痛々しい宝石
西園寺瑠璃は、光莉の顎から指を離すと、優雅な笑みを残して去っていった。
「歓迎会でお会いしましょう」
その背中からは、先ほどまでの「必死な音」は消え、再び完璧な旋律だけが流れていた。スイッチの切り替えがあまりにも早すぎる。
一人残された光莉は、膝から力が抜けるのを感じた。
(……疲れた)
あんな熱量の塊と対峙するのは、気力が削られる作業だ。
「光莉ちゃーん! 大丈夫!?」
そこへ、遠山智香が駆け寄ってきた。
「探したよ! ふたりでどっかにいっちゃうんだもん」
智香の明るい声。表裏のない、太陽のような、混じりけのない快活さ。
光莉は、智香のその底抜けない明るさに、救われる思いだった。
「……智香ちゃん」
光莉は、まだ呆然としたまま呟いた。
「あの人……なんなの……?」
その力のない問いに、智香は「え!?」と目を丸くした。
「えっ、うそ!? 光莉ちゃん、西園寺先輩のこと知らないの?『白嶺の宝石』だよ? 超有名人じゃん!」
智香は興奮気味にまくし立てる。
「それにほら、あの西園寺グループのご令嬢だってば!」
光莉は、その聞き慣れた企業名に、今度こそ血の気が引いた。
西園寺グループ。テレビCM、経済ニュース、街中の看板。日本で暮らしていてその名を聞かない日はない。
(……うわあ)
光莉は頭を抱えたくなった。
単なるきれいな押しの強い先輩というだけじゃない。背景にある家柄、財力、影響力。それら全てが、光莉の求める「静かな生活」とは対極にある。
(ヤバい人だとは思ってたけど、規格外にヤバい人だ……)
光莉は、自分の置かれた状況のスケールに、改めて絶望した。そんな「ヤバい」人が、なぜ私なんかに構うのか。
「でも、そんな人に初対面で連れていかれちゃって……!」
智香は、光莉の絶望など露知らず、キラキラした音色の声で続ける。
「やっぱ光莉ちゃん、何か持ってるって! おもしろくなってきたじゃん!」
「何も持ってないし、おもしろくもない……」
光莉は呻いた。この無邪気な明るさが、今は少しだけ恨めしい。
「とにかく……あの人から逃げたい」
そう言って光莉はぐったりと肩を落とす。 そんな様子を笑いながら、智香はその手を引く。
「さっき、寮の場所聞いておいたんだ。さ、行こ!」
明るい表情の智香と、対照的に重い足取りの光莉は手を引かれるままゆっくりと歩き始めた。
*
夜の歓迎会。食堂は新入生と上級生の熱気でごった返していた。
遠くのテーブルで、瑠璃が完璧な笑顔を振りまいているのが見える。
周囲の生徒たちは「美しい」「すごい」と囁き合っているが、光莉には、その笑顔が精巧なつくりもののように見えた。
(……あんなに張り詰めて、疲れないのかな)
見ているだけで息苦しい。光莉は逃げるように、智香と隅の席へ陣取った。
光莉がそんな感傷に浸っていると、食堂の照明がわずかに落ち、全員の視線が前方の小さなステージに集まった。 落ち着いた雰囲気の上級生が登壇し、マイクの前に立つ。
「——新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」
凛とした、よく通る声だった。
「わたくしは4年生、この寮の寮長を務めております、川邊美弥と申します。皆さんの新たな門出を、寮生一同、心より歓迎いたします」
丁寧な祝辞に、新入生たちから拍手が起こる。
「さて」
拍手が収まると、寮長はふっと表情を引き締めた。
「――皆さんの歓迎ムードに水を差すようで申し訳ないのですが、本日はこの島での最も重要なルール、『合同生徒会選挙』について説明させていただきます」
その言葉で、会場の空気が張り詰めた。 光莉も、サラダを突く手を止めて顔を上げる。
「この神輝島は、島を構成する四校の代表者で構成される統合生徒会によって運営されています。この選挙は、その『次期運営者』を選抜するための、一年間にわたる試練です」
寮長の説明は続く。
「ルールは明快。3年生が、自ら選んだ1年生と『ペア』を組み、そのペアの総合力で競います」
(ペア……)
その単語が出た瞬間、光莉の耳に、何かが擦れ合うような不快な音が聞こえた気がした。
「総合力とは、公式試験の結果。そして、全校生徒からの投票の獲得数の合計です」
寮長は、会場を見渡すように一呼吸置いた。
「これは単なるお祭りではありません。皆さんの知性、戦略、そして何より、パートナーとの『絆』が試される場です」
寮長の声は淡々としているが、光莉にはその言葉の裏にある摩擦音がずっと聞こえていた。
他人とペアを組ませ、競わせ、票を奪い合わせる。それは、人と人とを無理やりぶつけて、軋轢を生み出すための装置だ。当然、そこには嫉妬や裏切り、足の引っ張り合いといった、耳障りなノイズが大量に発生するだろう。
「そして、正直に申し上げて『苛烈』です。毎年、途中で脱落するチームも少なくありません」
(……最悪だ)
光莉は、心底うんざりした気分でため息をついた。競争、試練、脱落。私が一番聞きたくない単語のオンパレード。こんなイベントに、一年間も巻き込まれるなんて。
(絶対に関わりたくない。私は観客席で、耳栓をして寝ていたい)
そう強く願った、その時だった。
「――そして、早速ですが」
寮長が言葉を切る。
「今年の3年生から、一名、パートナー指名が届いています」
会場の空気が一変した。
ざわめきが凪ぎ、期待と緊張が混ざった静寂が広がる。
その静寂を切り裂くように、ステージ横から、あの「張り詰めた音」が近づいてきた。
寮長の言葉と同時に、瑠璃が歩み出る。 スポットライトが彼女を照らす。
その瞬間、光莉の鼓膜が、キーンという耳鳴りを拾った。
(……うわ)
光莉は思わず目を細めた。
ステージ上の瑠璃は、完璧だった。背筋を伸ばし、自信に満ちた瞳で会場を見渡している。けれど、光莉にだけは見えてしまっていた。
マイクを握る指の関節が、血の気が引くほど白く強張っていること。スリッパの中で、足の指が地面を食い入るように踏みしめ、微かな震えを殺していること。
その全身から発せられているのは、自信のオーラではない。あれは、――『不安』だ。
それは、自分自身を縛り付ける鎖が軋むような、悲痛な金属音だった。
けれど、不思議だった。
周囲の生徒から聞こえる、嫉妬や好奇心といった粘り気のあるノイズとは違う。
彼女の放つ音は、耳をつんざくほど鋭いけれど、驚くほど透き通っていた。
まるで、研ぎ澄まされた刃物が、空気を切り裂くような――。
そのあまりの「純度」に、光莉の鼓膜が小さく震えた。
「――わたくし、西園寺瑠璃は」
凛とした声が響く。瑠璃は、会場の暗がりにいる光莉を、正確に見つけ出した。
その瞳が、光莉を射抜く。ステージ上の彼女は笑っていた。けれど、その目は、やはり――。
「あそこにいる一年生、小林光莉さんを、ペア候補に指名いたします」
驚き、嫉妬、好奇の視線が、一斉に光莉に突き刺さる。
――私の平穏が、消えた。




