夕闇と前髪
執行委員会室の窓から差し込んでいた茜色は、いつの間にか紫がかった群青へと移ろい始めていた。
花音は、もう泣いてはいなかった。
瑠璃のハンカチを握りしめたまま、自らの足で立ち上がる。その横顔には、長年の澱が洗い流されたような、清々しい透明感が戻っていた。
「……ありがとう、瑠璃ちゃん。これ、今度返しに来るわね」
花音は、まっすぐに瑠璃を見つめて微笑んだ。それは、かつて憧れ、傷つけ、そして今ようやく和解できた後輩へ向ける、心からの感謝だった。
「……また、いつでもいらしてください」
瑠璃もまた、憑き物が落ちたように穏やかな表情で応える。部屋には、雨上がりのような、少し湿った、けれど心地よい匂いが漂っていた。
*
帰り際。 扉の前まで、三人で見送りに出た。麻衣が先に廊下へ出る中、花音はふと足を止め、光莉の方へと向き直った。
「小林さん」
花音が一歩、距離を詰める。ふわりと、百合の香りが鼻先をくすぐった。
彼女は光莉の耳元に唇を寄せると、誰にも聞こえないほどの吐息声で囁いた。
「……あの子、無理をするでしょう?」
「えっ……」
「わかってるの。あの子が、私に気を使って『嘘』をついていたことくらい」
花音は、寂しげに、けれど愛おしそうに目を細めた。
彼女もまた、瑠璃の完璧な演技の下にある本音に、気づいていたのだ。
「今のあの子に必要なのは、私みたいな『守られる存在』じゃない。……あの子の嘘を見抜いて、叱ってあげられる『対等な存在』よ」
花音の手が、光莉の手をぎゅっと握りしめた。冷たい指先から、切実な体温が流れ込んでくる。
「お願いね。……あの子を、よろしく」
それは、バトンの受け渡しだった。光莉は、その手の重みを心に刻み込み、深く、力強く頷いた。
「……はい。任せてください」
その返事に、花音は満足そうに微笑むと、廊下で待つ麻衣の方へと歩いていった。
「さーて! 帰ろっか花音! ……っと、そうだ」
麻衣が、思い出したようにくるりと振り返った。
その視線が、光莉を捉える。
「光莉ちゃんさぁ。……やっぱり、もったいないよ」
「え?」
麻衣はスタスタと光莉の目の前まで戻ってくると、悪戯っぽく笑った。
「その髪型」
「か、髪型ですか?」
「そうそう。だってほら、こうやって……」
麻衣の手が伸びてくる。光莉が反応するよりも早く、その手が光莉の重たい前髪を、無造作にガバッと掻き上げた。
「……ほら! こっちの方が断然いい!」
視界が一気に開ける。廊下の照明と、窓からの日差しが、遮るものなく目に飛び込んできて、光莉は思わず眩しそうに目を細めた。
「あっ、ちょっ……」
「こっち向け~、ほれっ」
麻衣は光莉の肩を掴んで、強引にくるりと反転させた。その先には、見送りに立っていた純と、瑠璃がいる。
「ね? 見てよ瑠璃ちゃん、純ちゃん! この子、前髪あげたほうが美人さんじゃない?」
露わになった光莉の素顔。いつもは前髪のカーテンに隠されていた、涼やかな目元。
澄んだ瞳が、突然の光を受けて、ガラス玉のように輝いている。
「……ほう」
純が、感心したように眉を上げた。そして瑠璃は――無言のまま、動かなかった。
ただ、その瞳が、露わになった光莉の顔に吸い寄せられている。じっ、と。瞬きも忘れて。
夕陽の逆光の中で、瑠璃の表情は影になってよく見えない。けれど、その視線の熱量だけが、肌を焦がすように伝わってくる。
「……瑠璃先輩?」
光莉がおずおずと呼ぶと、瑠璃はハッとして、不自然なほど急いで視線を逸らした。
「……そ、そうね。悪くはないわ」
