知らない日常
『誓約の儀』から数日が過ぎた。
指輪の交換を経て、光莉と瑠璃の関係は、表向きには「学園公認のペア」として定着しつつあった。
けれど、光莉の胸の内には、まだ埋まらない空白があった。
昼休みの教室。
光莉は、智香と購買で買ってきたランチを机に広げていた。
「ねーねー、光莉ちゃん! 実際どうなのよ、西園寺先輩との『ペア』は!」
智香が、弁当の中にあるウインナーを頬張りながら身を乗り出してくる。
「……別に、何も変わらないかな」
「でもさ、指輪交換したんでしょ? 結婚みたいじゃん。連絡とかも頻繁に取り合ってるんでしょ? どんな話するの?」
「どんなって……」
光莉は箸を止めた。
昨日の履歴を思い出す。
『資料を確認しておいて』『了解です』。
その前は、『明日は純とミーティングしたいんだけど、予定はない?』『大丈夫です』。
「……業務連絡、ばっかりかな」
「えーっ! なにそれ、夢がない!」
智香は大げさにのけぞった。
「もっとあるでしょ? 『今何してる?』とか、可愛いスタンプ送り合ったりとか! 西園寺先輩って、どんなスタンプ使うの? やっぱ猫とか?」
「……知らない」
光莉は言葉に詰まった。
スタンプなんてひとつも、送られてきたことがない。
考えてみれば、私はあの人の一番重たい部分は共有しているけれど……「友達」なら誰でも知っているような、軽やかな日常の会話を何ひとつしていない。
「……そっかぁ。まあ、あの西園寺先輩だもんね。高嶺の花って感じだし」
智香は勝手に納得して唐揚げを食べているが、光莉の胸には小さなよどみが沈殿していた。
高嶺の花。本当にそうだろうか。
あんなに寂しがり屋で、不器用な人の素顔を、私はまだ何も引き出せていないだけなんじゃないか。
その時だった。
「かなでちゃーん!」
教室の入り口から、場違いに甘ったるい声が響いた。
クラスメイトたちが驚いて顔を上げる隙も与えず、その人物は風のように教室に入り込んできた。
3年生の九条ねねだ。
彼女は、教室の空気などお構いなしに、光莉の横、窓際の席へ一直線に向かう。
そこには、いつものように一人で本を読みながら、片手で焼きそばパンを齧っている常盤奏がいた。
「……」
奏は、接近してくる気配に気づいているはずなのに、顔も上げない。
あれはわざとだ……。
だが、ねねはそんなこと気にも留めない。
「ほーら、見つけたわよぉ! 『いちごミルクデニッシュ』!」
ねねは、奏の机の上に、ドン! とピンク色のパッケージのパンを置いた。
「……九条先輩。ここは1年生の教室です」
奏が、咀嚼する動きを止めて、うんざりしたように顔を上げる。
その手には、まだ半分ほど残っている焼きそばパンがあった。
「そして見ての通り、すでに食事中です。甘いものは今の気分じゃありません」
「えー? せっかく購買までダッシュしたのにぃ? 奏ちゃん、これ好きでしょ?」
「……好きですけど、今は焼きそばパンの口なんです。押し付けないでください」
「んもう、つれないなぁ」
ねねは唇を尖らせると、強引に前の空席に座ると、ガサガサとデニッシュの袋を開け始めた。
「じゃあ、半分こしましょ」
「……は?」
「私が半分食べるから、奏ちゃんも半分食べて。それなら入るでしょぉ?」
ねねは返事も聞かずにデニッシュを割り、その片割れを、奏の口元へとグイと差し出した。
「ほら」
「……強引すぎます」
「はい、あーん」
「……自分で持ちます」
奏は深いため息をつくと、諦めたようにデニッシュの半分を受け取った。
そして、まだ焼きそばパンが残っているにも関わらず、その甘いパンを小さく齧る。
「……んふふ、おいしい?」
「……普通です」
ねねは満足そうに目を細め、自分も残りの半分を齧り始めた。
違うものを食べていたはずなのに、結局、同じ味を共有させられている。
奏の表情は相変わらず仏頂面だが、ねねを追い払おうとはしない。むしろ、その騒がしい隣人を、日常の一部として許容しているように見えた。
周りの生徒たちは、その独特な空気に、遠巻きに見守ることしかできない。
「……うわぁ」
智香が、ひそひそ声で呟いた。
「自由だねぇ、九条先輩。常盤さんも、なんだかんだ仲良しだし」
「うん」
光莉もまた、その光景を見つめていた。
(……なんか、違うな)
胸の奥に広がったのは、冷たくて重い、さみしさだった。
あの二人は、もう「日常」を共有している。
嫌がる相手に好きなものを押し付けたり、半分こしたり。
そんな、取るに足らないやり取りが、今の私と瑠璃先輩の間にはない。
私たちはまだ、お互いに「良いところ」を見せようと、肩に力が入っている。
業務連絡と、執行委員会室での会話だけ。
(……私、置いていかれてる? あの二人に)
ねねの奔放さが、少しだけ羨ましかった。
あんな風に、相手の領域に土足で踏み込んで、それでも「一緒に食べよう」と言える図太さが、今の私にはない。
光莉は、手元のスマホを握りしめた。
画面には、瑠璃との殺風景なメッセージ履歴。
(……会いに行こう)
用件なんてなくていい。
ただ、顔を見て、くだらない話をしよう。
そうしなければ、この透明な壁はいつまでも壊せない気がした。
*
放課後。
光莉は智香に別れを告げ、早足で教室を出た。
目指すは、執行委員会室。まずはそこで、和泉委員長に瑠璃の居場所を聞こう。
あくまで「これはペアのために必要なんだ」って顔をして。
(……言い訳してるな、私)
苦笑いしながら、光莉は廊下を急いだ。




