やさしい嘘
静まり返った執行委員会室に、花音の押し殺した嗚咽だけが響いていた。
それは、二年もの間、彼女の中で煮詰まった罪悪感が、ようやく外へ溢れ出した音だった。
光莉は、硬いパイプ椅子の感触を感じながら、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
どう声をかければいいのかわからない。無責任な言葉は、この重い後悔の前ではあまりに軽すぎる。
「……よしよし。もう、泣かないの」
沈黙を破ったのは、麻衣だった。彼女はため息まじりに苦笑すると、花音の震える背中を子供をあやすように優しくさすった。
「ごめんね、光莉ちゃん。この子、昔からこうなの」
麻衣は、困ったように眉を下げて光莉を見た。
「花音はね、実家のしがらみで、嫌々選挙に出させられた子なの。『月城家の娘として、恥じない結果を出せ』ってね。……本来は争い事なんて一番苦手な性格なのに」
麻衣の手が、花音の華奢な肩を包み込む。
「そこで組んだのが、月城家と親しくて当時一年生だった西園寺瑠璃」
麻衣の視線が、静かに座る瑠璃へと向けられる。
「プレッシャーに押しつぶされそうだった花音にとって、強くて完璧な年下のパートナーは、憧れで、救いだったものね」
自分の足で立つことをやめ、瑠璃という神輿に乗っていればゴールまで連れて行ってくれる。そう信じ込んでしまった心の隙間。
それが、アクシデントで、致命的な亀裂となって砕け散ったのだ。
「うぅ……っ、ごめんなさい……本当に……」
花音は、濡れた瞳で何度も謝罪を繰り返す。その姿は、あまりにも痛々しかった。
その時。衣擦れの音がして、瑠璃が静かに立ち上がった。
迷いのない足取りでテーブルを回り、花音のそばへと歩み寄る。そして、しゃがみ込み花音を見上げた
「……顔を上げてください、先輩」
瑠璃の声は、凪いだ湖面のように穏やかだった。
「わたくしは、あの日から一度たりとも、先輩を恨んだことなどありません」
「で、でもぉ……っ! 私のせいで、瑠璃ちゃんは……!」
「いいんです。すべてはもう、過ぎたことです」
瑠璃は懐からハンカチを取り出すと、花音の涙を丁寧に拭った。その手つきは慈愛に満ちていて――まるで、駄々をこねる妹を諭す姉のようだった。
本来なら、先輩である花音が瑠璃を守るべきだったのに。二年前も、そして今も、瑠璃が花音を守っている。
「あの夜、先輩が無事に戻ってきてくれた。それだけで、わたくしは十分でした。……勝敗など、二の次です」
瑠璃は、完璧な微笑みを浮かべて言った。そこには一点の曇りもない。過去の傷など存在しなかったかのような、やさしい赦し。
それは、誰もが見惚れるような、美しい和解の光景だった。けれど。
パイプ椅子に座る光莉だけは、見てしまっていた。花音の涙を拭う瑠璃の指先が、微かに、けれど小刻みに震えているのを。
(……違う)
光莉の耳の奥に、不協和音が突き刺さる。瑠璃の喉の奥から聞こえるのは、穏やかな言葉とは裏腹な、何かが軋むような硬い音。
――『悔しかった』『勝ちたかった』
封印したはずの感情が、黒いノイズとなって漏れ出している。本当は、誰よりも勝ちたかったはずだ。
自分の全てを懸けて挑んだ選挙だったんだ。後悔がないわけがない。絶望しなかったわけがない。
それでも彼女は、「あなたのせいだ」と責めることはしなかった。
自分の感情を押し殺し、「気にしていない」という優しい嘘をついて、花音の罪悪感ごと一人で飲み込んだのだ。
そうやって、この人はずっと一人で立ってきた。誰にも弱音を吐かず。誰にも頼らず。傷だらけの足をハイヒールに隠して、完璧な女王を演じ続けてきた。
(……なんて、強い人なんだろう)
光莉は、視界が滲むのを感じた。その強さは、あまりにも孤独で、悲しい。
目の前では、花音が瑠璃の言葉に救われ、ようやく呼吸を取り戻している。
瑠璃は、そんな花音を見て、満足げに微笑んでいる。その笑顔は完璧だ。完璧すぎて、嘘くさいほどに美しい。
(……だめだ)
光莉は、膝の上で強く拳を握りしめた。もう二度と、この人にこんな「優しい嘘」をつかせてはいけない。
過去のパートナーには言えなかった本音を、私にだけは吐き出させなきゃいけない。
「……」
光莉は、無言のまま、気丈に振る舞う瑠璃の横顔をじっと見つめた。その瞳には、単なる憧れや同情ではない、パートナーとしての静かな覚悟の火が灯っていた。




