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先輩、私にだけ心の音がダダ漏れです。  作者: 如月白華


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ガラスの割れる音

 日曜日。夕日が差す部屋の中で、光莉はスマートフォンの画面を見つめていた。

 表示されているのは、メッセージアプリの送信画面。宛先は『西園寺瑠璃』。


(……自分から送るなんて……)


 光莉は、指の震えを抑えながら、文字を打ち込んだ。


『今から、あの庭園に来ていただけますか。お話があります』


 送信ボタンを押す。

 ただそれだけのメッセージ。それなのに、まるでこれまでの日常に別れを告げるような気がした。


 純から聞いた過去。瑠璃が抱える「完璧」という名の呪い。

 それを知ってしまった以上、もう「聞こえないふり」をして逃げることは、光莉の心が許さなかった。


 数分後。既読がついたと共に、短い返信が届いた。


『わかったわ』


 光莉は深く息を吸い込み、あの噴水のある中庭へと足を向けた。



 赤と黒が混ざり合う空の下。

 中庭は、しんとしていた。噴水の水音だけが、規則正しいリズムを刻んでいる。

 光莉はベンチに座り、その人を待っていた。


 カツン、カツン。


 靴音が、静寂を破って近づいてくる。その音だけでわかる。

 歩幅、リズム。すべてが完璧に制御された、あの足音だ。


 闇の中から、白いワンピース姿の瑠璃が現れた。

 日曜日の案内、あの時と同じ服。けれど、今の彼女が纏っている空気は、あの時よりもさらに冷たく、分厚い氷の壁で覆われていた。


「……呼び出すなんて、はじめてじゃないかしら」


 瑠璃は、光莉から数メートル離れた場所で足を止めた。

 それ以上、近づこうとしない。その瞳は、まるでガラス玉のように冷ややかだった。


「こっちに、来て下さい」


 光莉のその言葉に瑠璃は首を振る。


「お断りの返事なら、もう聞いたつもりだったわ。『邪魔になる』と……」


「ちゃんと、隣で話を聞いてほしいんです」


 光莉は、瑠璃の冷笑的な言葉を遮った。

 遮られたことに驚いたのか、瑠璃がわずかに目を見開く。

 瑠璃はあきらめたように、光莉の横の空いたスペースに腰を下ろした。


「お断りするためじゃありません。……確かめるために、呼びました」


「確かめる?」


「はい」


 光莉は、膝の上で手を強く握りしめる。


「先輩。……先輩は、私のことが『必要』なんですか?」


 直球の問い。

 瑠璃は一瞬言葉を詰まらせ、すぐに鼻で笑おうとした。


「何を今更。私があなたを選んだのは直感だと言ったはずよ。あの時は確かに必要だと思った。でも、拒否されたなら別に……」


「直感じゃない」


 光莉は語気を強める。


「和泉委員長に、聞きました」


 その名前が出た瞬間、瑠璃の表情が凍りついた。

 完璧な仮面に、亀裂が入る。


「……純」


 瑠璃の声は低く、震えていた。


「余計なことを……。それで? 軽蔑した? 完璧だと思っていたわたくしがペアを敗北させたことに」


「違います。……先輩にはわからないかもしれませんが、一度失敗したくらいで人を軽蔑したりなんてしません。少なくとも、私は」


「それに……やっと、先輩の音の正体がわかりました」


「音……?」


 光莉は、ゆっくりと瑠璃の方へ顔を向けた。

 月明かりに照らされた瑠璃の横顔は、あまりにも美しく、そして脆そうだった。


「先輩が求めていたのは、ただ従順なパートナーじゃなかった。……先輩の完璧さに思考停止せず、先輩が間違った時に『違う』と言える……そういう人を探していたんですよね?」


 瑠璃は答えなかった。ただ、膝の上に置かれたその手が、白くなるほど強く握りしめられている。


「……そうよ」


 長い沈黙の後、消え入りそうな声が聞こえた。それは叫びなどではない。今にも闇に溶けてしまいそうな、独り言のような吐露だった。


「……怖いの」


 瑠璃は、うつむいたまま、ポツリ、ポツリと言葉を落とす。


「あのときわかった。完璧でなければ、人を率いれない。誰もついてこない。でも完璧に振る舞えば振る舞うほど……みんな、私を『人間』として見なくなる。ただの『象徴』として崇められ、遠ざかっていく」


