耳を信じて
三つのエリアを突破し、光莉が足を踏み入れたのは、広大な「無」の空間だった。
白い床がどこまでも続いている。だが、数メートル進んだところで、ドン、と見えない何かにぶつかった。
「……壁? いえ、見えませんけど、何かに阻まれました」
光莉は手を伸ばして空間を探る。硬質な感触がある。
どうやら、見えない壁の中に閉じ込められたようだった。
『……光莉、どうしたの。状況を報告して』
「それが……何もないんです。……ただ、見えない壁があるだけで」
光莉は焦って周囲を見回すが、ヒントになりそうなものは何一つない。
瑠璃の指は動きを止めていた。何も見えないのであれば、自分にできることは何もない。
手元の端末には「NO DATA」の文字が表示されているだけ。やみくもに検索しても、結果は返ってこなかった。
『……そんな』
瑠璃の声に、珍しく焦燥が滲む。
時計の針は無機質に進んでいく。光莉は闇雲に動き回るが、どこへ行っても透明な壁にぶつかるだけだ。
「どうしよう、先輩……分かりません、出口がどこにも……!」
呼吸が荒くなり、酸素が足りない脳がくらくらと鈍い痛みを発する。孤独な空間で、思考がパニックに塗りつぶされそうになった時。
何度目かの壁にぶつかった瞬間、耳から冷たい感触が脳を駆け巡った。
(……先輩がくれたイヤリング。先輩が、私のために……)
光莉は足を止め、大きく息を吸い込んだ。
落ち着け。自分を信じろ。右耳に手が伸びる。指先で触れると、冷たい金属なのに、不思議とそこから熱が伝わってくるようだった。
あの日、二人で選んだ約束の証。
(……先輩が、ついている)
耳が熱くなるのを感じながら、光莉は目を閉じた。
視覚情報に頼るのをやめ、感覚を研ぎ澄ませる。
自分の五感の中で、最も鋭敏な耳を信じる。
ヒュゥ……。
微かな、本当に微かな音が聞こえた。
完全密閉されたはずの空間に流れる、風の音。
「……風?」
光莉はその音の方へとゆっくり歩き出した。目を閉じたまま、見えない壁に手を添え、指先でその表面を滑らせていく。
ツルツルとした感触の中に、一点だけ、指に風が当たる場所があった。隙間だ。
「……見つけました」
光莉は、その隙間を指でなぞるように動かした。
その瞬間。透明な壁が青白く発光し、光の粒子となって霧散していく。
『光莉!? 今、なんて……?』
「開きました! ゴールが、目の前に!」
壁が消えた先に、眩い光の出口が現れた。
光莉は迷わず、その光の中へと飛び込んだ。
*
排気音と共に、コクーンのハッチが跳ね上げられた。
現実世界の空気が流れ込んでくる。光莉は上体を起こし、眩しさに目を細めた。
まだ平衡感覚がおかしい。ふらりと身体が揺れた、その時。
「光莉っ!!」
ふわりと、柔らかな衝撃と花の香りに包まれた。
瑠璃が、コクーンから出てきたばかりの光莉に抱きついていたのだ。
「せ、先輩……?」
「……心配したのよ」
耳元で、震える声がした。
瑠璃は、光莉の背中に回した腕にギュッと力を込めた。
「……応答が曖昧になるし、データは見つからないし……どうなったのかと……」
光莉が「無」の空間で沈黙していた数分間。
観測者である瑠璃にとって、それは永遠にも似た恐怖の時間だった。
けれど、彼女は周囲に隙を見せることはできなかった。
表情を崩すことも叫ぶこともできず、ただ一人、タブレットの前で孤独と不安に耐え続けていたのだ。
「……ごめんなさい。でも、先輩のおかげで……」
光莉が言いかけると、瑠璃はハッとしたように身体を離した。
周囲に人がいることを思い出し、慌てていつもの「白嶺の宝石」の仮面を被り直す。
けれど、その目尻はほんのりと赤く、隠しきれない安堵が滲んでいた。
「……そこまでだ」
立会人の山城が、タブレットを見ながら近づいてきた。
彼女冷静な瞳で二人を見下ろし、告げた。
「西園寺・小林ペア。……クリアタイム、第三位」
「……っ!」
「通過だ。……おめでとう」
その言葉を聞いた瞬間、光莉と瑠璃は顔を見合わせ――そして、どちらからともなく、小さく笑い合った。
汗ばんだ手と手が、固く握りしめられる。二人の夏、一つ目の試練を、彼女たちは確かな「絆」で乗り越えたのだった。




