天才の動機
どれほどの時間が経っただろうか。
霧が深さを増し、世界から音が消えたような静寂の中。
藍染恵夢の身体は、もはや人間のそれとは呼べなかった。
白磁の肌を埋め尽くす、鮮烈な極彩色。幾何学模様のようであり、太古の呪術的な紋様のようでもある。
筆のタッチは荒々しく、しかし計算され尽くしており、恵夢の呼吸に合わせて色が脈打つたびに、それは「生きた彫刻」としての存在感を放っていた。
御鏡聖良は、言葉を失っていた。風紀委員として「破廉恥だ」と叫び、服を着せるべき場面だ。
だが、その圧倒的な完成度の前に、声が出ない。ただの肢体ではない。それは、何か聖なる儀式の祭具のように、犯しがたい空気をまとっていた。
「……うん。今日のこれが、一番いいね」
真白霧子が、筆を置いて満足げに呟いた。
彼女は自分の指についた絵具を頬に塗り付けながら、呆然としている二人に向き直った。
「君たちも、そう思うだろう?」
同意を求めるというよりは、事実の確認だった。聖良は唇を噛み、視線を泳がせた。認めたくない。けれど、否定する言葉が見つからない。沈黙が落ちた、その時。
「……専門的なことはよくわかりませんが」
五十嵐すずが、ぽつりと口を開いた。その瞳は、無機質に、しかし真っ直ぐに恵夢を捉えていた。
「綺麗だと思います。……データにはない配色ですが、視覚的に、とても惹かれます」
それは、打算のない純粋な感想だった。
霧子はぱあっと表情を明るくし、満足げに頷いた。
「そうだろう、そうだろう! 君、見る目があるねぇ」
霧子は嬉しそうに恵夢の肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「聞こえたかい、恵夢? 『綺麗』だってさ」
「……あ」
恵夢の背筋がぞくりと震えた。元々、誰からも羨まれるほどの美貌と、モデルとしての完璧なプロポーションを持つ彼女だ。「綺麗」などという言葉は、聞き飽きるほど浴びせられてきたはずだった。けれど今、霧子を通して与えられたその言葉は、特別な響きを持っていた。
自分という器が、霧子の色で満たされ、認められた。
その充足感。恵夢の瞳が潤み、陶酔の表情が浮かぶ。また今日も、私は霧子さんの作品になれた。
その喜びが、電流のように身体を貫いていた。
「……彩苑の試験は、定期的な作品の提出で評価されるんだ」
霧子は、まだ熱を帯びている恵夢の身体をスマホのカメラで撮影しながら、ついでとばかりに説明した。
「これが僕たちの『試験勉強』さ。……君たちの学校みたいに、机にかじりつくだけが勉強じゃないんでね」
「……これが、勉強だと?」
聖良はようやく我に返り、乾いた声を絞り出した。あまりにも価値観が違いすぎる。だが、結果として目の前に「圧倒的な成果物」がある以上、反論は虚しい。
「……一つ、聞かせろ」
聖良は、霧子を睨みつけた。
「貴様は……それほどの才能がありながら、なぜ生徒会選挙などに出ている? 政治や統治になど、興味はないだろう」
これほどの芸術家気質の人間が、学園の頂点に立って指揮を執る姿など想像もつかない。
聖良の問いに、霧子は恵夢に「もう服を着ていいよ」と合図を送ってから、肩をすくめた。
「興味? ないね。面倒くさいだけだ」
「ならばなぜ……」
「たまたまさ。僕が学校で一番の成績だった、ただそれだけのこと」
オッドアイが、妖しく笑う。
「辞退してもよかったんだけどね。……でも、思ったんだ」
霧子は、地面に置いた絵具箱を拾い上げ、聖良の目を覗き込んだ。
「せっかくこの島に来たんだ。この退屈で、モノクロームな権力争いを……僕の色で塗りつぶしてみるのも、面白いかなって」
「……っ」
塗りつぶす。その言葉は、聖良の背筋を冷たく撫でた。
彼女は、権力を欲しているのではない。この戦いそのものを、自分のキャンバスにしようとしているのだ。
「帰ろうか、恵夢」
「はい、霧子様」
制服を着直した恵夢が、従順に寄り添う。
あの制服の下、その肌には未だ極彩色が隠されているのだと思うと、聖良は得体の知れない目眩を感た。
二人の背中は、霧の中へと溶けるように消えていく。
「……なんだったんですか、あれは」
すずが、呆気にとられたように呟いた。聖良は深く息を吐き、襟を正した。
「……わからん。だが」
聖良は、二人が消えた霧の奥を睨み据えた。
「とんでもない『異物』が混ざり込んでいることだけは、確かだ」
雨上がりの冷気の中、聖良とすずは、重い足取りで学園への帰路についた。
その脳裏には、あの毒々しくも美しい色彩が、いつまでも焼き付いて離れなかった。




