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先輩、私にだけ心の音がダダ漏れです。  作者: 如月白華


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答え合わせ

 通された部屋は、瑠璃という人間そのもののように、美しく整えられていた。

 白とベージュを基調としたインテリア。余計なものは一切置かれていない。

 けれど、モデルルームのような冷たさはなかった。窓辺には丁寧に手入れされた観葉植物が置かれ、ソファには使い込まれたクッションがある。


「適当に座っていて。……今、お茶を淹れるから」


 瑠璃はそう言ってキッチンへ向かった。

 光莉は言われるままソファに腰を下ろす。ふかふかの座り心地。

 ここが、先輩のテリトリー。

 キョロキョロと室内を見回すと、目の前の小さなローテーブルの上には読みかけの文庫本に可愛らしい猫の栞が挟まっているのが見えた。


(……猫、好きなのかな)


 智香が言っていた「猫のスタンプ」というのも、あながち間違いじゃないのかもしれない。

 そんな小さな発見が、すこし嬉しい。


「お待たせ」


 コトン、と目の前にティーカップが置かれた。

 立ち上る湯気と共に、花のような華やかな香りが鼻をくすぐる。

 水色は透き通った黄金色。


「……いただきます」


 一口含むと、渋みはなく、果実のような甘みが口いっぱいに広がった。詳しくない光莉でも、これが普段飲んでいるティーバッグとは次元が違うものだとわかる。


「おいしい……。すごく、いい香りがします」


 素直に呟くと、キッチンから戻ってきた瑠璃が、嬉しそうに目を細めた。


「よかった。悩んだんだけど、これにしてよかったわ。マスカットのような香りがするでしょう?  わたし、これが一番好きなの」


「一番好き……」


 光莉は、その言葉をゆっくりと噛み締めた。

『西園寺瑠璃は、この紅茶が一番好き』。

 たったそれだけのこと。けれど、噂でも人づての情報でもない、先輩の口から直接聞けた言葉。

 光莉の胸の奥が、紅茶の温度と同じくらい、じんわりと温かくなった。


 瑠璃は、マグカップを片手にソファの隣へ腰を下ろした。

 ふわりと、シャンプーの香りが鼻先をかすめる。近い。

 リラックスしたルームウェア姿の先輩が、すぐ隣にいる。その事実だけで、光莉の心臓は早鐘を打った。


「さて」


 瑠璃は一口、紅茶を飲むと、眼鏡の奥から光莉を見つめた。


「わざわざここまで来たのだから。……よほど重要な用件なんでしょう?」


 問いただすような、けれどどこか楽しんでいるような声色。

 光莉は言葉に詰まった。


「あ、いえ……その……」


 用件なんてない。「ただ会いたかった」「もっと知りたいと思った」なんて、いざ本人を目の前にすると、恥ずかしすぎて言葉が出てこない。

 視線が泳ぐ。カップの縁を指でなぞりながら、なんと切り出すべきか迷う。


 すると。

 すっ、と隣の気配が近づいた。


「……光莉?」


 顔を上げると、瑠璃の顔がすぐそこにあった。

 眼鏡のレンズ越し、長い睫毛の震えまで見える距離。

 逃げ場を封じるように、瑠璃の手がソファの背もたれに置かれる。


「言えないようなことなの? ……わたしたち、ペアなのに?」


(普段は『わたし』って言うんだ)


