雷鳴
天穹学院での試験を突破して数日がたった。
外は生暖かく湿った風が吹き荒れていたが、寮の談話室には、ささやかだが温かい空気が満ちていた。
「――んーっ! おいしいぃ~!」
九条ねねが、甘い炭酸ジュースを一口飲み、ソファに深く背を預けて脱力した。 テーブルの上には、みんなで持ち寄ったスナック菓子やスイーツが所狭しと並んでいる。
「まさか、あの仮想空間があんな仕掛けになってるなんてねぇ。私、途中で諦めてお昼寝しようかと思ったわぁ」
ねねはチョコをかじりながら、冗談めかして笑った。
「……実際、座り込んでいましたよね。私の指示がなければ負けているところでした」
隣で常盤奏が、呆れたようにポテトチップスをつまむ。 けれど、その口調には険がない。助け合った仲間への、労いのような響きが含まれている。
「ふふ、いいじゃない。結果オーライよぉ。……それにしても」
ねねは、視線を向かいのソファへ投げた。
「西園寺さんのペアも、やるわねぇ。あの試験、私たちより早く抜けたんでしょう?」
「ええ、まあ」
瑠璃は紅茶のカップを優雅に傾けた。 その横顔には、試験中の緊張感はなく、解き放たれた安堵と自信が滲んでいる。一番乗りではなかったものの、かなりの好タイムでクリアできたことは事実だ。
「光莉のおかげよ。……あの子が『風』を見つけなかったら、わたくしたちも危なかったわ」
瑠璃の視線が、隣の光莉に向けられる。そこにあるのは、全幅の信頼。光莉は照れくさくなって、オレンジジュースのグラスについた水滴を指でなぞった。
「……まぐれです。先輩の言葉がなかったら、パニックで終わってました」
「ふふ、謙遜しないの。……乾杯しましょ」
四人はそれぞれのグラスを軽く掲げ、カチンと涼やかな音を鳴らした。
ささやかな祝勝会。本来なら、ここにあと二人の姿があるはずだったのだが。
「……御鏡さんたち、来なかったわね」
瑠璃が、空席を見つめて呟く。光莉たちが声をかけた時、風紀委員長の御鏡聖良は、冷ややかな目でこう言い放ったのだ。『馴れ合いになど興じる暇はない。仕事がある』と。後ろにいた五十嵐すずは、行きたそうにこちらをチラチラ見ていたけれど、結局は聖良の背中を追って行ってしまった。
「ま、あの堅物さんには、この『空気』は毒かもねぇ」
ねねがクスクスと笑う。
窓の外では、風の音がヒュウヒュウと唸りを上げ始めていた。予報では、大型の台風が接近しているらしい。窓ガラスがガタガタと小刻みに震えるたび、ねねの視線がふと宙を彷徨う。
「……天気、荒れてきましたね」
光莉が不安げに窓を見上げた、その時だった。
――ピカッ。
不意に、窓の外が青白く発光した。
一拍遅れて低い音が響き渡る。
建物を揺らすような、腹に響く轟音。 近くに落ちた。
光莉が思わず肩を震わせたのと同時に、向かいのソファから「ひっ」という、短い息を呑む音が聞こえた。
見ると、ねねが体を硬直させ、膝の上で握りしめた手が小刻みに震えている。
「……九条先輩?」
光莉が声をかけようとした瞬間、再び閃光が走る。
二発目の雷鳴。 その瞬間、談話室の照明がプツリと消えた。
「――っ!?」
ねねの短い悲鳴が闇に吸い込まれる。。停電だ。空調の音も消え、代わりに窓の外の風雨の音だけが、急にボリュームを上げて室内に侵入してくる。
暗闇の中、ガタンと何かが動く音がした。すぐに奏がスマホのライトを点灯させる。
白い光線が闇を切り裂き、ソファの上のねねを照らし出した。
「……」
光莉は息を呑んだ。
光の中に浮かび上がったねねは、ソファの上で膝を抱え、耳を強く塞いでいた。
その姿からは、いつもの妖艶さも、底知れない計算高さも、ごっそりと抜け落ちていた。
表情はない。血の気もなく、ただ、こわばった唇が何かを拒絶するように小刻みに震えているだけ。
「……九条先輩、大丈夫ですか」
奏の静かな声がした。
奏はスマホをテーブルに置くと、その肩に手を置く。
「……やだ……」
ねねが、うわ言のように漏らす。
「……怖いのは、やだ……」
その指先が、すがるように奏の制服を掴む。
普段はねねに振り回されている奏が、今は守るように彼女を支えていた。
「……部屋に、戻りましょう」
奏が短く告げた。
「このままここにいても回復しないでしょう。私の部屋ならここから近いですし、ランタンもあります」
奏は、ねねの腰に手を回し、立たせようとする。
ねねは足に力が入らないのか、ぐらりとよろめいたが、奏がしっかりと支えた。
「西園寺先輩、小林さん。お先に失礼します」
奏は一礼すると、ねねを抱えるようにして出口へと向かった。
ねねはもう、何も言わなかった。ただ、奏の体温だけが唯一の命綱であるかのように、必死にしがみついていた。
二人の足音が、遠ざかる雷鳴の中に消えていく。
談話室には、瑠璃と光莉の二人だけが残された。
スマホのライトが作り出す、明かり越しに二人は顔を見合わせた。
「……意外ね」
沈黙を破ったのは瑠璃だった。
「九条さんが、あんな風になるなんて」
「……はい。私も驚きました」
光莉は、先ほどのねねの姿を思い返していた。いつもおどけたような仮面をかぶる彼女が、あんなにも剥き出しの怯えを見せるなんて。
「……私たちも戻りましょうか」
瑠璃が立ち上がり、自分のスマホを手に取った。
光が揺れる。その時、ゴロゴロと遠雷が響いた。
ビクッ、と瑠璃の肩がわずかに跳ねる。
「……」
瑠璃は何食わぬ顔で歩き出そうとしたが、その歩幅はいつもより狭く、慎重だった。
光莉は、そっとその手に自分の手を重ねた。
「先輩」
「……なによ」
「私の部屋に行きませんか? 階段を使って先輩の部屋まで戻るのは、この暗さだと危ないですし」
それは建前だ。
本当は、この暗闇の中、先輩を一人で歩かせるのが心配だった。
そして自分も、誰かの体温を感じていたかった。
瑠璃は、重ねられた手を見つめ、それからふっと小さく息を吐いた。
「……そうね。お言葉に甘えるわ」
瑠璃の手が、光莉の手をギュッと握り返してくる。
少し冷たくて、でも確かな熱を持ったその感触。
「行きましょう、光莉」
二人は身を寄せ合い、頼りない光を頼りに、闇に沈んだ廊下を歩き出した。
窓の外では、まだ嵐が唸りを上げている。
この長い夜は、まだ始まったばかりだった。




