霧の中の極彩色
学園の敷地を一歩出ると、空気の質が変わる。
管理された人工的な庭園の香りが消え、湿った土と濃い匂いが立ち込める原生林。雨上がりの霧が、視界を白色に染めていた。
聖良とすずは、樹木の陰に身を潜め、息を殺していた。
数メートル先。霧の切れ間に、二つの影がある。
「……今日は、ここでやろうか」
けだるげな、しかし芯のあるハスキーな声が響いた。
真白霧子だ。彼女はサイズの大きな制服の袖を捲り上げながら、無造作に地面に絵具箱を置いた。
「……はい、霧子様」
答える声は、鈴を転がすように繊細で、しかし感情の抑揚に乏しい。藍染恵夢。
彼女は霧子の言葉が絶対の命令であるかのように、躊躇なく自分の制服のボタンに手を掛けた。
「なっ……!?」
聖良が音なき悲鳴を上げる。白いブラウスが滑り落ち、スカートが解かれる。
霧の中、現れたのは薄手のキャミソールと、身体のラインを露骨に拾う白いのスパッツ姿だけ。あまりにも白く、陶器のように滑らかな肌が、薄暗い森の中で発光しているかのように見えた。
(……破廉恥な!)
聖良の正義感が沸点に達する。
我慢できず、彼女は隠れていた木の幹を強く握りしめた。バキッ。枯れ枝を踏みしめる音が、静寂を裂いた。
「……誰?」
霧子がゆっくりと振り返る。
その瞳――右目が鮮やかなマゼンタ、左目が冷たいシアンのオッドアイが、正確に聖良たちの潜伏場所を射抜いた。
見つかった以上、隠れていても仕方がない。聖良は覚悟を決め、すずを引き連れて姿を現した。
「……そこまでだ、彩苑の諸君」
聖良は努めて冷静に、威厳ある声を張り上げた。
「私は白嶺学園、風紀委員長の御鏡聖良。そして書記の五十嵐すずだ」
「……」
霧子は、興味なさそうに瞬きをしただけだった。
恵夢に至っては、恥ずかしがる素振りすら見せず、ただ人形のように立ち尽くしている。
「白嶺の……ああ、あの堅苦しい合同生徒会選挙の候補者たちか」
霧子はあくびを噛み殺すように言った。
「で? 権限外の場所まで出張ってきて、何の用だい?」
「貴様たちが怪しい動きをしているから確認に来たまでだ! ……公衆の面前で服を脱ぐなど、言語道断。答え次第では、合同生徒会に通報させてもらう」
聖良の警告に、すずもコクコクと頷き、その光景を脳裏に記録し続けている。
だが、霧子はふっと鼻で笑った。
「何って……見ればわかるだろう。絵を描くだけだよ」
「絵だと? キャンバスもなしに……」
「あるじゃないか。最高のが、ここに」
霧子が筆をくるりと回し、恵夢を指した。
聖良が眉をひそめるより早く、霧子は恵夢に近づき、その頬に指先を這わせた。
「……ん」
恵夢の口から、甘い吐息が漏れた。聖良は目を見開いた。
先ほどまで無機質な人形のようだった恵夢の肌が、見る見るうちに桜色に染まっていく。
見られている。他人の視線がある。その事実が、彼女に羞恥ではなく、強烈な興奮を与えているのだ。
「……あっ、熱いです、霧子様……」
「ふふ。……いい反応だ」
霧子は、恵夢の紅潮した首筋を見つめ、恍惚とした表情を浮かべた。
「普段より熱が高いね。……観客がいるからかな? その乱れ、悪くない」
「き、貴様ら……!」
「そこで見ていなよ、白嶺の」
霧子が制した声には、有無を言わせぬ圧力があった。
彼女はパレットに極彩色の絵具を出し、たっぷりと筆に含ませた。
「今から生まれるのは、一度きりの傑作だ」
筆先が、恵夢の白い鎖骨に触れる。
「あぁっ……!」
恵夢が背中を反らせ、快楽に似た声を上げる。
その肌の上を、青と赤の絵具が滑っていく。ただの色ではない。恵夢の体温と、滲み出る汗と混ざり合い、色が生き物のように脈打ち始める。
(……な、何だこれは……)
聖良は、怒鳴りつけることも、目を逸らすこともできなかった。
幾何学模様のような、あるいは絡みつく蔦のような紋様が、恵夢の身体を侵食していく。
それは背徳的で、狂気じみていて。けれど、悔しいほどに美しかった。
筆が動くたび、恵夢の呼吸が乱れ、肌の色が変わり、その変化に合わせて霧子がまた色を重ねる。
二人の間には、言葉も理屈もない。ただ「感覚」だけが共鳴し合う、濃密な世界。
隣で、すずが息をのむ音が聞こえた気がした。
「……綺麗」
すずが、無意識に呟いた。聖良はそれを咎めることができなかった。
彼女自身もまた、その異様な光景に魅入られ、喉の奥が熱くなるのを感じていたからだ。
霧の森の中。規律が及ばない場所で、極彩色の儀式は続いていく。
それは、聖良たちが未だ知らない、「本能」という名のペアの形だった。




