誓約の儀
五月の連休の中。抜けるような青空の下、光莉の足取りは重かった。
目の前には、島の行政中枢「白亜の塔」。今日ここで、選挙戦の幕開けとなる『誓約の儀』が行われるのだ。
「……緊張しているの?」
隣を歩く瑠璃が、前を向いたまま声をかけてくる。
「それは……各学園の代表が集まる場所ですから」
「ふふ。大丈夫よ。あなたはただ、わたくしの隣にいればいいわ」
その自信満々な横顔に、少しだけ勇気をもらう。
光莉が意を決して入口へと続く階段をのぼろうとした、その時だった。
「あらぁ。……ごきげんよう」
不意に、ふわりと甘い声聞こえてくる。振り返ると視線の先に、九条ねねと常盤奏のペアが立っていた。
近づいてきたねねは光莉を見上げると、愛くるしい小動物を見つけたかのように目を細めた。
「光莉ちゃん。お耳が真っ赤」
そこにあるのは敵意ではない。可愛い後輩をちょっと困らせてみたいという、無邪気な悪戯心。
「緊張してるのぉ? そんなに震えなくてもいいのにぃ」
ねねの手が、光莉の頭を撫でようと自然に伸びてくる。
けれど――。
パシッ。
乾いた音が、その手を空中で制した。
「……わたくしのパートナーを、あまりからかわないでいただけるかしら」
西園寺瑠璃が、光莉を背に隠すように立ちはだかっていた。
その背中からは、鋭い音が放たれている。
「あら、怖い怖い。独占欲がお強いのねぇ」
「躾のなっていない人が苦手なもので」
ねねはクスクスと笑いながら、今度はターゲットを瑠璃に変えて絡み始める。
その隙に、光莉の横に静かな影が並んだ。常盤奏だった。
「……ごめんなさいね。九条先輩、小林さんのことを随分と気に入っているみたいで」
「え、私を……?」
「ええ。そんなことより、儀式のことは大丈夫?」
「え、あ……、よく知らなくて」
奏は小さく呆れつつも、淡々と教えてくれた。
20組40名のペアが合同生徒会長の前で宣誓し、リングを交換すること。
そのリングは選挙戦のポイントやセキュリティを管理するデバイスであること。
「つまり、それをつけた時点で、ペアは一心同体。一蓮托生なのよ」
「一蓮托生……」
その言葉の響きに、光莉はぎゅっと拳を握りしめた。
*
重厚な扉が開かれ、メインホールへ足を踏み入れる。
瞬間、ねっとりと重い空気が光莉を包んだ。
(……うっ)
広いホールには、すでに各校の候補者たちが集結している。充満しているのは、ライバルへの敵対心、自尊心、焦燥。それらが低い周波数で唸り、空間を濁らせている。
呼吸をするたびにその濁りが肺に入り込むようで、光莉は軽くめまいを覚えた。
その時、左手が温かいものに包まれた。
「……大丈夫?」
見上げると、瑠璃が心配そうに光莉を覗き込んでいる。握られた手から伝わるのは、少しの熱と鼓動の音。その感触が光莉をその淀みから引き上げてくれる。
「……はい、大丈夫です」
光莉は短く答え、その手を握り返した。
直後、ざわついていたホールが水を打ったように静まり返った。壇上に、一人の少女が現れたからだ。
「みなさんごきげんよう」
息を呑むような美しさだった。
艶やかな黒髪は頬のラインで切りそろえられ、背中まで真っ直ぐに流れ落ちている。その黒が、陶磁器のような肌の白さを際立たせていた。
紫紺の袴に身を包んだその姿は、現代的なホールにあって、そこだけ時が止まったかのような厳格な佇まい。
合同生徒会長、葵ヶ埼法律研究学園の安野文。
彼女が静かに瞳を開く。ただそれだけで、場の空気が清められていく。
光莉の耳には、彼女から音が聞こえなかった。あまりにも密度が高すぎて、鼓膜がその振動を捉えきれないのだ。
まるで神域の存在が祀られているかのような静寂。
「これより合同生徒会役員選挙、誓約の儀を執り行います」
