、奏の制服を握りしめながら、ぼんやりと考えた。
雷はもう怖くない。なのに、どうしてこんなに心臓がうるさいの?
どうして、この腕から離れたくないと思ってしまうの?
奏は「利用する相手」だ。自分の自由を勝ち取るための、最高の「道具」。
最初はそう思っていた、そのはずなのに。
(……ああ、そっかぁ)
ねねは、溶けていく思考の中で、ストンと落ちてくる答えを受け入れた。
抗えない引力。内心、どこかで気が付いた蓋をしていた感情。
私は、この子が好きだったんだ。
打算でも、戦略でもなく。
ただ、この不器用で真っ直ぐな、氷のように美しい「常盤奏」という人間が、どうしようもなく愛おしいのだ。
これじゃあ、もうダメじゃない。
勝つために利用して、それだけでよかったのに。
こんなに心臓がうるさくて、こんなに体温が恋しくて。
(……こんな大好きで、どうするのよぉ)
そう自嘲しながらも、ねねの腕は正直だった。
離れたくないと訴えるように、奏の背中にそっと腕を回す。甘い敗北感が、全身を包み込んでいく。
ねねは、奏の背中にそっと腕を回した。
ランタンの灯りが揺れる。二人はそのまま、互いの鼓動を確かめ合っていた。




