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先輩、私にだけ心の声がダダ漏れです。  作者: 如月白華


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4/10

邪魔にならないために

 翌朝。 光莉が重い体を引きずって寮のロビーに出ると、そこには既に遠山智香が待っていた。


「おはよー、光莉ちゃん! 一緒に行こ!」


 智香の声には、昨日あれだけの騒ぎがあったにも関わらず、少しの澱みもない。まるで朝の光そのもののような、クリアな音色。


「……おはよう、智香ちゃん」


「どうしたの、眠そう! ま、昨日は色々あったもんね」


 智香は光莉の背中をばしんと叩く。

 その屈託のなさに、光莉は少しだけ救われる思いだった。

 二人で連れ立って白嶺の校舎へ向かう。 クラス分けの掲示板を見ると、幸いなことに、光莉と智香の名前は同じクラスに並んでいた。

 だが、安堵したのはそこまでだった。

 教室のドアを開けた瞬間、突き刺さる視線。ひそひそという囁き声。


(……やっぱり)


 好奇、嫉妬、値踏み。教室内には、粘着質な感情のノイズが充満していた。

 光莉は、その不快な空気の中、自分の席へ向かう。少し離れた席になった智香が、こちらを心配そうに見て、小さく手を振ってくれる。 その優しさだけが、今の光莉の支えだった。

 窓際の席に座り、周囲の視線から身を隠すように小さくなっていると、ふと、隣の席に誰かが座る気配がした。すっ、と。まるで、そこだけ空気が澄み渡るような、静かな気配。


 光莉が顔を上げると、そこには腰に届くほど長い黒髪の少女が座っていた。背筋を伸ばし、凛とした佇まい。光莉が慌てて会釈すると、彼女もまた、静かにこくりと頭を垂れた。言葉はない。

 けれど、彼女からは周囲のような騒がしい好奇の音が一切感じられなかった。

 ただ、深い湖の水面のような、静寂だけがある。


(……よかった。隣は、静かな人だ)


 彼女のまとう静かな雰囲気に、光莉は張り詰めていた神経が少しだけ緩むのを感じた。



 初日の授業は、その半日のオリエンテーションだけで終わった。

 チャイムが鳴ると同時に、智香が待ってましたとばかりに光莉の席まで駆け寄ってくる。


「終わったー! ね、光莉ちゃん、お腹すかない? 寮に帰る前に、購買で何か買ってかない?」


 その明るさに頷きかけた、その時だった。


 キーンコーン、と予鈴が鳴り、無機質な校内放送が響いた。


『――1年、小林光莉さん。至急、執行委員会室まで来てください』


 教室中の空気が一瞬だけ凍りつき、またざわめきが起こる。

 再び集まる視線。さっきまでの好奇の色に、「何したの」という嘲笑が混じる。


(……また、これか)


 昨日の今日だ。ろくな用事であるはずがない。 

 放送の声は事務的だったが、光莉にはそれが、平穏な日常の終了を告げるサイレンのように聞こえた。


「……ごめん、智香ちゃん。一緒には行けないみたい」


 光莉は、重くなった鞄のベルトを握りしめ、重苦しい空気の中を歩き出した。


 別棟にある「執行委員会室」。

 そのプレートが掲げられた重厚な扉の前で、光莉は一度深呼吸をする。いわゆる生徒会だと、今日オリエンテーションで聞いたばかりのその部屋。

 呼び出された理由は大概想像つく。光莉は小さく息を吐きながらノックをした。


「どうぞ」中から返ってきたのは、さっき放送で聞いたのと同じ、冷たく研ぎ澄まされた声だった。


 部屋に入ると、そこは外の世界とは隔離されたような、静けさに満ちていた。

 窓際に腕を組んで立っている、西園寺瑠璃。

 そして、部屋の中央のデスクに座る、見知らぬ上級生。


 光莉は、その上級生から発せられる気配に、思わず足を止めた。

 瑠璃が「燃えるようなな熱量を帯びた圧」だとするなら、この人は「冷たくすべてを見透かす氷」だ。 その切れ長の瞳が、光莉の全容を品定めするように見据えている。


「あなたが、小林光莉さんね。……わたしは、和泉純いずみ じゅん。この学園の執行委員会の委員長をしています。隣は――、すでに知っていると思いますが、西園寺瑠璃。当委員会の副委員長です」


「こ、小林光莉です……」


 純は、光莉に来客用の椅子を勧めると、淡々と口を開いた。


「昨日は大変だったみたいね。……戻ってきてみれば、瑠璃が生徒の前であなたをいきなり指名したと聞いて、驚いているところです」


 純の視線が、窓際の瑠璃に向けられる。

 瑠璃は、バツが悪そうに顔を背けた。そこにいつもの自信に満ちた様子はなく、どこか焦燥に駆られたような、不安定なノイズが漏れ出している。


「単刀直入に聞きます。あなたは、西園寺瑠璃のペアとして、選挙に参加する意思が、あなたにはありますか?」


 その問いに、光莉は言葉に詰まった。

 なぜか、すぐに否定の言葉が出なかった。


「わたしも、瑠璃も、一昨年の選挙に参加しています。だからこそ、あの戦いの辛さを知っている」


 純の瞳が、光莉の本音を探るように光る。


「わたしと瑠璃は、かつて『敵』として戦った、元ライバルでした」


 元ライバル。その言葉を聞いた瞬間、光莉は二人の間に流れる空気の正体を理解した。ただの仲良しではない。かといって険悪でもない。互いの傷も、強さも、すべてを知り尽くした者同士だけが共有できる、濃密で重い信頼の空気。


