勉強会
放課後の図書館は、ひんやりと乾いた空気に満ちていた。
聞こえるのは、窓を叩く雨音の遠い響きと、空調の低い駆動音。そして、紙の上をペンが走る摩擦音だけ。
その静寂の中で、智香の悲鳴のような小声が響く。
「……うぅ、もう無理。なんで摩擦なんて考えないといけないの。 そのまま滑り落ちちゃえばいいじゃん……」
智香が突っ伏しているのは、物理の教科書だ。
斜面上の物体の運動の計算。
「……物体はあなたの都合では動きません」
常盤奏は、シャーペンの芯をカチリと出しながら、淡々と返した。
四人がけのテーブル。対面には奏。隣には頭を抱える智香。
光莉は、その光景を少し離れた場所から眺めているような感覚で、自分のノートに向かっていた。
「ここを見て。重力 は常に鉛直下向き。でも物体は斜面に沿ってしか動かない。だから、この力を『力の方向』と『物が動く方向』に分ける必要があるの」
奏が智香のノートに、定規も使わず綺麗な直角三角形を描き込む。
「ここが なら、こっちも 。だから斜面に対しての力は。……中学の復習よ」
「うぐっ……言われてみればそうだけどぉ……」
(……すごい)
光莉は、奏が智香に説明する声に耳を澄ませていた。
彼女の声には、余計な「ノイズ」が一切混じっていない。
感情の起伏も、迷いも、苛立ちもない。ただ、必要な情報を、最短距離で相手の脳に届けるための、澄み渡った水のような音色。
それは、光莉の焦燥感を不思議なほど鎮めてくれた。
「……小林さん」
不意に、その澄んだ音がこちらに向けられた。
「……手、止まってるわよ」
「あ、ご、ごめんなさい」
光莉は慌てて視線をノートに戻した。数学Ⅰの課題、二次関数の最大・最小問題だ。
授業では黒板の文字を追うだけで精一杯だったけれど、今は奏の空気に当てられたせいか、冷静に文字を追える。
軸が範囲の左にある時、中にある時、右にある時。
恐る恐る、グラフを描いてみる。……描ける。
あんなに呪文に見えていた数式が、今は意味のある言語として頭に入ってくる。
「……解けました」
「見せて」
奏がノートを引き寄せる。その視線が数式を走る数秒間、光莉は心臓が口から飛び出しそうだった。
やがて、奏は小さく頷いてノートを返した。
「……正解。理解が早いわね、遠山さんとは大違い」
「ちょっとー! 聞こえてるよー! 私だって頑張ってるもん!」
智香がむくれるが、奏は無視して自分の参考書に戻った。
ふと、光莉は奏の手元にある本に目を止めた。それは学校指定の教科書ではなく、分厚い専門書だった。
(……私たちに教えるレベルなんて、とっくに通り過ぎてるんだ)
改めて、格の違いを思い知らされる。
それなのに、なぜ彼女はここにいるのだろう。
クラスの平均点のため、と言っていたけれど、それだけで貴重な時間を割くような人には見えない。
「……あの、常盤さん」
光莉は、雨音に紛れ込ませるように、小さな声で問いかけた。
「どうして、ここまでしてくれるんですか? ……私たちは、ライバルなのに」
その問いに、智香もペンを止めて顔を上げた。
奏は、ページをめくる手を止め、視線を中空に彷徨わせた。
「……九条先輩が、うるさいから」
「え?」
「『光莉ちゃんたちが困ってるなら助けてあげてぇ』って。……あの日、教室であなたたちと話したあと、すぐにメッセージが来たの。どこで聞き耳を立てているのやら」
奏は、心底面倒くさそうに溜息をついた。
「断れば、あとで何をされるかわからないし。……あの人の気まぐれに付き合うのは、私の『仕事』の一環だから」
仕事。パートナーとの関係をそう切って捨てる言葉は冷たい。けれど、光莉の耳には、その奥にある微かな「諦念」と、それ以上に深い「執着」のような重低音が聞こえた気がした。
嫌々従っているようでいて、彼女はその「重荷」を背負うことに、どこか居心地の良さを感じている。
(……似てるかも)
光莉は、自分の左手の指輪を机の下で無意識に撫でた。
完璧主義で、不器用で、放っておけない瑠璃先輩。奔放で、計算高くて、底知れない九条先輩。
タイプは違えど、私たちは二人とも、とてつもなく厄介な「女王様」に振り回される従者なのだ。
「……大変ですね、お互い」
光莉が苦笑交じりに言うと、奏は一瞬きょとんとし、それから口元をわずかに緩めた。
「……同情するわ。西園寺先輩も、なんだか重そうだし」
「あはは……否定できません」
二人の間に、奇妙な共犯者めいた空気が流れた。
言葉にしなくても通じ合う、苦労人同士のシンパシー。
智香が「えっ、何? 二人だけで通じ合わないでよー! 私も混ぜて!」と割り込んでくるまで、その時間は続いた。
*
それからの日々は、飛ぶように過ぎていった。
放課後のチャイムが鳴ると、三人は自然と図書館のいつもの席に集まるようになった。
ある日は、古文の助動詞の活用表と睨めっこをし。
ある日は、計算に頭を抱え。
雨の日も、晴れの日も、三人は机を並べた。
奏は相変わらず無愛想で、智香は騒がしく、光莉は必死に食らいつく。
決して「仲良しグループ」と呼べるような馴れ合いはない。
けれど、ノートをめくる音と、時折交わされる短い質疑応答だけが心地よく響くその空間は、光莉にとって不思議なほど安らげる場所になっていた。
窓の外の紫陽花が色を濃くし、やがて蝉の声が遠くに聞こえ始める頃。
光莉のノートは、びっしりと書き込まれた文字と数式で埋め尽くされていた。
期末試験本番まで、あとわずか。
夏を前にした湿った風が、三人の髪を揺らして吹き抜けていく。




