深夜の微熱
その瞬間、張り詰めていた空気が決壊した。
「えっ、あの子!?」
「なんで? 誰よあれ!」
「地味すぎない? 西園寺様、何かの間違いじゃ……!」
ドッ、と。 数百人分の驚愕と嫉妬が、光莉をに流れ込んでくる。
耳をつんざくような不協和音。突き刺さる無数の視線。
それは、静寂を求める光莉にとっては、暴力そのものだった。
(無理……ッ!)
思考するよりも早く、本能が警報を鳴らした。ここにいてはいけない。
光莉は弾かれたように踵を返し、出口へと駆け出した。
「あ、光莉ちゃん!?」
背後で智香が呼ぶ声がしたが、振り返る余裕すらなかった。 食堂を飛び出し、廊下を走る。けれど、背中にはまだ、食堂から溢れ出したざわめきが聞こえ、追いすがってくる気がした。
階段を駆け上がり、呼吸を乱しながら長い廊下を走る。
自分の部屋のドアが見えた時、光莉は溺れかけた人間が水面を見つけたかのように、扉を乱暴に開け放つ。体を滑り込ませると、扉を勢いよく閉め、鍵をかける。同時に、その場に崩れ落ちた。
「はあ……っ、はあ……!」
肩で息をする。 分厚いドア一枚を隔てて、ようやく世界が遮断された。まだ荷解きも終わっていないダンボールが積まれただけの、無機質な空間。そこにある「無音」だけが、今の光莉の救いだった。
(……さいあくだ)
光莉は、震える膝を抱えて顔を埋めた。あれだけの数の生徒の前での指名。明日からの視線や噂話を想像するだけで、内臓が鉛のように重くなる。私の平穏な学園生活計画は、初日にして修正不可能なルートに突入してしまったらしい。そのまま這うようにしてベッドに身体を放り投げた、その時だった。
コン、コン。
ノック音が、沈みかけた意識を連れ戻す。
ビクッと身を震わせながら、恐る恐るドアを開けると、そこには息を切らした遠山智香が立っていた。
「光莉ちゃーん! 生きてるー!?」
「……うん、なんとか」
「猛ダッシュで行っちゃうから、ビックリしたよ~! 顔死んでるけど大丈夫!?」
「……ダメ、かも」
「ほらほら、とりあえず私の部屋おいで! すぐそこだからさ!」
智香に強引に腕を引かれ、光莉は廊下へ連れ出された。
智香が指差したのは、なんと光莉の部屋のすぐ隣、一つ右のドアだった。
「え、智香ちゃん、ここ?」
「そ! まさかのお隣さんでしたー! すごい縁だよね、私たち!」
光莉は目を丸くした。
この巨大な寮で、入学式で最初に話した子が偶然隣の部屋だなんて。
智香は「運命だね!」と屈託なく笑い、ドアを開け放った。
足を踏み入れた瞬間、光莉は再び目を瞬かせた。
「すごい……」
間取りは同じはずなのに、そこは別世界だった。
パステルピンクのカーテン、フリルのついたベッドカバー。棚にはファンシーな小物が所狭しと並んでいる。視界に入る情報の彩度が高すぎる。
「これ、歓迎会の前にやったの?」
「えへへ、まあね! やっぱ自分の城は、こうじゃなきゃ!」
智香はえっへんと胸を張り、光莉をクッションに座らせると、甘いココアを入れてくれた。部屋は視覚的にはうるさいほどカラフルだ。けれど、智香から発せられる感情の色は単純で、温かい。食堂で浴びた、あの刺々しいノイズとは正反対のものだ。光莉は、張り詰めていた神経が少しずつ緩んでいくのを感じた。
「……智香ちゃんは、すごいね。明るくって」
「えー? 光莉ちゃんこそ、いきなり有名人じゃん! 瑠璃先輩とペアとか、漫画みたい!」
「……代わってあげたいくらいだよ」
「あはは、私は無理! 頭悪いし」
ケラケラと笑う智香からは、打算も、嫉妬も、重苦しい期待も聞こえてこない。
(智香ちゃんといると、耳をふさがなくていい)
