旅行の始まり
波を切る音と、エンジンの低い振動。
夏休み最初の週末。本土へと向かう高速船の窓から、白い水飛沫が見えた。
(……懐かしい)
光莉は、流れる景色を見つめながら、数ヶ月前のことを思い出していた。四月。桜の舞う季節。
あの時、光莉はたった一人で、鉛のように重い憂鬱を抱えてこの海を渡った。耳にはイヤホンを詰め込み、周囲の期待や不安という「ノイズ」を必死に遮断して。世界は灰色で、どこにも居場所なんてないと思っていた。
けれど、今は。
「見て見て光莉ちゃん! あの雲、ソフトクリームみたい!」
「……遠山さん。視覚情報が食欲に直結しすぎです」
「えへへ、だって美味しそうなんだもん」
智香が窓に張り付いてはしゃぐと、向かいの席の瑠璃がふっと口元を緩めた。
「ふふ。……確かに、甘くて冷たそうね」
隣には智香がいて、その向こうには奏とねねがいて、そして瑠璃がいる。
重なり合う笑い声。それは、不協和音ではなく、明るく跳ねるようなメロディ。
(……あの頃の私が今の私を見たら、なんて思うだろう)
信じられない、と首を横に振るだろうか。それとも、よかったね、と笑ってくれるだろうか。
光莉は胸の奥で炭酸の泡が弾けるような、「期待」の音が鳴るのを感じていた。
*
四十分ほどの船旅を終え、一行は本土の港に降り立った。タラップを踏みしめる感触。
アスファルトからの照り返しは強いけれど、島特有の湿り気を帯びた重い風とは違う、どこか乾いた風が頬を撫でる。
「……空気が、違いますね」
光莉が呟くと、隣を歩いていた瑠璃が目を細めた。
「そうね。この空気、過ごしやすいわ。……そういえば光莉、あなたの実家はどちらだったかしら」
「あ、私は長野です。山ばっかりで、海なんて全然ないところですけど」
「長野……避暑地としては悪くないわね。いつか案内しなさい」
「えっ、あ、はい! 何もないところですけど……」
そんな他愛のない会話をしながら、ねねの先導でターミナルを出る。
駐車場に向かうと、一台の大きな車が停まっていた。どこかレトロで丸みを帯びた、かわいらしい車だった。
「あっ! 二見さーん!」
車から降りる人影見つけた瞬間、ねねが声を上げた。普段と違い、実家に帰ってきた子供らしく、無防備な笑顔で駆け寄る。
車の前に立っていた女性――落ち着いた紺色のワンピースを着た、二十代後半くらいの女性が、ねねを見て顔を綻ばせる。
「お嬢様! おかえりなさいませ!」
「ただいまぁ! 会いたかったわぁ!」
ねねは勢いよく女性の手を取った。女性――二見は、慈しむようにその手を握り返した。
「ふふ、また少し背が伸びましたか? ……お元気そうで何よりです」
「もう、子供扱いしないでよぉ。……あ、みんな! 紹介するわね!」
ねねは振り返り、光莉たちを手招きした。
「うちの家政婦をしてくれてる、二見さんよ。私が小学生の頃から、ずっと面倒を見てくれてるの」
「はじめまして。二見と申します」
二見は、柔和な顔立ちを崩さず、品の良いお辞儀をした。
使用人としての礼儀正しさの中に、ねねの友人たちを歓迎する温かい色が滲んでいる。
「お嬢様からお話は伺っております。ご学友の皆様ですね。……遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
簡単な自己紹介を済ませ、全員が車に乗り込む。
運転席には二見が座り、慣れた手付きでハンドルを握った。
車は滑らかに走り出し、港湾エリアの工業地帯を抜けていく。
しばらく走ると、車窓の景色が変わった。
「大きい街ですね」
光莉が声を漏らす。彼方の空を横切るように、コンクリートの高架橋が伸びている。
ちょうど、流線型の白い車両が音もなく滑っていくのが見えた。新幹線だ。
この街が、単なる港町ではなく、交通と経済の要衝であることを物語っている。
「あっ! 見て見て! 路面電車が走ってる!」
智香が窓に張り付いて歓声を上げた。大通りの真ん中を、ガタンゴトンと音を立てて走るレトロな車両。
その横を自動車が追い越していく光景は、この街特有の懐かしさと新しさが同居する空気を象徴しているようだった。
「……ここが、九条先輩の育った街」
通路を挟んで隣の席で、奏が小さく呟いた。その視線は、流れる街並みを食い入るように見つめている。
いつもなら硬質な音のする奏の心から、今は違う音が聞こえる。
あの掴みどころのない先輩のルーツを知ることで、彼女との距離を測り直そうとしているような、柔らかい音色。
(……奏さんも、いつもより優しい顔してる)
光莉が微笑ましく思っていると、前の席から瑠璃の声がした。
「あら、あれは役所かしら? ……ロマネスク様式の立派な建築ね」
「ほんとだー! 屋根が丸くて可愛い! この街、なんかオシャレですね!」
瑠璃もまた、窓の外の建造物を指差しながら、智香と楽しそうに話している。
学校の中でまとっている空気は控えめで、ただの好奇心旺盛な少女の姿があった。
和気あいあいとした空気の中、車は市街地の喧騒を抜け、静かな住宅街のある小高い丘の方へと進んでいく。やがて、手入れされた木々の向こうに、立派な門構えが見えてきた。
「着いたわよ」
ねねが、短く息を吐き出し、努めて明るい声で言った。
「ここが、私の実家」
木漏れ日の中、街を見下ろすように建つ重厚な日本家屋。
その佇まいは、重厚な雰囲気を持って五人を出迎えた。




