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先輩、私にだけ心の音がダダ漏れです。  作者: 如月白華


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3/11

深夜の微熱

 その瞬間、張り詰めていた空気が決壊した。


「えっ、あの子!?」

「なんで? 誰よあれ!」

「地味すぎない? 西園寺様、何かの間違いじゃ……!」


 ドッ、と。  数百人分の驚愕と嫉妬が、光莉をに流れ込んでくる。

 耳をつんざくような不協和音。突き刺さる無数の視線。

 それは、静寂を求める光莉にとっては、暴力そのものだった。


(無理……ッ!)


 思考するよりも早く、本能が警報を鳴らした。ここにいてはいけない。

 光莉は弾かれたように踵を返し、出口へと駆け出した。


「あ、光莉ちゃん!?」


 背後で智香が呼ぶ声がしたが、振り返る余裕すらなかった。 食堂を飛び出し、廊下を走る。けれど、背中にはまだ、食堂から溢れ出したざわめきが聞こえ、追いすがってくる気がした。


 階段を駆け上がり、呼吸を乱しながら長い廊下を走る。

 自分の部屋のドアが見えた時、光莉は溺れかけた人間が水面を見つけたかのように、扉を乱暴に開け放つ。体を滑り込ませると、扉を勢いよく閉め、鍵をかける。同時に、その場に崩れ落ちた。


「はあ……っ、はあ……!」


 肩で息をする。  分厚いドア一枚を隔てて、ようやく世界が遮断された。まだ荷解きも終わっていないダンボールが積まれただけの、無機質な空間。そこにある「無音」だけが、今の光莉の救いだった。


(……さいあくだ)


 光莉は、震える膝を抱えて顔を埋めた。あれだけの数の生徒の前での指名。明日からの視線や噂話を想像するだけで、内臓が鉛のように重くなる。私の平穏な学園生活計画は、初日にして修正不可能なルートに突入してしまったらしい。そのまま這うようにしてベッドに身体を放り投げた、その時だった。


 コン、コン。


 ノック音が、沈みかけた意識を連れ戻す。

 ビクッと身を震わせながら、恐る恐るドアを開けると、そこには息を切らした遠山智香が立っていた。


「光莉ちゃーん! 生きてるー!?」


「……うん、なんとか」


「猛ダッシュで行っちゃうから、ビックリしたよ~! 顔死んでるけど大丈夫!?」


「……ダメ、かも」


「ほらほら、とりあえず私の部屋おいで! すぐそこだからさ!」


 智香に強引に腕を引かれ、光莉は廊下へ連れ出された。

 智香が指差したのは、なんと光莉の部屋のすぐ隣、一つ右のドアだった。


「え、智香ちゃん、ここ?」


「そ! まさかのお隣さんでしたー! すごい縁だよね、私たち!」


 光莉は目を丸くした。

 この巨大な寮で、入学式で最初に話した子が偶然隣の部屋だなんて。

 智香は「運命だね!」と屈託なく笑い、ドアを開け放った。


 足を踏み入れた瞬間、光莉は再び目を瞬かせた。


「すごい……」


 間取りは同じはずなのに、そこは別世界だった。

 パステルピンクのカーテン、フリルのついたベッドカバー。棚にはファンシーな小物が所狭しと並んでいる。視界に入る情報の彩度が高すぎる。


「これ、歓迎会の前にやったの?」


「えへへ、まあね! やっぱ自分の城は、こうじゃなきゃ!」


 智香はえっへんと胸を張り、光莉をクッションに座らせると、甘いココアを入れてくれた。部屋は視覚的にはうるさいほどカラフルだ。けれど、智香から発せられる感情の色は単純で、温かい。食堂で浴びた、あの刺々しいノイズとは正反対のものだ。光莉は、張り詰めていた神経が少しずつ緩んでいくのを感じた。


「……智香ちゃんは、すごいね。明るくって」


「えー? 光莉ちゃんこそ、いきなり有名人じゃん! 瑠璃先輩とペアとか、漫画みたい!」


「……代わってあげたいくらいだよ」


「あはは、私は無理! 頭悪いし」


 ケラケラと笑う智香からは、打算も、嫉妬も、重苦しい期待も聞こえてこない。


(智香ちゃんといると、耳をふさがなくていい)