 瑠璃の甘く、低い声を聴きながらぼんやりとそんなことを思う。


「ペア」という言葉を、こんな風に武器に使われるなんて卑怯だ。

 さっきまでの自分を棚に上げて、光莉は心の中でつぶやいた。

 瑠璃の瞳が、そんな光莉の奥底を見透かすように覗き込んでくる。その強引な引力に、光莉は観念したように息を吐き出した。


「……九条先輩たちを、見たんです」


「九条さん?」


 瑠璃が怪訝そうに眉をひそめる。光莉は、膝の上で拳を握りしめ、ぽつりぽつりと話し始めた。


「今日、九条先輩が教室に来て……常盤さんにパンを渡していました。嫌がる常盤さんに、無理やり半分こさせたりして」


「……あの人らしいわね。相変わらずマイペース」


「でも、二人はお互いの好きなものも、嫌いなものも、全部わかってるみたいでした。出会ってからの時間は、私たちと変わらないはずなのに……」


 光莉は顔を上げ、瑠璃を真っ直ぐに見た。


「私、それがすごく……寂しかったんです」


「……寂しい?」


「はい。だって、私は先輩のペアなのに。先輩が紅茶を好きなことも、部屋で眼鏡をかけていることも、猫の栞を使っていることも……今の今まで、何も知らなかったから」


 光莉の瞳が揺れる。


「私、置いていかれてる気がして……悔しかったんです。だから、今日は……先輩のことを知りたくて来ました」


 一気に言い切ると、部屋に沈黙が落ちた。

 重いと思われたかもしれない。面倒な一年生だと呆れられたかもしれない。

 光莉がおそるおそる瑠璃の様子を伺うと――。


 瑠璃は、小さく口を開けていた。

 そして次の瞬間、白い頬がみるみるうちに赤く染まっていく。


「……知りたくて、って」


 瑠璃は口元を手で覆い、くすりと笑った。


「あなたって子は。……本当に、予想外の方向から攻めてくるのね」


 その声は、いつものような張り詰めたものではなく、柔らかく解けていた。


「わたくしだって、必死だったのよ。……あなたにかっこ悪いところを見せたくなくて」


「かっこ悪くなんて、ないです」


「そうかしら。こんな、気の抜けた格好で……眼鏡だし」


「眼鏡、すごく似合ってます」


 光莉は、素直な心で告げた。


「……もっと、見せてほしいです。先輩の、そういう姿」


 至近距離で見る瑠璃の姿は、息を呑むほど繊細だった。

 シルバーのフレーム越しに見える瞳は、色素の薄い黒色で。

 瞬きをするたびに、長い睫毛がレンズに触れそうなほど優雅に揺れる。

 陶器のような白い肌に、少しだけかかった夕焼けのような色の髪。

 完璧な「宝石」として磨き上げられた姿も美しいけれど、今はガラス細工のような儚さがあった。


「……ひ、光莉」


 熱っぽい視線に気づいたのか、瑠璃の瞳が彷徨った。

 彼女は耐えきれなくなったように、ふいっ、と視線を逸らす。


「……そんなに、見つめられるとさすがに恥ずかしいわ」


 消え入りそうな声。

 耳まで真っ赤に染まっている。

 眼鏡のブリッジに指をかけ、隠すようにうつむくその姿に光莉の胸が小さくはねた。


 ――トクン、トクン、トクン。


 静寂の中に、瑠璃の鼓動が聞こえてくる気がした。

 それは、甘く、高く、切ない音色。

 その音が大きくなるにつれ、光莉の胸も共鳴するように熱くなる。


 長い沈黙の後、やがて、瑠璃は観念したようにふぅ、と熱い息を吐き、体の力を抜いてソファに深くもたれかかった。


「……ずるいわ」


 潤んだ瞳が、上目遣いに光莉を睨む。またすぐに逸らしてしまったけれど。


「そんな風に言われたら……拒めるわけないじゃない」


 瑠璃は、どこか拗ねたように、けれど愛おしそうに呟いた。


「……わかったわ。降参よ。今日は特別」


 彼女は、まるで秘密の宝箱を開ける鍵を渡すように言った。


「……なんでも聞いていいわよ。わたしのこと、知りたいんでしょう?」


 その言葉に、光莉の目が輝いた。

 待っていた許可証だ。


「……じゃあ、誕生日は?」

「11月1日よ」

「好きな色は?」

「……青。夜明け前の、深い青」

「休みの日は何時に起きるんですか?」

「7時……いえ、本当は8時まで寝ていたい派よ」


 ポンポンと交わされる会話。

 それは、選挙の戦略でもなければ、学校の成績に関わることでもない。

 けれど、光莉にとっては、どんな教科書よりも大切な「正解」だった。


 ひとしきり質問攻めにした後、光莉は満足げに紅茶を一口飲んだ。

 冷めてしまったけれど、その味はさっきよりも甘く感じた。


「……ふふ」


 自然と笑みがこぼれた。すると、それを見ていた瑠璃が、不意に光莉の手の甲に自分の指を重ねてきた。

 ビクリ、と光莉の手が跳ねる。


「……光莉」


 呼ばれて顔を上げると、至近距離に瑠璃の瞳があった。

 眼鏡のレンズ越しでもわかる、熱を帯びた瞳。そこから聞こえるのは、微かに震える、甘えるような音。


「……わたくしばかり喋らされて、不公平じゃない?」


 瑠璃の指先が、光莉の指の隙間を滑るように入ってくる。

 いわゆる「恋人繋ぎ」。

 今まで手を引かれたことはあったけれど、こんな風に、絡め取られるように繋がれたのは初めてだった。


「教えてちょうだい。あなたのことも」


 逃がさない、と言うように指に力がこもる。

 その熱量に、光莉は顔が熱くなるのを感じた。

 あんなに「知りたい」と願っていたのに、いざ自分が踏み込まれる側になると、こんなにも気恥ずかしいなんて。


「……私なんて、平凡なことしかありませんよ」


「それがいいの。あなたの『平凡』が、わたしにも必要なの」


 窓の外はすっかり日が暮れていた。

 部屋の中には、紅茶の香りと、二人の穏やかな鼓動だけが満ちていた。

 誰も知らない、二人だけの「日常」が、ようやくここから始まろうとしていた。

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