何の裏もない言葉。それが今の光莉には、一番の薬だった。
「……ありがと。ちょっと復活した」
「お、よかった! またいつでも来てよ。壁薄いから、叩けば聞こえるし!」
智香の部屋を出て、廊下へ戻る。
少しだけ軽くなった気分で、数メートル先にある自室のドアノブに手をかけようとした、その時だった。
「こんばんは、小林さん」
背後からかけられた静かな声に、光莉の手が止まった。
振り返らなくてもわかる。さっきまでの智香との温かい空気が一瞬で冷える、あの独特の気配。
ゆっくりと振り返る。廊下の薄暗がりの中に、西園寺瑠璃が立っていた。
だが、身構えた光莉の耳に届いたのは、ステージの時のような攻撃的な音ではなかった。
そこにあるのは、張り詰めすぎて切れかかった弦のような、頼りない静寂。
「……少しだけ、お話したいの」
瑠璃は、どこか力なく微笑んだ。
「できれば、人の少ないところで。……お部屋に、入れてもらえないかしら?」
光莉の本能は「断れ」と警告している。これ以上関われば、あの面倒な渦の中心に引きずり込まれる。 けれど、目の前の瑠璃は、まるで電池が切れかけた人形のように、今にもその場に崩れ落ちそうに見えた。その「弱々しい気配」を無視して扉を閉めるほど、今の光莉は非情にはなれなかった。
(……ずるい人だ)
「どうぞ」
光莉はドアを開け、彼女を招き入れた。
部屋に入ると、瑠璃はまだダンボールが積み上がったままの無機質な部屋を一瞥し、ふっと息を漏らした。
「懐かしいわ。わたくしの部屋も、最初はこうだった」
そして、彼女は何でもないことのように、そのまま床にスカートを広げて座り込もうとした。
「あ、あの、そっち……!」
光莉は慌てて声を上げ、自分のベッドを指差した。
「床なんて……よければ、どうぞ、ベッドに座ってください」
瑠璃は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「ありがとう」と素直に笑い、ベッドの端に腰掛けた。
光莉も、少しだけ距離をとって横に腰掛ける。だが、所詮はシングルベッドだ。近い。触れそうな距離。そこから伝わってくるのは、熱。そして、さっきまで数百人の前で演じていた重圧の残り香。
「……怒られてしまったわ」
沈黙を破り、瑠璃がぽつりと呟く。
「川邊寮長に。あんな乱暴な指名の仕方はないって」
苦笑するその顔は、ただの失敗して落ち込む少女のそれだった。
「だから、ごめんなさい。あなたに不快な思いをさせてしまって」
「い、いえ。その、もう過ぎてしまったこと、ですから」
明日からのことを考えると気が重いのは事実。でもそれをネチネチ追及するのも嫌いだった。
光莉の耳に、彼女の「安堵」の吐息が聞こえてくる。誰にも見られていないこの狭く殺風景な部屋で、ようやく呼吸ができているような、安堵の音。
(……本当は、この人)
すると、瑠璃がポケットからスマートフォンを取り出し、少し躊躇うようにこちらへ向けた。
「……連絡先を、交換しましょう」
「え?」
「もう少し、あなたのことを知りたいし、わたくしのことも知ってほしい」
その言葉は、ただの事務連絡のための口実ではなかった。
先ほどまでの弱々しい音とは少し違う、純粋に人との繋がりを求めるような、微かな期待を含んだ響き。
「……」
光莉は、少し迷ってから、おずおずと自分のスマートフォンを差し出した。
画面が光る。二人の繋がりが確定した瞬間。
光莉は、自分が「安寧」を手放し、この「不協和音」に、一歩近づいてしまったことを自覚した。
けれど不思議と、そのことに嫌悪感はなかった。ただ、放っておけないという小さな棘が、胸に残っただけだった。