素っ気ない返事。けれど、その声は微かに上ずり、頬はわずかに紅潮していた。
麻衣は満足そうに頷くと「じゃあねー!」と手を振り、花音と共に廊下の向こうへ消えていった。
*
寮へと続く、長い並木道。日は完全に沈みかけ、世界は薄紫色に包まれていた。
街灯がポツリ、ポツリと灯り始める。
カツ、カツ、カツ。
響くのは、二人の足音だけ。瑠璃は、一言も発さずに前を歩いている。いつもなら並んで歩くのに、今日は半歩だけ前を、少し早足で。
その背中は、何かを拒絶しているようにも、何かから逃げているようにも見えた。
(……なんか、静かだな)
花音との再会で疲れてしまったのだろうか。彼女は一言も発さず、俯き加減で歩いている。
何か話しかけた方がいいのかな。そう思って口を開きかけた、その時だった。
ピタリ、と瑠璃の足が止まった。
「……先輩?」
光莉も慌てて足を止める。瑠璃は、背中を向けたまま動かない。
風が止まり、葉擦れの音すら消えた静寂の中、瑠璃がゆっくりと振り返った。
薄闇の中、その双眸だけが、濡れたように光っている。
「……こっちへ」
短く、命令するような、懇願するような声。光莉が吸い寄せられるように一歩近づくと、瑠璃の手が音もなく伸びてきた。
「あ……」
あたたかな指先が、光莉の額に触れる。そして、先ほど麻衣がやったのと同じように――それよりもずっと慎重に、壊れ物を扱うような手つきで、光莉の前髪をゆっくりと掻き上げた。
視界が開ける。目の前には、薄闇に浮かぶ瑠璃の顔があった。
長い睫毛の震えまで見える距離。 夜明け前の海のように深い紺色の瞳が、光莉の瞳を、逃がさないとばかりに射抜いていた。
「……やっぱり」
瑠璃が、熱っぽい吐息混じりに呟いた。
「……隠していたのね」
「は、はい……?」
「こんなに、綺麗な瞳を」
瑠璃の顔が、近づく。麻衣に見せられた時は、突然の衝撃だった。けれど今、自分の手で触れ、自分の目だけで独占したその輝きに、瑠璃の理性はあやうく融けかけていた。
ドクン、ドクン。
光莉の心臓が早鐘を打つ。
近い。近すぎる。瑠璃の瞳に映る自分が、わかるほどに。
(……きれい)
光莉もまた、動けなかった。月の光を宿したような瑠璃の瞳に、吸い込まれそうだった。
瑠璃の視線が、光莉の目から、すうっと唇へと落ちる。無意識の引力。
二人の鼻先が触れそうになり、互いの吐息が混じり合う。
あと数ミリ。世界から音が消えた、その瞬間。
「……ッ!」
瑠璃が、ハッと何かに気づいたように、弾かれたように身を引いた。バッと顔を背ける。
木漏れ日のような街灯の明かりが、彼女の横顔を照らし出す。その白い首筋までもが、熟した果実のように真っ赤に染まっていた。
「「……」」
気まずい沈黙。瑠璃は口元を手で覆い、荒くなった呼吸を必死に整えている。
光莉もまた、突然のことに思考がショートして、立ち尽くすしかない。
やがて、瑠璃は咳払いを一つすると、まだ赤い顔のまま、ボソリと言った。
「……光莉。今度の休み、美容院に行くわよ」
「……は、はい?」
光莉が間の抜けた声を出すと、瑠璃はスタスタと早足で歩き出してしまった。
「早く来なさい。……置いていくわよ」
「あっ、待ってください先輩!」
光莉は慌ててその後を追う。前を行く瑠璃の背中は、いつもより少しだけ猫背で、早足だった。
(……なんだったんだろう、今の)
光莉は、自分の胸の高鳴りを抑えながら、瑠璃の背中を見つめた。
彼女は知らない。さっきの瑠璃が、光莉の瞳の美しさに心を射抜かれてしまったことを。
そして今、瑠璃がその胸の高鳴りを鎮めるのに、必死になっていることを。




