不協和音のホール
重厚な扉が開かれた瞬間、光莉は思わず耳を塞ぎたくなった。
ガリガリ。
鼓膜を直接やすりで削られるような、不快な金属音。
それは、ホールに充満する他校の生徒たちの「闘争心」と「緊張」、そして剥き出しの「敵意」が混じり合った不協和音だった。
広いドーム状のホールには、すでに多くの生徒が集まっていた。
歓談用か、いくつかの円卓の上には様々な飲み物が並べられている。
「……うわ、何あれ。目がチカチカするわねぇ」
最初に口を開いたのは、九条ねねだった。
彼女が呆れたように扇子で仰ぐ視線の先には、極彩色の集団がたむろしていた。
髪をピンクや緑に染め、制服にペンキやスタッズを散りばめた、混沌とした一団。『彩苑芸術学院』。
「芸術を履き違えてるわね。あれじゃただの落書きよ」
ねねは、自身の整えられたネイルを見つめながら、フフンと鼻で笑う。
「美しさっていうのはね、もっとこう……溢れ出る気品がないと。ねえ、奏ちゃん?」
「……騒がしいだけです。視覚的ノイズが多い」
常盤奏もまた、無表情で彼らを一瞥し、興味なさげに視線を切った。
一方で、西園寺瑠璃の視線は、別の集団に向けられていた。
ホールの右翼、静寂を保って整列している一団だ。深い紫紺の、袴を模した厳格な制服。『葵ヶ崎法学校』。
「……なるほど。噂通りね」
瑠璃が、感心したように、しかし警戒心を滲ませて呟く。
「……あの集団だけは、わたくしたちと似た雰囲気を感じるわ」
その中心には、ひときわ目を引く人物がいた。
高身長で、腰まで届く黒髪をポニーテールにした、演劇の男役のような美女。彼女が腕を組んで立っているだけで、周囲には凛とした結界が張られているようだ。
「あの背の高い方……すごいオーラですね」
光莉が圧倒されていると、瑠璃は小さく頷いた。
「ええ。おそらく彼女がトップね。……良い目をしているわ」
そして、最後の一角。
聖良の背後に隠れていた五十嵐すずが、怯えたように、けれど抗えない好奇心で一点を見つめていた。
「……せ、聖良様……あそこ……」
すずの視線の先には、無機質なグレーの制服に白衣を羽織った集団がいた。
『天穹理数化学研究学院』。彼らは会話を交わすことなく、全員がタブレット端末を操作し、会場内のデータを収集している。
「……気味が悪い連中だ」
聖良が眉をひそめる。すずは眼鏡を押し上げ、その集団の中にいる一人の少女に釘付けになっていた。
「……数値が、おかしいです……」
「どうした、五十嵐」
「あの子だけ……ゆらぎが……限りなくゼロに近いです……」
すずが指差した先にいたのは、小柄で、フランス人形のように整った顔立ちの少女だった。
光莉も、その少女を見た瞬間に違和感を覚えた。
他の人からは様々な「感情の音」が聞こえるのに、彼女からは冷たい時計の針のような、一定のリズムしか聞こえてこない。
「……まるで、作り物みたい」
光莉がポツリと漏らした、その時だった。
彩苑の集団から、派手なメイクをした女子生徒のペアが、ふらりと瑠璃たちの目の前に現れた。
「あ、やっば! 足が……」
一人が大袈裟に体勢を崩し、手に持っていたカップを振り上げる。
なみなみと注がれた、真っ赤なトマトジュース。偶然を装っているが、二人の目線はしっかりと瑠璃の顔面を捉えていた。
「せんぱ――!」
光莉が叫ぼうとした、刹那。
ピシャッ!
水音が響き、赤い液体が弾け飛んだ。
瑠璃の目の前に、いつの間にか御鏡聖良が立っていた。
彼女は手にしたバインダーを盾にし、飛来した液体を全て受け止めたのだ。ボタボタと、赤い雫が床に落ちる。
「……チッ」
ジュースを放った女子生徒が、あからさまに舌打ちをした。
「……何が『足が』だ」
聖良が、汚れたバインダーを振り払い、低い声で問う。
「見え透いた猿芝居だな。私たちに泥を塗るつもりか?」
「はあ? なによ、えらそうに!」
企みが露見した女子生徒たちは、開き直って聖良と瑠璃を睨みつけた。
「あんたら白嶺はさぁ、いつもそうやって上から目線で見下してくるのが気に入らねえんだよ!」
もう一人が続ける。
「お高く止まったお嬢様が。親の七光りで調子に乗ってんじゃねえよ。私たちはな、実力でここに入ってきてんだ」
喚き散らす彩苑の生徒の声に、周囲の空気が凍りつく。瑠璃は眉一つ動かさず、ハンカチを取り出して聖良に差し出した。
「……汚れてしまいましたわね、御鏡さん」
「構わん。……だが、不快だ。品性が欠片も感じられん」
一触即発の空気。光莉が恐怖で身を竦ませた、その時。
「――騒々しいですね」
決して大きな声ではなかった。けれど、スピーカーを通したわけでもないその声は、水を打ったように会場の隅々まで染み渡った。
熱気が、一瞬で鎮静化する。
ステージの上、スポットライトの中に、一人の少女が立っていた。合同生徒会会長、安野文。
彼女は、壇上から無表情な瞳で瑠璃たちのあたりを見下ろしていた。
まるで、路傍の石でも眺めるような、関心の薄い眼差し。
「そこの、彩苑芸術学院の生徒」
「あ、安野会長……? い、いや、これはただの事故で……」
「退場なさい」
文は、短く告げた。怒りも、蔑みもない。まるで「雨が降っている」と事実を述べるような、フラットな響き。
「え……?」
「聞こえなかったかしら。……この場から消えてください、と言ったのです」
「は、はあ!? ふざけんな、ジュースこぼしたくらいで!」
「理由など、どうでもいいのです」
文が、小さく嘆息した。
「他者の尊厳を傷つけ、この場の調和を乱す行為。それは、私が求める『美しさ』ではありません。……あなたたちは、この舞台に立つ資格がない。それだけのことです」
「なっ……!?」
文が軽く手を振ると、ホールの警備員が無言で現れ、呆然とするペアの両脇を抱えた。
事務的に、荷物のように運ばれていく。
「ちょ、離せ! 嘘だろ!? 本戦前だぞ!?」
「待ってくれ! 許してくれよ!」
抵抗する声が遠ざかり、バタン、と扉が閉まる音が響く。シン……と、ホールに完全な静寂が戻った。
たった数秒。一組のペアが脱落したのだ。安野文にとって、それはただ、不要なノイズを除去しただけの、事務作業。
光莉の背筋に、冷たい汗が伝う。罵倒されるよりも恐ろしい。彼女にとって、私たちはどう見えているのだろうか。その視線からは全く読み取れない。
「……さて」
文は、排除された生徒たちのことなど記憶から消去したかのように、手元の資料に目を落とした。
「空気が澄んだところで、始めましょうか。……此度の合同生徒会選挙。本戦の概要をお伝えします」
文の瞳が、会場に残った生徒たち――選ばれた候補者たちを、静かに見渡した。




