答え
問いかけられた言葉は、重たい沈黙の中に溶けていった。
空になったグラスの中で、氷がカランと崩れる音だけが、痛いほど鮮明に響く。
瑠璃は、膝の上で握りしめた拳を小刻みに震わせていた。完璧な女王の仮面は、もう足元に砕け散っている。そこにいるのは、自分の抱えた熱情の正体に怯える、ただ一人の少女だった。
「……わからないの」
絞り出すような、掠れた声だった。瑠璃は、迷子のような瞳を揺らしながら、独白を始める。
「あの時、自分が何をしようとしたのか。……どうしてあんな、浅ましい衝動に駆られたのか。自分でも、わからない」
「先輩……」
「光莉、あなたは……わたしを受け止めてくれた。わたしの傲慢さも、弱さも、あなただけが知ってくれて、隣にいてくれた」
その言葉には、深い感謝と、そしてそれ以上の熱が滲んでいた。
「嬉しかった。……あなたがいてくれることが、どうしようもなく救いだった。……でも」
瑠璃の表情が、苦痛に歪む。彼女は、自分自身の心を爪で掻きむしるように言葉を吐き出した。
「それを、どう表現していいのかわからないの」
「……」
「だって、わたくしとあなたは『選挙のパートナー』でしょう? 対等な友達でもなければ、自然に出会った関係でもない。わたくしが無理やり巻き込んで、契約で縛り付けた……そんな歪な関係よ」
それは、瑠璃がずっと抱えていたジレンマであり、罪悪感だった。
始まりが「利用」だったからこそ、そこに芽生えた「情」を信じきれない。自分が抱くこの独占欲は、パートナーとしての権利なのか、それとも一個人の我欲なのか。
もし後者だとしたら――それは、パートナーという立場を利用した、卑怯な裏切りになってしまう。
「だから……言えない。言っちゃいけないのよ」
瑠璃が俯く。白シャツの肩が、呼吸をするたびに震えている。
――ドクン、ドクン。
光莉の耳に、音が飛び込んでくる。
それは、瑠璃の心の音。言葉では「言えない」「わからない」と否定しながら、その旋律は泣きたくなるほど純粋で、そして火傷しそうなほど熱く、光莉を求めていた。
(……聞こえる)
その音は、まるで雨の中で震える迷子の子供の泣き声のようだった。
寂しい。愛しい。離したくない。そんな感情の奔流が、溢れ出している。
光莉の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。契約だとか、巻き込まれたとか、もうそんな理屈はどうでもよかった。
ただ、目の前で自分の感情に押しつぶされそうになっているこの人を、救い出したかった。
光莉の身体が、思考よりも先に動く。
ソファの距離を詰め、吸い寄せられるように身を乗り出す。
「……ひか、り?」
瑠璃が顔を上げた、その瞬間だった。
ちゅ。
濡れた音が、静寂に落ちた。
光莉の唇が、瑠璃の柔らかな頬に押し当てられていた。
「…………え?」
瑠璃の時が止まる。触れた唇から、光莉の体温が直接流れ込んでくる。それは偶然の接触ではない。逃がさないとばかりに、じわりと押し付けられた、確信犯のキス。
数秒の後、光莉はゆっくりと唇を離した。目の前には、信じられないものを見るように目を見開き、顔を真っ赤に染めた瑠璃がいる。
「……先輩」
光莉は、熱い息を吐きながら、潤んだ瞳で告げた。
「……これが、私の今の気持ちです」
言葉はいらない。理屈も、関係性の定義も、今は必要ない。ただ、この熱だけが真実。
「あ……」
瑠璃の唇がわななき、瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。張り詰めていた糸が切れたように、瑠璃の身体から力が抜けていく。
光莉は、そんな瑠璃を見逃さなかった。今度は両腕を伸ばし、その華奢な背中に回す。
「大丈夫です、先輩」
ぎゅううう、と。光莉は、瑠璃の身体を強く、深く抱きしめた。
洗いたてのシャツの匂い。早鐘を打つ心臓の振動。そして、華奢な肩の震え。
そのすべてを、自分の体温で包み込むように。
「私は隣にいます。……先輩が悩んで、苦しんで、ぐちゃぐちゃになってても……私は、ここからいなくなりません」
それは、全面的な受容だった。
あなたがどんなに重たい感情を抱えていても、私はそれごと受け止めるという宣言。
「……っ」
瑠璃の喉から、嗚咽が漏れた。彼女は光莉の背中にすがりつくように腕を回し、その肩に顔を埋めた。
シャツ越しに、熱い涙が滲んでいくのがわかる。
密室の中、氷が溶けきったぬるい水音だけが残る。
二人はしばらくの間、互いの鼓動を確かめ合うように、ただひたすらに抱き合っていた。




