奇妙なモーニング
「……助けていただいて、ありがとうございました」
光莉は、まだ少し震える声で礼を言った。
朝霧の中に立つ九条ねねは、いつもの制服姿ではなかった。淡いクリーム色のカーディガンに、ふわりとしたロングスカート。彼女の雰囲気そのままの、マシュマロのように柔らかく、触れたら崩れてしまいそうな甘い装い。
「いいのよぉ。あの子の金切り声、私の朝の気分には合わなかっただけだから」
ねねは、ひらひらと手を振った。
その仕草からは、先ほど生徒を威圧した時の迫力は微塵も感じられない。
「光莉ちゃん。このあと、予定はあるかしら?」
「え、いえ。散歩していただけなので……」
「じゃあ、助けた代わりに、と言ってはなんだけれど、少し付き合ってくださらない? おいしいモーニングのお店があるのよぉ」
ねねは小首をかしげて微笑んだ。
それは拒否権のない命令ではなく、断るのがもったいないと思わせるような、甘美な誘惑だった。
光莉は、吸い寄せられるように頷いていた。
*
連れられてきたのは、商業エリアの外れにある小さな喫茶店だった。
メインストリートからは遠く離れ、木々に囲まれた隠れ家のような場所。
カランコロン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませー。あ、九条さん!」
エプロン姿の若い女性店員が、パッと顔を輝かせた。
「おはようございますぅ。……今日も貸切みたいねぇ」
ねねが店内を見渡す。客は一人もいない。
静かなBGMが流れる店内は、琥珀色の照明に満たされ、落ち着いた空気が漂っている。
「ここのトースト、絶品なのにねぇ。場所が悪いのかしらぁ」
「もう、九条さんったら! うちは隠れ家コンセプトなんですってば」
店員が笑いながらお水を持ってくる。
そのやり取りは、とても自然で温かい。店員からも、ねねに対する好意的な感情しか伝わってこない。
誰もが彼女に心を許し、懐柔されてしまう。
(……すごい人だ)
光莉は改めて思った。
この人は、どんな相手の懐にも、音もなく入り込んでしまう。
それはある種の「魔性」だった。
二人は窓際の席に向かい合って座った。
注文した厚切りトーストのセットが届くまで、光莉は先ほどの出来事について、ぽつりぽつりと話した。
「……結局、あの子の言ったことは間違いじゃないんです。私は先輩に乗っかってるだけで……自分には何の力もないですから」
なぜかそんな言葉が口を継いでしまう。
自嘲気味に話す光莉を、ねねは頬杖をつきながら、いつもの微笑み混じりでじっと見つめていた。
その瞳は、やはり底が見えない。
「……ねえ、光莉ちゃん」
ねねが、湯気の立ち上るコーヒーを一口飲み、カップを置いた。
「どうして、自分の力がないなんて思うのぉ?」
「え……?」
「だってあなたは、あの西園寺瑠璃にパートナーにしたいと思わせたんでしょう?」
ねねは、自分の頬を人差し指でつついた。
「戦って勝つのだけが強さじゃないわぁ。……誰かに『助けたい』『一緒にいてほしい』と思わせる。それって、自分の手足を使わずに相手を動かす、最強の力だと思わない?」
「力……」
「西園寺さんは、風に立ち向かって切り裂く人。……でも、私にはそんな力はないから、周りの人に風穴を開けてもらえないかなあって、いつも思ってるの」
ねねはクスクスと笑った。
その表情にはどこか怪しい光が浮かんでいる。
「愛嬌も、弱さも、全てが武器。……あなたが今、西園寺さんに守られているなら、それはあなたの能力よぉ。誇っていいわ」
瑠璃や純の言っていた「コネも実力」という論理的な説明とは違う。
もっと感覚的で、本能的な「生存戦略」。
目の前のこの人は、自分がどう見えれば周囲が動くか、それを完全に理解してコントロールしているのだ。光莉は背筋が寒くなるのと同時に、奇妙な説得力を感じていた。
「……まあ、難しい話はこれくらいにしてぇ」
ねねは、ふわりと空気を変えた。
重くなりかけた雰囲気を、手で払うように微笑む。
「あの子……うちの奏ちゃんのこと、少し聞かせてもらえないかしらぁ」
「常盤さんのこと、ですか?」
「ええ。クラスではどんな感じなのかしらって。あの子、私の前だと仏頂面ばっかりだから」
光莉は少し考え、普段、隣の席に見える奏の姿を思い出した。
「……静かです。いつも一人で本を読んでいて」
光莉は、正直な印象を語った。
「でも、授業で指名された時の回答は完璧で、テストもいつもトップですし……先生たちも一目置いている感じです。頭脳明晰で、孤高の人、ってイメージです」
そう答えると、ねねは「やっぱりぃ」と嬉しそうに目を細めた。まるで、自分の見立てが正しかったことを誇るように。
「私の見込み通りだわぁ。……冷たくて、硬くて、誰も寄せ付けない透明で綺麗な氷」
運ばれてきたトーストの香ばしい匂いが漂う中、ねねの瞳がスッと細められた。
「ねえ、光莉ちゃん。私がどうして、あの子を選んだのか……不思議に思わなかったぁ?」
「……えっと、気に入ったから、とか?」
「うふふ、もちろんそれもあるけれど」
ねねは、トーストを両手で裂きながら、ポツリと言った。
「私もね、何の思いもなく選挙に臨んでいるわけじゃないの」
その声のトーンが、一段低くなった気がした。
甘い笑顔はそのままなのに、光莉の肌に冷たい緊張が走る。
「この選挙はね、私にとって『絶対』なの」
ねねは、小さくなったトーストのかけらをほおばると、花のような笑顔を浮かべ、店員においしいと手を振る。
でも、その瞳の奥には、笑顔とは真逆の底知れない闇と、燃え盛るような執着が揺らめいているように見えた。
「勝つためなら、私も何だって使うわ。……もちろん、奏ちゃんのこともね」
ねねは妖艶に微笑んだ。
その笑顔は、光莉が知っている「不思議な優しい先輩」のものではなく、獲物を狙う「狩人」のものだった。
光莉は、息を呑んだまま動けなかった。
この人は、何のために戦っているのだろう。
その柔らかな綿菓子の奥に、とてつもなく重く、硬い芯があることを、光莉はこの時初めて知った。