 何の裏もない言葉。それが今の光莉には、一番の薬だった。


「……ありがと。ちょっと復活した」


「お、よかった! またいつでも来てよ。壁薄いから、叩けば聞こえるし!」


 智香の部屋を出て、廊下へ戻る。

 少しだけ軽くなった気分で、数メートル先にある自室のドアノブに手をかけようとした、その時だった。


「こんばんは、小林さん」


 背後からかけられた静かな声に、光莉の手が止まった。

 振り返らなくてもわかる。さっきまでの智香との温かい空気が一瞬で冷える、あの独特の気配。

 ゆっくりと振り返る。廊下の薄暗がりの中に、西園寺瑠璃が立っていた。


 だが、身構えた光莉の耳に届いたのは、ステージの時のような攻撃的な音ではなかった。


 そこにあるのは、張り詰めすぎて切れかかった弦のような、頼りない静寂。


「……少しだけ、お話したいの」


 瑠璃は、どこか力なく微笑んだ。


「できれば、人の少ないところで。……お部屋に、入れてもらえないかしら?」


 光莉の本能は「断れ」と警告している。これ以上関われば、あの面倒な渦の中心に引きずり込まれる。  けれど、目の前の瑠璃は、まるで電池が切れかけた人形のように、今にもその場に崩れ落ちそうに見えた。その「弱々しい気配」を無視して扉を閉めるほど、今の光莉は非情にはなれなかった。


(……ずるい人だ)


「どうぞ」


 光莉はドアを開け、彼女を招き入れた。


 部屋に入ると、瑠璃はまだダンボールが積み上がったままの無機質な部屋を一瞥し、ふっと息を漏らした。


「懐かしいわ。わたくしの部屋も、最初はこうだった」


 そして、彼女は何でもないことのように、そのまま床にスカートを広げて座り込もうとした。


「あ、あの、そっち……!」


 光莉は慌てて声を上げ、自分のベッドを指差した。


「床なんて……よければ、どうぞ、ベッドに座ってください」


 瑠璃は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「ありがとう」と素直に笑い、ベッドの端に腰掛けた。


 光莉も、少しだけ距離をとって横に腰掛ける。だが、所詮はシングルベッドだ。近い。触れそうな距離。そこから伝わってくるのは、熱。そして、さっきまで数百人の前で演じていた重圧の残り香。


「……怒られてしまったわ」


 沈黙を破り、瑠璃がぽつりと呟く。


「川邊寮長に。あんな乱暴な指名の仕方はないって」


 苦笑するその顔は、ただの失敗して落ち込む少女のそれだった。


「だから、ごめんなさい。あなたに不快な思いをさせてしまって」


「い、いえ。その、もう過ぎてしまったこと、ですから」


 明日からのことを考えると気が重いのは事実。でもそれをネチネチ追及するのも嫌いだった。

 光莉の耳に、彼女の「安堵」の吐息が聞こえてくる。誰にも見られていないこの狭く殺風景な部屋で、ようやく呼吸ができているような、安堵の音。


(……本当は、この人)


 すると、瑠璃がポケットからスマートフォンを取り出し、少し躊躇うようにこちらへ向けた。


「……連絡先を、交換しましょう」


「え?」


「もう少し、あなたのことを知りたいし、わたくしのことも知ってほしい」


 その言葉は、ただの事務連絡のための口実ではなかった。

 先ほどまでの弱々しい音とは少し違う、純粋に人との繋がりを求めるような、微かな期待を含んだ響き。


「……」


 光莉は、少し迷ってから、おずおずと自分のスマートフォンを差し出した。

 画面が光る。二人の繋がりが確定した瞬間。

 光莉は、自分が「安寧」を手放し、この「不協和音」に、一歩近づいてしまったことを自覚した。

 けれど不思議と、そのことに嫌悪感はなかった。ただ、放っておけないという小さな棘が、胸に残っただけだった。

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