「当時、一年生だった瑠璃とそのペアは、誰もが認める優勝候補だった。……彼女に敗れた私ですら、その実力を疑わなかったほどに。しかし、それでもあの選挙では勝ち抜けることができなかった。あんなことが――」


「純」


 瑠璃が、低く名を呼んで話を遮ろうとする。その声には、明らかな「痛み」が混じっていた。触れられたくない傷。過去の敗北。完璧な仮面の下にある、生々しい傷口の気配を、光莉は感じ取ってしまった。


 純は、瑠璃の制止を受け流し、再び光莉に向き直った。


「瑠璃は、今回の選挙にすべてをかけている。……それが、白嶺の悲願でもあるから。そのために、本来彼女がなってしかるべき、この執行委員会の会長を私が引き受けている」


 純の瞳に、強い光が宿る。


「その、すべてをかけたパートナーが、あなたで本当にいいのか。わたしはまだ判断を決めかねている」


 部屋の空気が、鉛のように重くなった。悲願。すべてをかける。その言葉の重量感に、光莉は押し潰されそうだった。昨日までは、ただ「面倒だから嫌だ」と思っていた。

 でも、今は違う。


(……私には、重すぎる)


 目の前の二人が放つ、覚悟の熱量。瑠璃の悲痛なまでの渇望。それを受け止めるには、自分はあまりにも空っぽで、平凡だ。この完璧で、今にも壊れそうな人の隣に立つには、自分のような人間はあまりにも「異物」すぎる。


 光莉は、ゆっくりと顔を上げた。

 瑠璃の視線と目が合う。


(……ごめんなさい)


 光莉は、その視線から逃げるように、膝の上で拳を握りしめた。


「……やはり、私には、向いていないのではないかと、思います」


 絞り出すような声。それは、単なる逃避ではなく、相手の「本気」に触れたからこそ出てきた、光莉なりの誠実な答えだった。


「私のような人間が、西園寺先輩の隣に立つことが怖い……。だから」


 光莉は、自分の胸の中にある、一番正直な感覚を言葉にした。それは、自分が彼女の完璧な世界を濁してしまうことへの恐れ。


「……先輩の、その……邪魔に、なってしまうのではないかと、思います」


 そういうと、部屋が静まり返った。瑠璃が、目を見開いて光莉を見つめている。

 その表情が、みるみるうちに崩れていく。

 怒りではない。拒絶されたこと、そして何より、「邪魔になる」という言葉が、彼女の何か深い部分を抉ったかのような、ひどく脆い顔。


「あなた、は……」


 瑠璃が何かを言おうと踏み出した、その時。


「瑠璃」


 今度は純が、冷静な声で制した。


「光莉さん、あなたの言いたいことはわかりました。……今日のところの気持ちも。しかし、一ヶ月。正式な申請まで時間があります。それまでに、今一度考えてほしい」


 それは明確な退出の合図だった。

 光莉は、まだ何事か言いたげに震えている瑠璃と、静かにそれを見守る純に一礼し、逃げるように部屋を後にした。



 扉が閉まり、光莉の足音が遠ざかる。

 残された部屋で、瑠璃は糸が切れたように、手近の椅子へどさりと腰を落とした。


 両手で顔を覆う。

 完璧な姿勢は崩れ、小さく震える背中からは、先ほどまでの気品は消え失せていた。


「……はぁ……っ」


 指の隙間から、押し殺したようなため息が漏れる。


 その姿を、デスクに背を預けて眺めていた純が、ふっと口元を緩めた。


「……本当に、あなたは変わらないわね」


 純は、かつての好敵手の、あまりにも人間くさい弱さを愛おしむように見つめた。


「『白嶺の宝石』が、一年生一人にそんな顔をさせられるなんて」


「……私は、宝石なんかじゃない」


 瑠璃が、顔を覆ったまま呻く。


「それなのに……あの子にも……」


「『邪魔になる』、か」


 純は、光莉が残していった言葉を反芻した。


「あの子、あなたの本質をよく嗅ぎ取っているわね。あなたが一番恐れている言葉を、正確に選んで置いていった」


 純は、瑠璃の前に歩み寄り、手を差し伸べた。


「あの子がいいと言った、あなたの目は間違っていなかったわね」


「……純?」


 瑠璃が、涙目のまま顔を上げる。


「作戦会議といきましょうか」


 純は、力強く瑠璃の手を引いて立たせた。


「あの『邪魔になりたくない』なんて言っていた健気な一年生を、どうやって懐柔して、あなたの隣に引きずり込むか。……その策を、練らないとね」



(……邪魔になる、か)


 光莉は布団を頭までかぶり、暗闇の中で目を閉じた。

 耳の奥にはまだ、執行委員会室で聞いた、瑠璃の張り詰めた音が残っている。

 あんなにギリギリで、今にも壊れそうで。関われば、私の日常は確実に壊される。


(……なのに、どうして)


 光莉は、自分の胸に手を当てた。

 あの切迫した高周波は、なぜか不快ではなかった。

 むしろ、あの張り詰めた音が途切れてしまったら……とても美しい楽器が壊れてしまうようで、怖いと思ってしまった。


(……疲れてるのかな、私)


 光莉は思考を放棄するように、強く目を閉じた。

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