亀裂
完璧なツアーは、島の中心にある庭園で終わろうとしていた。
入学式の後に連れられてきたところだ、と光莉は思い出す。だとすると、次の説明はきっと――。
「……そして、あれが、島のすべてを司る管理塔。わたくしたちが目指す場所よ」
瑠璃は塔を見上げ、満足げに光莉を振り返った。
「これで、だいたい案内できました。どうだったかしら?」
どう、と聞かれても。
光莉は言葉に詰まった。
「すごかったです」と言えば、この時間は円満に終わるのだろうか。
また明日から「安寧」に戻れるかもしれない。
けれど。
(……この人は一生、この窒息しそうな箱の中で生きていく気なの?)
瑠璃と半日歩いてわかった。この人には、隙が無い。
まるで、光すら入る隙間のない密室に閉じ込められたようで。
けれど時折、瑠璃が言葉に詰まる瞬間だけ、あの一瞬の「ゆらぎ」が聞こえる。
そのわずかな不協和音が聞こえるたびに、光莉の心臓はトクン、と奇妙なリズムを刻んだ。
もっと聞きたい。
この完璧な旋律が乱れ、その下にある本音が溢れ出す瞬間を。
「……あの、西園寺先輩」
光莉はポケットの中で手をを強く握りしめた。
「案内、ありがとうございました。すごい場所だっていうのは、わかりました」
光莉は顔を上げ、瑠璃の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でも、私は、先輩のことが知りたいです」
「……え?」
瑠璃の笑顔が、一瞬だけ停止した。一時停止のボタンを押したように。
「先輩は……どうして、そんなに、『完璧』なんですか?」
それは、純粋な疑問であり、悲痛な叫びでもあった。どうして、そんなに隙間なく壁を作って、自分を閉じ込めているんですか。苦しくないんですか。私はその「音」を聞いているだけで、こんなに苦しいのに。
「……っ」
瑠璃の顔から、表情が抜け落ちた。風が止まる。
光莉の耳に届いていた「完璧な」音が、ブツリと途切れた。後に残ったのは、ただの沈黙。
瑠璃は、無意識に半歩、後ずさった。
その瞳が、激しく揺れる。怒り、恐怖、動揺?
さっきまでの「ガイド音声」の裏に隠されていた、生身の感情の濁流が、一瞬だけ決壊したダムのように溢れ出した。
(……やっぱり)
光莉は確信した。こっちだ。この震えている姿こそが、この人の本当の「音」だ。
「……なにを」
絞り出すような、か細い声。
「なにを、言って……」
だが、その露呈は一瞬だった。
瑠璃は唇を強く噛み締め、大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間、彼女の周囲に、再び分厚い壁が出現した。
「……おかしなことを言うのね」
戻った。
けれど、さっきまでの余裕はない。人を拒絶するための、冷徹な「仮面」。
「『完璧』でいること。それは、この神輝島で、西園寺の人間として求められる最低限のこと」
声の温度が、氷点下まで下がる。
「わたくしが『完璧』でなければ、誰も、ついてはこないでしょう?」
それは答えのようでいて、これ以上の侵入を許さない「拒絶」だった。
光莉が触れようとした本質を、頑丈なシャッターで遮断する音。
「……ごめんなさい。用事を思い出しましたわ」
瑠璃は、もう光莉と目を合わせようとしなかった。
「案内はこれで終わりです。寮までは一人で戻れますわね?」
言うが早いか、瑠璃は光莉に背を向け、学園の方角へと早足で歩き出した。
その背中は、見えない棘があるようで、手を伸ばすことができなかった。
*
一人、広場に取り残された光莉は、遠ざかる白い背中を見送った。
(……私、また)
胸の奥が、ずきりと痛む。
踏み込みすぎた。 「知りたい」というエゴで、あの人が必死に守っていた領域を荒らしてしまった。
(また、人の距離に土足で入り込んで、壊しちゃった……?)
執行委員会室で言った「邪魔になる」という言葉が、ブーメランのように戻ってきて突き刺さる。
結局、邪魔しちゃってる。
私が近づくと、あの人は動揺し、傷つき、そして余計に分厚い壁ができてしまう。
私の存在そのものが、あの人の呼吸を乱すノイズになっているんじゃないか。
(……やっぱり、私なんかが触れちゃいけなかったんだ)
光莉は、重い足取りで寮への道を戻った。
今日、ずっと見せられた素敵な景色は、今やすべて色あせて見えた。
寮の部屋に戻ると、隣室から智香が飛び込んできた。
「どうだった!? どうだった!? デート!」
その無邪気な声が、今は少し痛い。
「……ごめん、智香ちゃん」
光莉はベッドに倒れ込んだ。
「……ダメだった。私、多分、あの人を怒らせた」
「ええっ!?」
智香の驚く声を聞きながら、光莉は天井を見上げた。
耳に残っているのは、最後に聞いた、瑠璃の拒絶の音。あれは、怒りの音じゃなかった。自分の弱さを守るために、必死で扉を閉める音だった。
その扉をこじ開ける資格は、きっと私にはない。
光莉は、深く目を閉じて、再び自分だけの「静寂」の中に閉じこもろうとした。




