過去の影、今の光
純の問いかけが、静寂に溶けていく。
「……」
光莉は、唇を噛み締めたまま、言葉を発することができなかった。
迷っているわけではない。答えは心の中にありすぎるほどある。
けれど、それを口にする資格が、今の自分にあるのだろうか。
演説会。光莉は力になれなかった。凍りつく空気を変えることも、瑠璃の心を温めることもできなかった。ただ隣で、彼女が傷つく音を聞いていただけ。
そんな無力な自分が、「隣にいたい」なんて言えるはずがない。
光莉の沈黙を、純はどう受け取ったのか。
彼女はふぅ、とため息をつくと、カップを置いて窓の外を見た。
「……私はね。あの子の隣には、立てないのよ」
ぽつりと、独り言のように純が言った。
「それは、ペアとして、ですか」
光莉が問うと、純は寂しげに微笑んだ。
「ええ。私たちはルール上、ペアを組めない」
純は、自身の黒髪を指で梳いた。
「でも私は誓ったの。あの子を合同生徒会選挙でまた輝かせると……」
*
あの時、1年生だった私は選挙戦に挑み――そして、序盤であっけなく西園寺瑠璃に敗北した。
完敗だった。容姿、知性、人を惹きつけるカリスマ性。
私を負かした彼女は、誰よりも強く、輝いて見えた。私は悔しさよりも先に、その圧倒的な輝きに魅入られてしまった一人に過ぎなかった。
けれど、最終局面。 彼女は敗れた。
完璧すぎた彼女についていけなくなったパートナーとの連携が崩れ、共倒れになった。
周囲の反応は残酷だった。
『西園寺さんも期待外れね』『独りよがりだわ』
さっきまで彼女をちやほやしていた有象無象たちが、掌を返したように失望し、離れていった。
学園内でも、彼女は腫れ物扱いされ、心ない噂や嘲笑がその背中に突き刺さるようになった。
それでも、彼女は気高く振る舞っていた。
誰の前でも弱音を吐かず、完璧な「西園寺瑠璃」を演じ続けていた。
……私は信じていた。私を負かした相手は、こんなところで終わる人間ではないと。
だから私は、遠くから彼女を見つめ続けていた。
そんなある日の放課後。
私は、彼女が一人で校門を出ていくのを見かけ、吸い寄せられるように後を追った。
彼女がたどり着いたのは、学園から外れた、海沿いの寂れた公園だった。
人気のない、夕暮れの場所。
そこで、彼女はベンチに崩れ落ちた。
周囲に誰もいないことを確認すると、うずくまり、声を押し殺して泣き始めた。
寮でも、学園でも、どこにも居場所がなかった彼女が、ようやく見つけた「弱さを吐き出せる場所」。
その震える背中を見た時、私は思ったの。
――ああ、なんて綺麗なんだろう、と。
誰もが彼女を見捨てた中で、たった一人、孤独に耐え、泥まみれになっても輝きを失うまいと足掻くその姿。
傷つき、血を流しながらも気高くあろうとするその背中に、私は――。
ふらっと近づいた私は、足元の小枝を踏んでしまった。
パキリ、と乾いた音が響く。
「……ッ!」
瑠璃が弾かれたように顔を上げた。
涙で濡れた顔。充血した目。
私と目が合うと、彼女は絶望的な表情で笑った。
「……和泉、さん」
自嘲気味な声。
「見られてしまったわね。無様でしょう。敗北者がひとり、こんなところで」
彼女は、世界中のすべてが敵だと思っているような目つきで私を睨んだ。
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。
私は迷わず彼女に歩み寄り、その冷え切った手を強く掴んだ。
「……なっ」
「ふざけるな!」
私は叫んでいた。
「私を負かしたあなたが、自分を卑下するのか。馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
「……え?」
「私はあなたに負けたんだ。私が認めた『西園寺瑠璃』は、こんな一度の敗北くらいで、怯えて終わるような女じゃない!」
瑠璃は呆然としていた。
まさか、かつてのライバルから、こんな言葉を浴びせられるとは思っていなかったのか。
私は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて宣言した。
「私たちには、まだ2年後があるじゃないか」
「2年……後……?」
「そうよ。……あなたは必ず返り咲く。あなたの実力なら、次は絶対に勝てる」
私は、掴んだ手にさらに力を込めた。
「そのための『道』は……私が作ってやる」
瑠璃の瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
それは絶望の涙ではなく、初めて「味方」を得た安堵の涙だった。
あの日、あの夕暮れの海辺で。
私と彼女の共犯関係は始まったんだ。
*
純は、ゆっくりと瞬きをして、意識を現実に戻した。
目の前には、不安そうに自分を見つめる小林光莉がいる。
この子には、言えない。
私が瑠璃に執着するのは、彼女の「弱さ」と「強さ」の両方に、魂ごと奪われてしまったからだなんて。
「……あの子はね、泥まみれになっても、決して折れないの」
純は、あくまで冷静に、光莉に告げた。
「私はその精神性に……、敬意を抱いている。だからこそ、私はあの子の『影』として、舞台を整える役を選んだのよ」
純の視線が、光莉に戻る。
その瞳には、託す者としての厳しい光が宿っていた。
「でも、今のあの子に必要なのは、道を作る影じゃない。……暗闇の中で、あの子の手を握り返してくれる『光』よ」
純の手が伸びて、光莉の手の甲に触れた。
「今の、一歩引いてしまった私にはできないから。……でも、あなたは違う」
純は、光莉の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたは、あの子の弱さも、脆さも知った上で……それでも『放っておけない』と言ってくれた。……あの子の『孤独』を終わらせられるのは、隣を行くあなたしかいないのよ」
光莉の心臓がドクンと跳ねた。純の言葉の裏にある、語られなかった重たい想いまではわからない。
けれど、この人が「自分の立場」を捨ててまで瑠璃を守ろうとしてきた覚悟だけは、痛いほど伝わってきた。
自分が無力だとか、資格がないとか、そんな言い訳はもうできない。
この人が、あえて一歩引いて託してくれた場所を、私が埋めなければ嘘になる。
「……やっぱり、私行きます」
光莉は顔を上げた。
迷いは消え失せていた。
「……私が、瑠璃先輩を一人にはさせません」
光莉は、純の手を握り返した。
「瑠璃先輩の居場所を教えてください」
純は一瞬驚いたように目を見開き、それから……心底安心したように、美しく微笑んだ。
「……ありがとう。本当にあの子のペアが光莉さん。あなたでよかった」
純は、窓の外、夕暮れのほうを指さした。
「あの子は、海辺の公園にいるはず。……このあたりにはあそこしか一人になれる場所がないから」
「ありがとうございます!」
光莉は立ち上がり、深く一礼すると、部屋を飛び出した。
バタン、と扉が閉まる音。
残された純は、冷めた紅茶を一口飲み、誰もいない部屋で天井を見上げた。
胸の奥で燻る、甘く苦い感情を飲み下すように。
「……行ってらっしゃい。私には居られない場所に」
その言葉は、少しの嫉妬と小さな感謝に満ちていた。




