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先輩、私にだけ心の声がダダ漏れです。  作者: 如月白華


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戻らない日常

(……あの時の、顔)


 光莉は、数学教師の単調な声を聞き流しながら、無意識にノートの端に意味のない線を引いていた。  

 執行委員会室での一件から、一週間が経っていた。あれだけ突き刺さっていた好奇の視線は、続報がないせいか次第に薄れ、光莉が望んでいた「安寧」に近い日常が戻りつつあった。


(……はず、なのに)


 頭の中では、まだあの部屋での記憶を引きずっていた。西園寺先輩が、最後に一瞬だけ見せた表情。そして何より、あの完璧な姿から漏れ出していた、悲鳴のような空気の振動。


 ――邪魔になるのではないか。


 光莉がそう告げた時、彼女は何を言おうとしたのか。それが光莉の胸の奥に小さな棘として刺さったまま、抜けずにいる。

 一ヶ月の猶予。答えは保留されたままだ。このままフェードアウトすれば、また「透明な日常」に戻れる。そう頭ではわかっているのに、なぜか光莉は、あの「ノイズ」の正体が気になって仕方なかった。


 チャイムが鳴り、思考が中断される。


「光莉ちゃん、お昼にしよ! お腹すいたー!」


 智香の明るい声。

 光莉は、重い思考を振り払うように立ち上がった。



 昼休みの食堂は、騒々しかった。

 運良く空いていた隅の席に座り、智香と他愛の話をする。

 その普通の会話が、心地よい。


(こういう、波風の立たない時間が、ずっと続けばいいのに)


 そう安堵しかけた時、


「……あなたが、小林光莉さん?」


 顔を上げると、見知らぬ生徒が二人、光莉を見下ろしていた。

 リボンの色は赤。同級生だ。その声に含まれる響きは、明らかな敵意と、ねっとりとした嫉妬。


「そうですけど……」


「ふぅん……」


 片方の生徒が、光莉を上から下まで、値踏みするように舐め回した。


「入試成績も平凡。中学時代の受賞歴、なし。実家は小さな新興企業」


 彼女は、まるでデータを見るかのように鼻を鳴らした。


「どうして、あなたみたいな『無価値』な人が選ばれてるのかしら。不思議で」


 智香が「ちょっと!」と腰を浮かせかけるが、光莉はそれを手で制した。


(……ああ、うるさい)


 光莉は内心で深くため息をついた。

 この子たちの声は、不快だ。他人をスペックで値踏みし、自分より下だと判断するや否やマウントを取ろうとする。

 耳障りなノイズ。


「……あの」


 光莉は、トレイの上のサラダに視線を落としたまま、事務的に口を開いた。

 まともに相手をして、自分のエネルギーを消費したくない。


「西園寺先輩に言いに行けばいいじゃないですか」


「なに?」


「『私の方が優秀です』って。きっとそういうアグレッシブな人のこと、先輩は好きですよ。それに、その方が私も助かりますから」


 それは光莉の本心だった。嫌味でもなんでもない。

 代わってくれるなら、喜んで席を譲る。この状況から解放してくれるなら、誰だっていい。

 だが、その論理的な提案は、相手の感情回路を逆撫でするだけだったらしい。


「……っ! この……!」


 相手の顔が赤く染まる。声のボリュームが跳ね上がる。


「馬鹿にしているの……! この私を――!」


 逆上した生徒が手を振り上げた――その時だった。


「――そこまでになさい」


 凛とした、けれど絶対零度のように冷たい声が、食堂の喧騒を切り裂いた。

 一瞬にして、場の空気が凍りつく。あの気配。

 声の方角を向くと、食堂の入り口に、腕を組んだ西園寺瑠璃と和泉純が立っていた。



 純が小さく顎をしゃくるの合図に、瑠璃が迷いなく光莉たちのテーブルへと歩いてくる。

 カツン、カツン。

 その足音が近づくたびに、重低音の威圧が波紋のように広がり、絡んできた同級生たちの顔から血の気が引いていく。


「……何をしていましたの?」


 瑠璃の声は静かだった。だが、そこには有無を言わせぬ重圧が満ちていた。


「い、いえ、その、お話を……」

「光莉さんが、どんな方なのかなって……」


「わたくしの『ペア候補』が、どんな方か、と?」


 瑠璃の瞳が、冷ややかに二人を射抜く。


「小林光莉さんは、わたくしが選んだ候補ですわ。……その『わたくしの選択』に、何か異議でも?」


 圧倒的な格の違い。同級生たちは「め、滅相もありません!」と悲鳴のような声を上げ、脱兎のごとく逃げ去っていった。

 嵐が過ぎ去り、あとに残されたのは、奇妙な静寂だけ。


 瑠璃は、ふぅ、と小さく息を吐くと、光莉に向き直った。

 その瞬間、彼女から発せられていた重低音の威圧が、ふわりと消えた。


「私のせいで、迷惑をかけてしまったようね……。ごめんなさい」


 代わりに聞こえてきたのは、不器用な楽器の音色のような、低く、震えるような響き。

 先ほどの女王のような振る舞いとは裏腹な、誠実な謝罪の音だった。


「……いえ」


 光莉は短く答えるしかなかった。助けられた。けれど、同時に思い知らされた。

 この人が動けば、世界が動く。この人がいる限り、もう何もなかったころの「ただの平凡な日常」には戻れないのだと。

 瑠璃は、今度は智香に向き直った。


「あなたは、遠山智香さんね。……光莉さんを、守ろうとしてくれてありがとう」


「は、はい!」


 智香が緊張で固まる。瑠璃は、ふわりと完璧な微笑みを向けた。


「わたくしは西園寺瑠璃。よろしくね、遠山さん」


 瑠璃たちが去った後、智香は「はぁ〜……」と魂が抜けたように座り込んだ。


「……かっこいい……」


「え?」


「ヤバいよ光莉ちゃん! あの圧倒的なオーラ! まさに『宝石』って感じ!」


 智香は目を輝かせている。彼女には、瑠璃の輝きしか見えていない。あの冷たい威圧感の裏にあった、申し訳なさそうに震える音色までは届いていない。


(……そうか。普通は、そう見えるんだ)


 光莉は、冷めたランチを口に運びながら、自分と世界とのズレを改めて自覚していた。

 自分だけが、あの人の「本当の音」を聞いてしまっている。

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