戻らない日常
(……あの時の、顔)
光莉は、数学教師の単調な声を聞き流しながら、無意識にノートの端に意味のない線を引いていた。
執行委員会室での一件から、一週間が経っていた。あれだけ突き刺さっていた好奇の視線は、続報がないせいか次第に薄れ、光莉が望んでいた「安寧」に近い日常が戻りつつあった。
(……はず、なのに)
頭の中では、まだあの部屋での記憶を引きずっていた。西園寺先輩が、最後に一瞬だけ見せた表情。そして何より、あの完璧な姿から漏れ出していた、悲鳴のような空気の振動。
――邪魔になるのではないか。
光莉がそう告げた時、彼女は何を言おうとしたのか。それが光莉の胸の奥に小さな棘として刺さったまま、抜けずにいる。
一ヶ月の猶予。答えは保留されたままだ。このままフェードアウトすれば、また「透明な日常」に戻れる。そう頭ではわかっているのに、なぜか光莉は、あの「ノイズ」の正体が気になって仕方なかった。
チャイムが鳴り、思考が中断される。
「光莉ちゃん、お昼にしよ! お腹すいたー!」
智香の明るい声。
光莉は、重い思考を振り払うように立ち上がった。
*
昼休みの食堂は、騒々しかった。
運良く空いていた隅の席に座り、智香と他愛の話をする。
その普通の会話が、心地よい。
(こういう、波風の立たない時間が、ずっと続けばいいのに)
そう安堵しかけた時、
「……あなたが、小林光莉さん?」
顔を上げると、見知らぬ生徒が二人、光莉を見下ろしていた。
リボンの色は赤。同級生だ。その声に含まれる響きは、明らかな敵意と、ねっとりとした嫉妬。
「そうですけど……」
「ふぅん……」
片方の生徒が、光莉を上から下まで、値踏みするように舐め回した。
「入試成績も平凡。中学時代の受賞歴、なし。実家は小さな新興企業」
彼女は、まるでデータを見るかのように鼻を鳴らした。
「どうして、あなたみたいな『無価値』な人が選ばれてるのかしら。不思議で」
智香が「ちょっと!」と腰を浮かせかけるが、光莉はそれを手で制した。
(……ああ、うるさい)
光莉は内心で深くため息をついた。
この子たちの声は、不快だ。他人をスペックで値踏みし、自分より下だと判断するや否やマウントを取ろうとする。
耳障りなノイズ。
「……あの」
光莉は、トレイの上のサラダに視線を落としたまま、事務的に口を開いた。
まともに相手をして、自分のエネルギーを消費したくない。
「西園寺先輩に言いに行けばいいじゃないですか」
「なに?」
「『私の方が優秀です』って。きっとそういうアグレッシブな人のこと、先輩は好きですよ。それに、その方が私も助かりますから」
それは光莉の本心だった。嫌味でもなんでもない。
代わってくれるなら、喜んで席を譲る。この状況から解放してくれるなら、誰だっていい。
だが、その論理的な提案は、相手の感情回路を逆撫でするだけだったらしい。
「……っ! この……!」
相手の顔が赤く染まる。声のボリュームが跳ね上がる。
「馬鹿にしているの……! この私を――!」
逆上した生徒が手を振り上げた――その時だった。
「――そこまでになさい」
凛とした、けれど絶対零度のように冷たい声が、食堂の喧騒を切り裂いた。
一瞬にして、場の空気が凍りつく。あの気配。
声の方角を向くと、食堂の入り口に、腕を組んだ西園寺瑠璃と和泉純が立っていた。
*
純が小さく顎をしゃくるの合図に、瑠璃が迷いなく光莉たちのテーブルへと歩いてくる。
カツン、カツン。
その足音が近づくたびに、重低音の威圧が波紋のように広がり、絡んできた同級生たちの顔から血の気が引いていく。
「……何をしていましたの?」
瑠璃の声は静かだった。だが、そこには有無を言わせぬ重圧が満ちていた。
「い、いえ、その、お話を……」
「光莉さんが、どんな方なのかなって……」
「わたくしの『ペア候補』が、どんな方か、と?」
瑠璃の瞳が、冷ややかに二人を射抜く。
「小林光莉さんは、わたくしが選んだ候補ですわ。……その『わたくしの選択』に、何か異議でも?」
圧倒的な格の違い。同級生たちは「め、滅相もありません!」と悲鳴のような声を上げ、脱兎のごとく逃げ去っていった。
嵐が過ぎ去り、あとに残されたのは、奇妙な静寂だけ。
瑠璃は、ふぅ、と小さく息を吐くと、光莉に向き直った。
その瞬間、彼女から発せられていた重低音の威圧が、ふわりと消えた。
「私のせいで、迷惑をかけてしまったようね……。ごめんなさい」
代わりに聞こえてきたのは、不器用な楽器の音色のような、低く、震えるような響き。
先ほどの女王のような振る舞いとは裏腹な、誠実な謝罪の音だった。
「……いえ」
光莉は短く答えるしかなかった。助けられた。けれど、同時に思い知らされた。
この人が動けば、世界が動く。この人がいる限り、もう何もなかったころの「ただの平凡な日常」には戻れないのだと。
瑠璃は、今度は智香に向き直った。
「あなたは、遠山智香さんね。……光莉さんを、守ろうとしてくれてありがとう」
「は、はい!」
智香が緊張で固まる。瑠璃は、ふわりと完璧な微笑みを向けた。
「わたくしは西園寺瑠璃。よろしくね、遠山さん」
瑠璃たちが去った後、智香は「はぁ〜……」と魂が抜けたように座り込んだ。
「……かっこいい……」
「え?」
「ヤバいよ光莉ちゃん! あの圧倒的なオーラ! まさに『宝石』って感じ!」
智香は目を輝かせている。彼女には、瑠璃の輝きしか見えていない。あの冷たい威圧感の裏にあった、申し訳なさそうに震える音色までは届いていない。
(……そうか。普通は、そう見えるんだ)
光莉は、冷めたランチを口に運びながら、自分と世界とのズレを改めて自覚していた。
自分だけが、あの人の「本当の音」を聞いてしまっている。




