逃避行
翌朝。
九条家の広い居間には、カチャカチャと食器の触れ合う音だけが響いていた。
「……あ、あの、お醤油取ってもらえますか」
「え、ええ。……どうぞ」
「ありがとうございます……」
光莉と瑠璃は、互いに視線を合わせることができず、醬油を手渡す手つきもどこかぎこちない。
目が合いそうになると、パッと逸らす。昨夜の布団の中での出来事――触れそうになった唇と、熱っぽい吐息の記憶が、鮮明に蘇ってしまうからだ。
「あらあら、どうしたの二人とも。まだ眠いのぉ?」
事情を知らないねねが、焼き魚を突きながら不思議そうに首を傾げる。
横で控えていた二見が、助け舟を出すように口を開いた。
「お嬢様。……帰りの船ですが、夕方の便を手配しております。それまでのお時間はどうなさいますか?」
「そうねぇ……」
ねねは少し考えると、名案を思いついたように手を叩いた。
「行きたいところがあるわ。……ここから少し行った郊外に、大きなショッピングモールがあるのよ」
「モール、ですか?」
「ええ。島の中にはああいう大型商業施設はないでしょ? たまにはいろんなお店を見て回りたいと思って」
*
二見の運転する車で二十分ほど走ると、広大な駐車場を備えた巨大なショッピングモールが現れた。
吹き抜けの広い店内には、ファッション、雑貨、カフェなど、無数のテナントが並んでいる。
「わぁー! 広い! 久しぶりに来たかも、こういうところ!」
智香が目を輝かせて駆け出す。
一行は、まずは若者向けのファッションフロアへと向かった。
「……それで、九条先輩。なぜ私の腕を掴んでいるんですか」
興味なさげに歩いていた奏が、自分をロックオンしているねねに抗議する。
「決まってるじゃない。……今日は、あなたに服を買うのよ」
「……は?」
いつも冷静な奏が、間の抜けた声を上げた。
「私、服なら持っています。数も十分ありますし」
「そんなこと言ってあなたの私服、バリエーションがないじゃない。そういう実用性一点張りなのがダメなのよぉ!」
ねねは、奏の着ている飾り気のない私服を指差した。
「せっかく可愛い顔してるのに、いつも同じような格好ばっかり。……今日は私がトータルコーディネートしてあげるわ」
「いえ、結構です。予算もありませんし」
「お代は私が持つわよぉ。いつも構ってくれてるお礼ってことで!」
「でも……」
「問答無用! ほら、行くわよ!」
ねねは有無を言わせぬ力強さで、奏をファンシーな洋服店へと引きずり込んだ。
智香も「わぁっ! 私も選びたいです!」と嬉々としてついていく。
「これなんかどう? ガーリーじゃない!」
「もう少し動きやすい服はないんですか」
「もー、理屈っぽいなぁ! じゃあこっちは!?」
試着室の前で始まる、賑やかなファッションショー。
奏が着せ替え人形にされている様子を、少し離れた場所で光莉と瑠璃は眺めていた。
「……ふふ。奏さん、大変そうですね」
光莉が苦笑すると、隣の瑠璃がそっと近づいてきた。
「……ねえ、光莉」
耳元で、内緒話をするような囁き声。昨夜の記憶がフラッシュバックして、光莉の肩が跳ねる。
「は、はいっ?」
「……あっちが盛り上がっている隙に、抜け出しましょう」
瑠璃は、ねねたちに気づかれないよう、目で合図を送った。
「二人で、他のお店を見に行きたいの。……ダメかしら」
上目遣いの、少し恥ずかしそうな瞳。
それは、喧騒の中で二人きりになりたいという、明確なデートの誘いだった。
「……いえ! 行きましょう、先輩!」
光莉は大きく頷いた。
お互い気まずさは残っているけれど、それでも瑠璃から誘ってくれたのだ、ということが光莉にはうれしかった。
二人は、試着室で「このスカート短すぎませんかっ!?」と抗議する奏の声を背に、そっとその場を離れた。
広いモールの中。二人だけの時間が、始まろうとしていた。