それなのに冬の朝の冷気のように鋭く、ホールの隅々まで浸透していった。
*
式辞は進み、いよいよ宣誓へ移る。
「では最初に、白嶺女子高等専門学校、西園寺瑠璃、小林光莉ペア」
「えっ!?」
光莉は内心で悲鳴を上げた。まさかのトップバッター。瑠璃は「はい」と答え席を立つと、堂々と壇上へ登っていく。光莉も慌てて後を追う。数百の視線が突き刺さり、スポットライトが熱い。
壇上の中央。瑠璃が安野会長に一礼するとホールへ向き直り、凛とした声で宣誓を始めた。
「わたくし、西園寺瑠璃は、パートナーである小林光莉を導き、その行く手を阻む全ての障害から守り抜くことを、此処に誓います」
それは単なる儀礼ではなく、隣にいる光莉へ向けた約束のようで、光莉は胸が熱くなるのを感じた。
隣で震えていた先輩が、こんなにも堂々と私を守ると言ってくれている。
瑠璃の宣言が終わり、静かな拍手が起こる。
安野会長の静謐な瞳が、光莉に向いた。
「……パートナー、宣誓を」
ハッとして、光莉は我に返る。
慌ててポケットから、宣誓文を書いたメモを取り出す。指先が汗ばんでいた。焦って引っ張り出した、その時。
ヒラ、と。
指先から滑り落ちたメモ用紙が、頼りなく宙を舞った。
「あ」
時間がスローモーションになる。紙は吸い込まれるように床へ落ちた。カサリ、という乾いた音がやけに大きく響く。
一拍の沈黙。
そして、さざ波のようなざわめきが広がった。
好奇と侮蔑を含んだ無数の視線。その無言の圧力が、光莉の心臓をぎゅっと握りつぶす。
顔が熱くなる。拾わなきゃ。早く。
光莉がパニックになりながらしゃがみ込んだ瞬間。
ふわ、と。鼻先を花の香りが掠めた。
隣の瑠璃が流れるような動作で膝を折り、光莉と同じ視線の高さに降りてきていた。演台の影。
観客席からは死角となる、二人だけの狭い暗がり。
「あの、……すみま、せん……」
震える光莉の耳元に、瑠璃の顔が寄せられる。唇が、耳の輪郭に触れるか触れないかの距離。
「大丈夫よ」
吐息混じりの、低い囁き。それは湿り気を帯びて、光莉の鼓膜にひびく。
「……っ!」
光莉の背筋を電流が駆け抜ける。心臓が跳ね、指先まで痺れるような感覚。
会場のざわめきが一瞬で彼方へ消し飛んだ。世界には今、鼓膜を震わせる瑠璃の「音」と、耳にかかる熱い吐息しかない。
「あなたの失敗くらい、わたくしが何度でもリカバリーしてあげる。……だから、深呼吸をして」
瑠璃はそう囁くと、床に落ちた紙を優雅に拾い上げ、光莉の手に持たせた。
その白い指先が、トントン、と光莉の手の甲を優しく叩く。それは、怯える子供をあやすような、あるいは――この秘密を愉しむようなリズム。
光莉は呆然と瑠璃を見つめた。
(……そっか)
光莉の呼吸が落ち着きを取り戻す。私が失敗しても、この人はそれを許し、支えてくれる。
私もこの人の前では、完璧じゃなくていいんだ。
二人は同時に立ち上がる。光莉はもう震えていなかった。会場のざわめきなど、もう耳に入らない。メモを開き、声を発する。
「私、小林光莉は、パートナーである西園寺瑠璃先輩を信じ、その背中に寄り添い、共に歩むことを誓います」
たどたどしいけれど、真っ直ぐな言葉。その言葉に、隣の瑠璃がほんの少しだけ目を見開いたのがわかった。
最後に、リングの交換が行われる。
瑠璃が光莉の右手に、光莉が瑠璃の右手に、ゆっくりと銀色の指輪を通す。カチリ、と小さな音がして、リングの内側が一瞬青く発光した。
儀式が終わり、壇上を降りる時。ふと横を見ると、瑠璃が自分の右手をそっと胸元に引き寄せていた。
光莉にはめてもらった指輪の感触を確かめるように、親指でリングの表面をなぞる。その横顔には、誰にも見せないような、柔らかく控えめな愛おしさが滲んでいた。




