波音と体温
光莉は走った。
学園の敷地を抜け、海へと続く坂道を駆け下りる。
息が切れ、肺が熱い。けれど、足は止めなかった。
たどり着いたのは、地図にも載っていないような、古びた海辺の公園。
夕闇が迫る中、防波堤のそばにあるベンチに、その人影を見つけた。
「……」
西園寺瑠璃は、一人で海を見ていた。
その背中は小さく、頼りなく見えた。
けれど、光莉が声をかけようと息を吸い込んだ、その時だった。
瑠璃が、顔を上げた。
彼女は両手でパン、と自分の頬を軽く叩き、深く息を吐き出した。
俯いていた顔を上げ、海風に髪をなびかせながら、水平線を睨みつけるように背筋を伸ばす。
(……あ)
光莉は足を止めた。
泣き崩れているかと思った。膝を抱えて動けなくなっているかと思った。
でも、違った。
彼女は、自分で立とうとしていた。
一度の敗北で終わるものか、と。ボロボロになったプライドを自分で拾い集め、無理やりにでも継ぎ接ぎして、再び「完璧な女王」に戻ろうとしていた。
その姿は、痛々しく、けれどどうしようもなく気高かった。
「……先輩」
光莉は、震える声で呼びかけた。
瑠璃の肩がビクリと跳ねる。
彼女が振り返る。その目は赤く腫れていたが、涙は流れていなかった。
「光莉……? どうして、ここが」
瑠璃は一瞬狼狽え、バツが悪そうに視線を泳がせた。
けれど、すぐに袖で目元をぬぐい、乱れた髪を耳にかけた。
パートナーに、これ以上みっともない姿は見せられないとでも言うように。
「……さっきはごめんなさい。少し、頭を冷やせたわ」
瑠璃は、努めて気丈に微笑んでみせた。
「もう大丈夫よ。……さあ、帰りましょう。明日からの対策を練らなくちゃ」
その声は凛としていた。いつもの完璧な先輩だ。
けれど、光莉の耳は誤魔化せなかった。
無理をして張り詰めた糸が、限界を超えて震えている音。
「大丈夫」と自分に言い聞かせながら、それでも溢れ出しそうな不安を必死に抑え込んでいる振動音。
彼女はまだ、震えている。
「……」
光莉は何も言わなかった。
「泣いていたんですか」と聞くことも、「頑張りましょう」と励ますこともしなかった。
今の先輩に必要なのは、言葉じゃない。
光莉は静かに歩み寄り、瑠璃の座るベンチの隣に、ことりと腰を下ろした。
「……光莉?」
瑠璃が戸惑ったように名を呼ぶ。
光莉は前を向いたまま、ただ暮れなずむ海を眺めた。
言葉はいらない。
ただ、隣にいる。
体温が伝わる距離で、同じ景色を見る。
今の先輩に必要なのは、強引な救済ではなく、ただ「ここにいてもいいんだ」と思える体温だけだと思ったから。
波の音が、寄せては返す。
二人の間に、静かな時間が流れていく。
しばらくして。
肩と肩が触れ合う部分から、微かな振動が伝わってきた。
光莉がそっと横を見ると、瑠璃が俯いていた。
膝の上に置かれた拳が、小刻みに震えている。
そして、一筋の雫が、彼女の頬を伝って落ちた。
「……あ」
隣で張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ気がした。
まるで、ずっと息を止めていた人が、ようやく呼吸を思い出したような。
瑠璃の肩から力が抜け、強張っていた背中が丸まっていく。
許されたのだと、光莉は感じた。
隣にいることを。その弱さを共有することを。
「……光莉」
瑠璃が、震える声で呼んだ。
「……はい」
「ごめんなさい。……わたし、間違っていたわ」
瑠璃は、光莉の肩にコツンと頭を預けてきた。
ずしりとした重みと、温かい体温が伝わってくる。
「一人でうまくやれると思っていた。……あなたを頼ることすら、弱さだと思っていたの」
弱々しい、けれど素直な音色。
それが宝石ではない、瑠璃の本当の声だった。
光莉は、預けられた重みを愛おしく感じながら、小さく、けれどはっきりと告げた。
「……今度は、もっと相談してください」
それは、パートナーとしてのささやかな要求。
「私が頼りないのはわかってます。でも……一緒に悩むことくらいは、できますから」
瑠璃は、光莉の肩に顔を埋めたまま、何度も、何度も小さく頷いた。
「……ええ。そうね」
瑠璃の手が、光莉の手を探り当て、ぎゅっと握りしめてきた。
痛いほど強く、すがるように。
「頼りにさせてちょうだい。……わたしの、パートナー」