 瑠璃の声が、微かに湿り気を帯びる。

 光莉の耳に、彼女の「孤独」が、痛いほど流れ込んでくる。


「周りから人がいなくなって……でも、止まれない。止まったら、また全てを失うから」


 光莉は、隣で震えるその肩を見ていた。

 関わる必要なんてない。ここで立ち去れば、私は元の静かな生活に戻れる。


 でも。

 この、あまりにも不器用で孤独な人を見捨ててしまったら、私は一生、寝覚めの悪い夜を過ごすことになるだろう。


 光莉は、ため息を一つついて、覚悟を決めた。

 そして、ベンチに置かれた瑠璃の、白い掌の上に、そっと自分の手を重ねた。

 ビクリ、と瑠璃の手が跳ねる。


「……先輩は、すごい人だと思っています」


 光莉の静かな声に、瑠璃がおずおずと顔を上げる。


「でも、その完璧さは、見ていて息苦しいし、正直、すごく面倒くさい人だなって思います」


「……」


 瑠璃が、驚いたように目を見開く。

 こんな風に、真正面から自分を「面倒だ」と言い切る人間は、今までいなかった。


「でも」


 光莉の手のひらから、瑠璃の冷たい拳へと、体温が伝わっていく。


「私は、先輩のその『完璧さ』に依存しません。……先輩が無理をして息を止めていたら、私が気づきます。先輩がその『完璧な』ガラスの中で窒息しそうになっていたら、私が外から叩き割ってあげます」


 光莉は、瑠璃の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。


「先輩に必要なのは、そのガラスについた『キズ』を許してくれる人、ですよね?」


 瑠璃が息を呑む気配がした。

 キズ。自分にとって最大の弱点であり、隠すべきところだと思っていたもの。

 それを「許す」と言った。


「……あなたは」


 瑠璃の瞳が揺れる。


「……あなたは、それでいいの?私の……そんな嫌なところを見ることになって」


「別にいいですよ。完璧な人なんて、いるわけないんだから」


 光莉は、困ったように笑った。


「それに私は静かに暮らしたいって言いましたよね。先輩が一人で抱え込んで自爆して、その破片が飛んでくる方が迷惑です。……だから、私がそばで監視してあげます」


 それは、とても傲慢で、そして救いに満ちた契約の言葉だった。

 瑠璃の瞳から、力が抜けていく。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。


(……本当は、わかっている)


 光莉は、瑠璃の冷たい指先を自分の体温で温めながら、胸の奥で小さな疼きを感じていた。

 静かな生活が好きだ。うるさいのは嫌いだ。それは嘘じゃない。

 けれど、あの歓迎会で聞いた、この人の張り詰めた「悲鳴」のような音。

 ――あれが、どうしようもなく綺麗だと思ってしまったことを。


 あんなに苦しそうで、切実で。世界中のノイズの中で、この人の音だけが、私の鼓膜を震わせて離れなかった。誰にも聞かせたくない。この音の正体を理解しているのは、世界で私だけでいい。


(……ああ、やっぱり。面倒なのは私の方だ)


 光莉は、自分のその身勝手な独占欲に蓋をして、瑠璃の手を強く握り返した。


「……っ」


 瑠璃の大きな瞳から、一粒、雫がこぼれ落ちた。

 それは音もなく頬を伝い、握り合わせた二人の手の上に落ちた。


「……ありがとう」


 瑠璃は、泣き笑いのような顔で、光莉を見つめた。

 次から次へと、透明な涙が溢れてくる。彼女はもう、それを拭おうとも、隠そうともしなかった。

 完璧な女王の仮面の下にあったのは、ただ誰かに「見つけて」ほしかった、寂しがり屋の少女の素顔。


「……わたしの、そばにいてほしい」


 瑠璃は、震える声で、初めて本音を口にした。

 重ねられた光莉の手を、両手で包み込むように握り返す。

 弱々しく、けれど必死に。まるで、この手を離したら、またあの真空の孤独に引き戻されてしまうと怯えるように。


「お願い……」


「……はい」


 光莉は、強く握り返した。

 その手から伝わってくる、痛いほどの依存心。

 ああ、やっぱり面倒だ。重い。それでも、この重さを支えられるのは、きっとこの学園で私しかいない。


「よろしくお願いします。……瑠璃先輩」


 月明かりの下、ベンチに並んで座る二人の影が、一つに溶け合うように伸びていた。

 聞こえるのは、噴水の水音と、二人の穏やかな呼吸音だけ。


 そこにはもう、完璧な宝石も、平凡な新入生もいない。

 ただ、互いの欠けた部分を埋め合うために寄り添う、二人の姿があるだけだった。

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