もう1つのペア
その温かな空気を破ったのは、控えめだが、芯のあるノックの音だった。
コン、コン。
三人の視線が扉に向く。
「どうぞ」
純が声をかけると、重厚な扉がゆっくりと開いた。
現れた人物を見て、光莉は小さく息を呑んだ。
「……あ」
そこに立っていたのは、今日も視界の端にいた子。
常盤奏。
すらりと背の高い彼女は、室内を見渡すと、無言で一礼して入室してきた。
そして、その背後から、もう一人の女子生徒がひょっこりと姿を現した。
「失礼しますぅ。……あら、先客がいらしたのね」
奏とは対照的に、ふわりと甘い声。
光莉は、その人物の姿に、目を奪われた。
背は奏よりも頭一つ分ほど低い。色素の薄い茶色の髪はゆるく巻かれ、垂れ気味の瞳は、どこまでも人が良さそうに細められていた。
全体的にふんわりとした、綿菓子のような柔らかい印象の上級生だ。
(……優しそうな人)
第一印象は、無害そうで穏やかな先輩だった。
瑠璃のような「刺すような雰囲気」はない。けれど。
(……音が、しない)
光莉の背筋に、冷たいものが走った。
光莉の耳には、その柔和な上級生から、何の音も聞こえなかったのだ。
奏のような「澄んだ静寂」とも違う。まるで、すべての音を吸い込んでしまうスポンジのような、底が見えない「無音」。
「……常盤さんに、九条さん」
純が、わずかに眉を上げ、事務的な口調で迎えた。
「珍しい。……九条さん、あなたが執行委員会室に来るなんて」
「ふふ、そうかしらぁ?」
九条と呼ばれた先輩は、おっとりと小首をかしげた。
純や瑠璃とは同級生のはずだが、そこには「親しさ」も「敵対心」も見当たらない。
ただの「顔見知り」というだけの、乾いた距離感。
「西園寺さんも、ごきげんよう。……噂のかわいらしい一年生ちゃんと、無事にペアになれたみたいでよかったわぁ」
ニコニコと光莉を見る。光莉は会釈をしたが、その笑顔の奥がまったく読めなかった。
「私の名前は九条ねね。お二人とは同級生なの。よろしくね、えっと……」
「小林光莉、です。常盤さんとは同じクラスで」
「そうなの~? そんなこと奏ちゃん全然言ってくれなかったわぁ」
瑠璃が、警戒するように目を細めて口を開く。
「九条さん。……まさか、あなたたちも?」
「んー?」
ねねは、隣に立つ奏を見上げると、その細い腕を両手で抱え込み、ぽふっと自分の体を預けた。
「私ねぇ、この奏ちゃんにビビッときちゃってぇ。どうしてもって、私から口説いちゃったのよぉ」
「……九条先輩からの勧誘がありまして」
奏が、淡々と事実だけを付け加えた。
ちぐはぐな二人。静寂な塊である常盤奏と、無防備で柔らかな九条ねね。
光莉は、不思議な組み合わせだな、と思った。瑠璃先輩とは別の意味で、この人たちも一筋縄ではいかなそうだ。
「ま、そういうわけでぇ」
ねねは、純に向き直り、柔らかく手を合わせた。
「私たちも、立候補させていただけるかしらぁ? 純さん」
ねねの甘い声が、部屋の空気をふわりと撫でる。
純は、わずかに目を細めたが、すぐに委員長としての仮面を被り直した。
「……もちろんよ。立候補は全生徒の権利だもの」
純は、先ほど瑠璃たちが書いたばかりの新しい用紙を取り出した。
「手続きを。……九条さん、あなたが動くなんて予想外だったけれど」
「んふふ、そう? ま、人生何があるかわからないものねぇ」
ねねは、奏の腕から離れると、ペンを手に取った。
その仕草は緩慢で、どこか眠たげだ。
さらさらと書かれる『九条ねね』の文字。丸文字で、可愛らしい。
けれど光莉は、彼女のペン先が紙を走る音さえも、どこか遠く、くぐもって聞こえることに戦慄していた。
(……怖い)
瑠璃先輩の音が「爆発寸前の悲鳴」なら、この九条先輩の音は「底なし沼」だ。
こちらの感情や音をすべて飲み込み、何一つ反射してこない。
敵意があるのか、善意なのか、それすらも吸い込まれて判別不能になる。
「はい、書けたわぁ。奏ちゃんも」
「……はい」
促された奏が、無駄のない動きで署名する。
静謐な筆致。彼女からは、相変わらず静寂しか感じられない。
手続きがあっさりと終わる。
ねねは「ありがとぉ」と微笑むと、ふいにくるりと踵を返し、隣の瑠璃の方へ歩み寄った。
「西園寺さん」
ねねが、至近距離で瑠璃を見上げる。
身長差はある。けれど、ねねが放つ存在感の質量は、瑠璃に引けを取らない。
「お手柔らかにお願いねぇ? 私、争い事って苦手なのぉ」
「……奇遇ね。わたくしもよ」
瑠璃は、完璧な笑みで応戦した。
だが、光莉には聞こえていた。瑠璃の喉の奥で、空気が微かに震える音が。
瑠璃も本能的に感じ取っているのだ。目の前の「綿飴」のような女が、自分の輝きをすべて吸い込んでしまう天敵である可能性を。
「ふふ、よかったぁ。仲良くしましょうねぇ」
ねねは、ニコリと目を細めると、今度は光莉の方へ視線を流した。
「光莉さんも。……うちの奏ちゃん、ちょっと理屈っぽいけど、よろしくねぇ?」
「あ……は、はい」
「うふふ、いいお返事」
ねねは満足そうに頷くと、奏の腕を再び取り、「帰りましょ」と部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
その瞬間、部屋に残された三人の間から、一斉に空気が抜けた。
「……なんなの、あれ」
瑠璃が、忌々しげに吐き捨てる。
「九条ねね……。ただのおっとりした令嬢だと思っていたけれど」
「……あの人。何も聞こえなかった」
光莉がポツリと言うと、純が興味深そうに顔を上げた。
「底が見えないというか……何を考えているのか、感情の音がまったく反響しなくて」
光莉の言葉に皆が口をつぐむ。
得体の知れない不安が、三人の胸に落ちた影として共有されていた。
*
不穏な空気を振り払うように、純がパンと手を叩いた。
「さて。ライバルの出現に怯えている暇はないわ。……手続きが済んだ以上、あなたたちは正式な『候補者』よ」
純がタブレットを操作すると、部屋のモニターに地図が表示された。
神輝島の全図。そして、中央に浮かぶ「合同生徒会棟」の文字。
「選挙戦の火蓋は、連休のあと、切って落とされる」
純の声が真剣なトーンを帯びる。
「まずは、『誓約の儀』に出てもらうわ」
こうして、神輝島を揺るがす長い選挙戦が、幕を開けたのだった。




