期末試験
六月末ごろ。神輝島は、梅雨特有のまとわりつくような湿気と、紫陽花の色に沈んでいた。
合同生徒会での顔合わせから数日。
次の戦い――夏休みの第一試験までの一ヶ月という空白期間。それは、嵐の前の静けさなどではなく、学生にとってのもう一つの「地獄」のために用意された時間だった。
期末試験。 日本最高峰のエリート養成機関である白嶺において、その単語が持つ重みは、他校の比ではない。
放課後の執行委員会室。 窓を叩く雨音だけが響く静寂の中、張り詰めた空気がデスクを挟んで交差していた。
「……今回の鬼門は数学Bと現代文ね」
和泉純が、タブレットの画面を指で弾きながら涼しい顔で言う。
「過去の傾向からして、長文の配点が高くなるはず。……、まあ予想できていれば対策は容易ね」
「あら、随分と余裕ね、純」
対面に座る瑠璃が、参考書を閉じる音をパタンと響かせた。
その瞳は、選挙戦の時と同じくらい……いや、それ以上に鋭く尖っている。
「前回はわずか二点差であなたに負けたけれど……今回こそは、その『学年一位』の座、いただくわよ」
「ふふ。……私の指定席を奪えるように、せいぜい頑張って、瑠璃」
純が挑発的に微笑む。
バチバチ、と。二人の視線の間で火花が散る音が聞こえるようだった。 学年一位と二位。雲の上の争い。
そこには、凡人が入り込む隙間など全くない。
(……帰りたい)
ソファの端で小さくなっていた光莉は、胃のあたりが重くなるのを感じていた。
天才たちのプライドのぶつかり合い。それをBGMにしながら、光莉の手元にあるのは、真っ赤な直しが入った小テストの答案用紙だった。
(……平均点、ギリギリ)
白嶺の授業レベルは高い。ついていくだけで必死な光莉にとって、「順位争い」なんて異次元の話だ。
目標は、赤点を取らないこと。それだけ。そう思って、気配を消そうと背中を丸めた、その時だった。
「……ところで、光莉」
不意に、瑠璃の矛先がこちらに向いた。
「は、はいっ」
「あなたの準備はどうなの? さっきから、随分と顔色が優れないけれど」
瑠璃の視線が、光莉の手元の答案用紙に注がれる。光莉は反射的にそれを隠した。
「あ、えっと……私は、その……ぼちぼち、というか」
光莉は愛想笑いで誤魔化そうとした。
けれど。
「……」
瑠璃は、笑わなかった。その美しい顔が、真顔で光莉を見据えている。
「それでは困るわよ」
冷たい声だった。怒っているわけではない。ただ、事実を淡々と突きつける声。
「安野会長の話を覚えているでしょう? 選挙の合否には『日常点』も加味されると」
「あ……」
「つまり、定期試験の成績も評価対象よ。もしあなたが赤点を取ったり、著しく成績を下げたりすれば……それは『生徒会役員としての資質不足』と見なされる」
その言葉が、光莉の胸に重く突き刺さる。
「わたくしがトップを取るのは当然として……パートナーであるあなたにも、それ相応の結果を出してもらわなくてはいけない。わかるわね?」
「……はい」
光莉は、消え入りそうな声で頷くしかなかった。
そうだ。私はもう、ただの「一般生徒」じゃない。学園のトップを目指す人の、パートナーなのだ。
私の成績が悪ければ、先輩の評価まで下がる。そのプレッシャーは、湿度の高い空気のように、じっとりと光莉の肩にのしかかった。
*
翌日。
教室の空気は、鉛のように淀んでいた。休み時間だというのに、誰もが参考書を開き、ピリピリとした焦燥感がノイズとなって充満している。
「はぁ~……マジで無理。終わった……」
前の空席に座った智香が机に突っ伏して嘆いた。
「ねえ光莉ちゃん、どうしよー。今回の範囲、全然わかんないよぉ。特に物理! 何あれ、呪文?」
「……私も、同じだよ」
