立候補
純は、デスクの引き出しから一枚の厚手の紙を取り出した。
『統合生徒会役員選挙 立候補届』。
その仰々しいタイトルが、部屋の照明を反射して白く光る。
「これが立候補に必要な書類」
純は重そうなボールペンを取り出し二人の前に置いた。
「書きなさい。……もう、迷いはないでしょう?」
「もちろん」と瑠璃が、先にペンを取った。
さらさらと、「3年」の欄に『西園寺 瑠璃』の名が刻まれる。
その文字に震えはなく、力強い意志が宿っていた。
続いて、ペンが光莉に渡される。
光莉は、瑠璃の下にある「1年」の欄を見た。
ここに名前を書けば、名実ともに「西園寺瑠璃のペア」として全校生徒に公示される。もう逃げ場はない。
(……望むところだ)
光莉は、自分の名前をしっかりと書き込んだ。
平凡で、何の変哲もない文字。けれど、隣にある瑠璃の名前と並ぶと、不思議とバランスが取れているように見えた。
「よし」
純は満足げに頷くと、手元のタブレット端末を起動し、完成した用紙をカメラでスキャンした。
画面上に、電子データ化された届出が表示される。あとは『送信』ボタンを押すだけ。
純の細い指が、画面の上で止まる。
「……」
彼女は一瞬考え込むように目を細めると、ふっ、と自嘲気味に笑い、そのタブレットを瑠璃へと差し出した。
「……自分で送りなさい、瑠璃」
「純?」
「あなたが2年前を乗り越えるために。……私が押しても、意味がない」
瑠璃は、渡されたタブレットを受け取った。
液晶画面の中で、青く点滅する『送信』の文字。
それは、単なるデータ送信の合図ではない。かつて敗北し、傷つき、孤独になる原因となったあの「戦場」へ、再び足を踏み入れるためのトリガーだ。
瑠璃の指が、わずかに止まる。
その一瞬の静止の中に、光莉は瑠璃の脳内を駆け巡るノイズを聞いた。
――『また負けるかもしれない』
――『この子を、本当に巻き込んでいいのか』
過去の残響と、光莉への罪悪感が、彼女の指を重くしている。
光莉は、黙って瑠璃の右手にそっと手を添えた。
大丈夫。言葉にはしなかった。ただ、その温度と、真っ直ぐな視線だけで伝えた。
私はもう、覚悟を決めている。あなたの横に立つ覚悟も、一緒に泥をかぶる覚悟も。
瑠璃が、はっと顔を上げ、光莉を見る。光莉は、その瞳をまっすぐ見つめた。
瑠璃の瞳から、迷いの色が消える。
彼女は光莉の手の温かさを糧にするように、深く息を吸い込み――そして、迷いなく画面をタップした。
『送信完了』
無機質な文字が表示される。賽は投げられた。
「……はぁー……」
「……ふぅ」
次の瞬間、二人の口から、示し合わせたようにまったく同じタイミングで、深いため息が漏れた。
張り詰めていた緊張が一気に解け、肩の力が抜ける音までシンクロしている。
「ふふっ」
それを見ていた純が、こらえきれずに笑い声を上げた。
「何よ、その息の合い方は。……さっそく、いいじゃない」
「……うるさいわね」
「……偶然です」
瑠璃と光莉は顔を見合わせ、少し照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに笑い合った。
部屋には、穏やかで温かい空気が満ちていた。




