耳をふさぐ少女
潮の匂いが、肌寒さと一緒にまとわりつく。
小林光莉は、神輝島行きのフェリーの座席で、イヤホンを深く押し込んでいた。耳に流し込んでいるのは、無機質な電子音の羅列。曲なんて何でもよかった。
そうでもしていないと、熱を持った「期待」や、棘のような「不安」。そういった周囲から発せられる無遠慮な感情が音となって、鼓膜を揺らしてくるような錯覚に、吐き気がした。
『お前が行くのは日本最高峰の学び舎だ』『経済界が支援する、エリートのための実験特区だぞ!』
そう誇らしげに語っていた父の顔を思い出し、光莉は深くため息をついた。
父に言われて入学したこの「エリート養成機関」で、光莉が望むのは栄光でも成長でもない。ただ、誰にも巻き込まれず、空気のように透明な五年間を過ごすこと。それが唯一の「希望」だった。
船は無機質なデザインのターミナルに着岸した。 ぞろぞろと船を降りる、同じ年ごろの少女たち。光莉もその流れに従い、学園行きのシャトルバスに乗り込む。
バスが丘を登りきり、白亜の校舎が見えてくる。
私立白嶺女子高等専門学校。
光莉がこれから身を潜める場所。
バスを降り、最後の上り坂を、光莉は人混みの感情に当てられないよう、うつむきがちに歩き始める。長い前髪が、外界とのカーテンのように視界を覆っていた。
*
入学式は、厳かで、退屈だった。隣から肘でつつかれ、光莉は顔を上げた。
「ねえ! その制服、同じ白嶺の新入生だよね。私、遠山智香!」
大きな栗色の瞳。小動物のような快活さ。
彼女からは、あの嫌な感情が一切聞こえない。太陽のような、混じりけのない明るい音色。
「あ……私、小林光莉、です」
「ひかりちゃんね~。もしよかったら、友達になろ。私、知り合いとかいなくってさ~」
太陽のように快活に笑う智香に、こわばっていた光莉の心が、ほんの少しだけほぐれた。
式が終わり、智香と寮の場所を確認しようとしていた、その時だった。
ふっ、と。まるで周囲が真空になったかのように、周囲のざわめきが消失した。
(……なに?)
肌を刺すような、空気の変化。
人垣が、見えない力に押されるように左右へ割れていく。そこに現れたのは、圧倒的な『輝き』だった。
モデルを思わせる長身と、完璧な制服の着こなし。
彼女が歩くだけで、周囲の生徒たちは立ち尽くし、ただ憧れと陶酔の溜息を漏らしている。
「見て、西園寺瑠璃様よ」
「ほんと、きれい……」
あちこちからそんな言葉が聞こえてくる。
そんな群衆の最後尾で、光莉だけは、小さく眉をひそめていた。
(……息苦しい)
まるで気圧が変わったように息が詰まる。冷たく重い「圧」だった。
完璧な笑顔、優雅な歩調。だが、まるでそこにだけ酸素がない。周囲の空気をきしませている。
みんな、あの笑顔に見惚れているけれど、光莉には、精巧に作られたガラス細工が、今にも粉々に砕け散る寸前で張り詰めているようにしか見えなかった。
(こちらの神経まで削れてしまいそう)
光莉の本能が、けたたましく警報を鳴らす。
関わってはいけない。あれは、静かな生活を破壊する。
周囲の誰もが瑠璃を食い入るように見つめる中、光莉だけは、ふいと興味なさげに視線を足元のタイルへと落とした。ただの「無関心」という名の逃避。
智香の影に隠れるように、わずかに身を引く。
カツン、と。その足音が、不意に止まった。
「……」
瑠璃は、自分に向けられる熱狂的な視線の束の中に、ぽっかりと空いた「穴」を見つけたかのように、ゆっくりと顔を向けた。
その視線の先には、うつむいて気配を消そうとしている、地味な少女。
瑠璃は迷うことなく、光莉の元へと歩み寄り、その瞳を射抜いた。
「あなたが、小林光莉さんね」
「え……? は、はい」
「わたくしと、ペアになりなさい」
「……ペ、ペア……?」