光莉もまた、机に頬をつけて力なく答えた。昨日の瑠璃の言葉がリフレインする。『それ相応の結果』。教科書を開いても、文字が上滑りして頭に入ってこない。焦りばかりが募って、心臓の音がうるさい。
(どうしよう。……このままじゃ、本当に先輩の足を引っ張っちゃう)
誰かに教えてもらいたい。瑠璃先輩に頼んだらいいのだろうか。でも、先輩自身の時間を奪うのも気が引ける。
とはいえ、智香と二人で慰め合っていても、点数は一点もあがらない。
ふと。光莉は、視界の端に「静寂」を見つけた。
教室の窓際、一番後ろの席。周囲の喧騒から切り離されたように、一人静かに本を読んでいる少女。
常盤奏。彼女の周りだけ、空気が澄んでいる。焦りのノイズも、嘆きの声も、彼女には届いていないようだった。
(……そういえば)
光莉は思い出す。時折行われる小テスト。いつもそこで成績上位者に載っている名前。『常盤 奏』。
彼女は、少なくともこのクラスのトップだ。九条先輩が「最高のパートナー」と呼んだ理由が、そこにある。
(……常盤さんに聞けば、わかるのかな)
でも、と光莉は躊躇する。
彼女はライバルだ。予選で私たちを負かした、九条先輩のパートナー。敵に塩を送るようなことを、合理的な奏がしてくれるわけがない。
光莉が迷っていると、智香がガバッと顔を上げた。
「――そうだ!」
智香の視線もまた、奏の方を向いていた。
「ねえ、常盤さんに教えてもらおうよ!」
「えっ? で、でも智香ちゃん、常盤さんは……」
「いーのいーの! 同じクラスメイトじゃん! ダメ元でアタック!」
智香は光莉の制止も聞かず、参考書を片手に奏の席へと特攻していった。その行動力には、いつもながら度肝を抜かれる。
「ねーねー、常盤さん! 今、ちょっといい?」
奏が、本からゆっくりと視線を上げた。無表情な瞳が、智香と、その後ろでおどおどしている光莉を捉える。
「……何」
「あのさー、ここ! 物理のここが全然わかんなくて! 教えてくれないかなーって!」
智香が両手を合わせて拝む。奏は、智香が指差したページを一瞥し、そして小さくため息をついた。
「……教科書を見れば書いてあります」
「読んでも文字が全然頭に入ってこないんだよ〜! お願い、天才常盤様! 私たちを救って!」
私たち。巻き込まれた光莉は、奏と目が合った。
奏の瞳は、静かで、冷ややかだ。当然、断られると思った。
彼女にとって時間は貴重なリソースだ。ライバルの成績を上げる手伝いをするメリットなど、何一つない。
けれど。
「……」
奏の視線が、光莉の顔で止まった。数秒の沈黙。彼女は何かを計算するように、あるいは何かを思い出すように、わずかに目を細めた。
その脳裏によぎったのは、九条ねねの顔か、それとも――。
奏は、読んでいた本をパタンと閉じた。
「……いいわよ」
「えっ!?」
光莉と智香の声が重なる。
「本当に? いいの?」
「放課後、図書館でなら。……教室はうるさくて集中できないから」
奏は淡々と言った。
「それに、あなたたちが赤点を取ったりしたら、このクラス全体の評価が下がる。それは多分、私にもデメリットだわ」
それは彼女なりの、照れ隠しのような理屈だった。智香が「やったー!」と歓声を上げ、奏に抱きつこうとして躱される。
光莉は、驚きながらも、安堵で胸がいっぱいになった。
「……ありがとう、常盤さん」
光莉がお礼を言うと、奏は一瞬だけ光莉を見つめ、フイと顔を背けた。
「……礼には及ばないわ。人に教えるのも、いい勉強になるし」
その横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
こうして、敵対するペア同士による、奇妙な放課後の勉強会が幕を開けたのだった。




