傷だらけの宝石
演説会から数日。
執行委員会室の空気は冷え切っていた。
壁の大型モニターには、選挙管理委員会が集計した、現時点でのリアルタイム速報値が表示されている。
1位:九条ねね・常盤奏ペア
2位:西園寺瑠璃・小林光莉ペア
逆転されていた。
あれだけ開いていた差が、たった一度の演説会でひっくり返されたのだ。
数字は残酷なほど正直に、生徒たちの心がどちらに動いたかを示していた。
「……」
瑠璃は、モニターを見上げたまま動かなかった。
その背中は、いつもより一回り小さく見えた。
「……先輩」
光莉は、いたたまれなくなって声をかけた。
何か言わなきゃ。
『まだ予選が終わったわけじゃありません』『貢献のポイントでは勝ってます』。
慰めの言葉はいくつも浮かぶ。けれど、どれも今の瑠璃には空虚な響きにしかならない気がした。
「……論理的に、考えれば」
瑠璃が、搾り出すような声で言った。
「わたくしの案の方が、安全性もコストパフォーマンスも優れていたはず。……それなのに、どうして」
彼女は理解できないのだ。
自分が信じた「正しさ」が、不確定な「楽しさ」に負けたことが。
そして何より、自分の言葉が生徒たちに拒絶されたという事実が、彼女のプライドに深い亀裂を入れていた。
「瑠璃」
デスクの向こうから、純が静かに声をかけた。
「今日の会議はまたにしましょう。少し頭を冷やした方がいいわ」
「……いいえ」
瑠璃は、強張った顔で首を振った。
「まだ今日の予定が残っているわ。放送部からの機材トラブルの相談と、風紀委員との定例会が……行かなきゃ……」
彼女は立ち上がろうとしたが、足がもつれて、ガタンと椅子を揺らす。
痛々しいほどに余裕がない。
「完璧」であろうとすればするほど、ボロボロと崩れていく。
「先輩、無理です、今日は休みましょう」
光莉が駆け寄って肩に手をのせるが、瑠璃はその手を弱々しく払いのけた。
「……わかった。今日は休むわ」
瑠璃は、光莉と目を合わせようとしなかった。
「だから……少し一人にして」
その声は、震えていた。
今の自分のみっともない顔を、誰にも――特に、パートナーである光莉には見られたくないのだ。
「予定はキャンセルしておいて。……失礼するわ」
瑠璃はそれだけ言うと、逃げるように部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる音が、光莉の心臓を叩いた。
「先輩……ッ!」
このまま一人にしてはいけない。
あの背中から聞こえた音は、かつてないほど脆く、今にも砕け散りそうな悲鳴だった。
光莉は弾かれたようにドアへ走った。
「待ちなさい」
ドアノブに手をかけた瞬間、鋭い声が光莉を止めた。
振り返ると、純が立ち上がっていた。
「……和泉先輩。でも、瑠璃先輩が……!」
「今、追いかけても無駄よ」
純の声は冷静だった。
「あの子は今、自分の不甲斐なさに耐えられないの。そんな時にあなたが駆け寄っても、あの子を余計に追い詰めるだけだわ」
「……っ」
光莉の手が止まる。
純の言うことは正しいのかもしれない。
でも、あの孤独な背中を知っているのに、放っておくなんてできない。
「座りなさい、小林さん」
純は、再びデスクに戻り、ポットに手を伸ばした。
「時間をあければあの子は落ち着くわ。その間、……お茶でも淹れるから、少し話しましょう。」
拒否を許さない静かな圧力。純にはまるでこの後の瑠璃の姿が見えているかのようだった。
光莉は、閉ざされた扉を一度だけ見つめ、悔しさに唇を噛み締めながら、ソファへと戻った。
*
コポコポと、紅茶が注がれる音だけが響く。
この部屋に二人きりになるのは、光莉が瑠璃について相談に来て以来だ。
あの時は、まだ「他人事」だった。
でも今は違う。部屋に残された瑠璃の空席が、どうしようもなく痛い。
「……はい」
純が、湯気の立つカップを差し出した。
アールグレイの香り。けれど、光莉にはその香りを楽しむ余裕などなかった。
「……ありがとうございます」
カップを受け取る手が震える。
純は自分のカップを持ち、ソファの対面に深く腰掛けた。
そして、長い沈黙の後。
あの時と同じ、氷のように透き通った瞳で、光莉を射抜いた。
「……小林さん。改めて聞くわ」
純の声が、静寂に溶ける。
「あなたは、瑠璃のことをどう思ってる?」
かつて同じ場所で問われた質問。
あの時の光莉は、瑠璃の完璧さがどこか怖かった。
純は、カップの縁を指でなぞりながら続けた。
「今回、瑠璃は負けたわ。『宝石』は砕けて、ただの脆い女の子に戻ってしまった」
純の視線が鋭さを増す。
「それでもあなたは……あの、『面倒くさい』あの子の隣にいられる?」