光莉は、その言葉の持つ意味が理解できず、ただ困惑した。 周囲も同じだった。
「ペアだって?」
「ていうか、西園寺様が、なんであの子に……?」
そのざわめきの中、光莉が感じていたのは、驚きよりも、目の前の瑠璃から発せられる「音」への違和感だった。
命令口調なのに、わずかに震えている。自信満々なのに、どこか必死な響きが混じっている。
瑠璃は、一瞬にして集まったその鬱陶しそうな視線に、わずかに眉をひそめる。 そして、目の前で固まっている光莉をじっと見つめ、小さく頷いた。
「……場所を変えましょう」
「あ、あの……」
光莉が何か言う前に、瑠璃はその手首を掴んでいた。
器のように白いその手は、見た目に反して驚くほど熱く、そして――微かに強張っていた。
光莉は、その掌から熱量に圧倒され、抵抗するタイミングを逸してしまった。
*
たどり着いたのは、中庭だった。
瑠璃に掴まれた手首を、光莉はそっと振りほどいた。
「いきなり、何を……! 人違いじゃ、ありませんか?」
「いいえ、あなたで間違いないわ」
瑠璃は、少し乱れた呼吸を整え、冷静に光莉に向き直る。
「小林光莉さん。改めて言います。わたくしとペアになりなさい」
「……ペアって、なんですか?」
光莉が、当然の疑問をぶつける。
瑠璃は「ああ、そこからよね」と納得したように頷くと、中庭の向こう、島の中心にそびえ立つ真っ白な管理塔を指差した。
「あれが、この島のすべてを束ねる『統合生徒会』。わたくしは、その頂点を目指しているの。そのための、選挙のパートナー。それが『ペア』。必ず3年生と1年生で組むルールなの」
統合生徒会。選挙。 光莉は、突然なだれ込んでくる面倒な単語に頭を抱えたくなりながら、一番の疑問を口にした。
「……どうして、わ、私なんですか?」
私は、平凡な、ただの新入生だ。
成績も普通。特技もない。なのに、なぜこの完璧な人は、私を選んだのか。
「……わたくしにも、論理的には説明できないの」
瑠璃の表情が一瞬、揺らいだ。
「入学者名簿であなたの写真を見たときから、なぜか気になっていた。そして今日、坂を上るあなたを見て、間違いないって直感したの」
瑠璃は一歩、光莉に詰め寄った。
「『この子だ』、と」
(……違う)
光莉は反射的にそう感じていた。
鼓膜に届いた音は小さく震えていたし、言葉には実体がない。この人は直感だという言葉の裏に、何かを隠している……。
けれど、その隠された「本音」が何なのかまでは、まだわからない。ただわかるのは、この人が抱えている何かが、とてつもなく重くて、面倒だということだけ。
(……危険だ。この人のせいで、私の生活がめちゃくちゃになる)
光莉は、顔を上げ、前髪の隙間から瑠璃を真っ直ぐに見据えた。
「お断りします」
光莉は、はっきりと告げた。
「そんな直感だなんて、理由になってませんし、それに……私は、静かに暮らしたいんです。選挙なんて、巻き込まれたくありません」
その明確な「拒絶」に、瑠璃は驚いたように目を見開いた。
まさか、このおとなしそうな少女に、ここまで真っ直ぐ拒まれるとは思っていなかったのだろう。だが次の瞬間、瑠璃は、完璧な唇の端をゆっくりと吊り上げた。
「……面白い」
不意に、瑠璃の唇が弧を描いた。獲物を見つけた猛禽のような、美しい笑み。
彼女の白い指先が、光莉の顎をすう、と撫で上げる。冷やりとした感触に、光莉の喉が引きつった。
「わたくしはもう、あなたに決めているの」
「……!」
光莉は息を呑んだ。 恐怖。けれど同時に、自分にはない強烈な「意志」の力に対する、無自覚な眩しさ。
そして何より、指先から伝わってくる、言葉とは裏腹の「縋るような」切実な響きに、動けなくなってしまった。
「選挙の申請まで、あと一月。必ず、あなたに『YES』と言わせてみせる。これは宣戦布告よ、光莉さん」




