戸惑い、微熱
翌朝。通学路を歩く光莉の足取りは、鉛のように重かった。
(……やっちゃった)
重たい頭を抱えながら、何度目かわからないため息をつく。
昨夜の記憶が、鮮明すぎる映像で脳内再生される。勢いで抱きしめて、しかも頬にキスなんて。
先輩は優しく受け入れてくれたけれど、一夜明けて冷静になった今、自分の大胆すぎる行動に顔から火が出そうだった。
これからどんな顔で会えばいいんだろう。気まずい。穴があったら入りたい。むしろこのまま休んでしまいたい。
「……おはよう、光莉」
背後から、一番聞きたくなかった、けれど一番聞きたかった凛とした声がかかる。
光莉はびくりと肩を跳ねさせ、恐る恐る振り返った。
「あ、お、おはようございます……先輩」
そこには、いつも通り完璧に着こなした制服姿の瑠璃が立っていた。背筋は伸び、表情は涼しげで、昨夜の涙や乱れなど微塵も感じさせない。
「行くわよ。……遅刻するわ」
瑠璃はそれだけ言うと、スタスタと光莉の横を通り過ぎて歩き出した。
そのあまりの「通常運転」ぶりに、光莉は拍子抜けすると同時に、胸の奥がチクリと痛んだ。
(……そっか。昨日のあれは、やっぱり勢いだったんだ)
あの熱も、共有した秘密の空気も、一夜明ければ魔法が解けてしまったのかも知れない。
光莉が寂しさを噛み締めながら、トボトボと隣に並ぼうとした、その時だった。
スッ。瑠璃の手が、自然な動作で伸びてきた。
「え?」
光莉が反応する間もなく、その指が光莉の指に絡め取られる。
ぎゅっ、と深くまで組まれる、恋人繋ぎ。
「せ、先輩!?」
光莉が驚いて周囲を見渡すと、瑠璃は無言のまま光莉との距離を詰め、二人の身体の隙間にその手を隠した。
バッグと身体の死角。周りからは、ただ仲良く並んで歩いているようにしか見えない絶妙な隠蔽工作。
「……」
瑠璃は前を向いたままだ。涼しい顔で、何食わぬ顔で歩いている。
けれど、繋がれた手のひらは、火傷しそうなほど熱かった。その熱が、『忘れてなどいない』という無言のメッセージとなって流れ込んでくる。
光莉は身体中の血液が沸騰しそうで瑠璃の方を見ることができない。
ただ、繋がれた手を握り返すのが精一杯だった。そんな光莉の赤い横顔を、瑠璃が一瞬だけ盗み見て、慈しむように目を細めていたことに、光莉は気づかなかった。
*
教室に入ると、予想通りの反応が待っていた。
「――えっ!? うっそ、誰!?」
智香が、教科書を落としそうな勢いで叫んだ。クラスメイトたちの視線が一斉に集まる。
「そこまでかなあ……」
「いやわかってるけど! めっちゃ変わったじゃん! え、すごい可愛い!」
智香は興奮気味に光莉の周りをぐるぐると回り、新しい髪型をあらゆる角度から観察する。
「やっぱ素材はいいと思ってたんだよ~! ね、そう思わない常盤さん!?」
智香が、近くの席で本を読んでいた常盤奏に話を振った。奏はゆっくりと顔を上げ、無表情のまま光莉を見た。
その視線が、光莉の目元で止まる。
「……ええ」
奏は短く肯定した。
「視界が良好ね。……表情も読みやすい。以前の陰気な印象より、良いと思うわ」
「か、奏ちゃん……それ褒めてる?」
智香が返し、光莉が苦笑いすると、奏はフイと視線を本に戻した。
「事実を述べただけ」
素っ気ないけれど、嘘をつかない彼女なりの最大限の賛辞だった。
ひとまず、印象はいいらしい。
光莉は胸を撫で下ろした。
*
放課後。光莉は、執行委員会室の重厚な扉の前に立っていた。
(……いるかな、先輩)
ドアノブに手をかけようとして、止める。朝の手の感触が、あの熱が、まだ残っている気がした。
今、顔を合わせたら、普通に喋れる自信がない。
行ったり来たりしていると、背後から声をかけられた。
「……何をしているの、小林さん」
「ひゃっ! 和泉、先輩……」
和泉純が、怪訝そうに眉を寄せて立っていた。
彼女は光莉の挙動不審な様子を見て呆れたように息を吐き――そして、ふと目を見開いた。
「……あら」
純の視線が、光莉の髪に向けられる。
「髪、切ったのね」
「あ、はい……変、ですか?」
「いいえ。……ずいぶんと印象が変わったわ。とても似合ってる」
純は微かに微笑むと、「入るわよ」とドアノブを回した。
ガチャリ、と扉が開く。
夕陽が差し込む部屋の中。
ソファに、西園寺瑠璃が座っていた。
彼女は、開いた扉の音に反応して顔を上げ――純の後ろから入ってきた光莉の姿を認めると、張り詰めていた肩の力をふっと抜いた。
「……来たのね」
その声色は、いつもと少しだけ違う。まるで、帰ってくるのをずっと待っていたような、柔らかな安堵の響き。
光莉と目が合うと、瑠璃はふわりと、花が綻ぶように優しく微笑んだ。
「……お疲れ様、光莉」
その笑顔を見た瞬間、光莉の胸のつかえが取れた。
「はい……! お疲れ様です、先輩」
光莉は、新しい髪を揺らして、歩み寄った。
夕暮れの教室で、三人の穏やかな時間が流れ始める。嵐の前の、かけがえのない静寂のように。




