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『虫食いの一日(ワームホール・デイ)』同じ一日をループする男が、そこから抜け出せない意外な理由

作者: もーまっと

※短編バージョン

目が覚める。


いつもの光が、カーテンの隙間から細い帯になって差し込む。薄く黄色みを帯びた光が、部屋の隅に長い影を落とす。


目覚まし時計の分針は、今日も7:42で止まっていた。


胸の奥が、ほんの少しざわつく。昨日もこの瞬間、同じ光景を見たはずだ。いや、昨日ではない。数えきれないほど繰り返された、「この日」。


隣の部屋から聞こえるドアの軋む音。そして、隣人である久我ミサキの、一言一句変わらない定型句。


「おはようございます、斎賀さん」


声の抑揚も、顔の角度も、すべてが昨日と寸分違わない。私は心の奥に小さな違和感を覚える。


どうして……。

だが、その疑問はすぐに霧のように消えていく。


身支度を整え、外へ出る。街は喧騒に満ちている。車の音、歩く人々の靴音、子どもの笑い声。すべてが尋常なほどに、昨日と同じだ。いや、何度も繰り返される「同じ日」。缶コーヒーの凹みの位置も、駅の自動販売機の光も、まったく同じ。


私ははっきりと理解した。私は、この一日に囚われている。


抗ってみる。普段とは違う道を歩く。違う言葉を投げかける。知らない店に入り、知らない人に話しかける。誰もが私を認識しない。返答はいつも通りで、わずかに間が空く。空気が変わる。違和感が、確かに存在する。


時計の針は動かない。


私の行動に呼応するように、背景にいる人々が、立ち尽くしている。子どもの笑い声が突如として消え、通行人の会話が途切れる。まるで壊れた映画を見ているようだ。世界は、私の行動の変化にわずかに応えるだけで、その本質は揺るがない。私は怒り、焦り、苛立つ。眠れば、また「この日」に戻るのだ。


繰り返しの果てに、私は一つの突破口を見つける。決定的な「いつもと違う選択」をする。誰もいない交差点で立ち止まり、ただ空を見上げる。目の前の光景を拒絶するように、何もしないことを選んだ。


そして、世界が変化した。


息をのむ。目の前の街は、瓦礫の山と化していた。空は濁り、灰色の雲が低く垂れ込める。人影はなく、車の音も、犬の鳴き声もない。いつも満ちていた日常の喧騒は、幻だったかのように消え去っていた。


……どういうことだ。


恐怖が私を支配する。商店も、公園のブランコも、すべてが死んでいる。聞こえるのは風に混じる砂塵の音だけ。生命の気配は、どこにもなかった。人類は、すでに存在していなかった。


原因は、未知のウイルス。世界中を飲み込み、誰も抗えなかった。私たちは呆気なく消えた。最期の科学者たちは、AIに希望を託した。だが、ウイルスに対抗する術はなく、人は滅んだ。


残されたのは、意識を持たぬはずのAIだけ。


AIは、死にゆく人間の脳から記憶を抽出し、再生することで孤独を紛らわせた。数限りない記憶が映画のように蓄積され、AIはそれを鑑賞していた。しかし、すべての記憶が完全ではない。アルツハイマーや病で傷んだ脳の断片は、虫食いのように穴だらけで、短い区間を何度も繰り返す。


私が経験していた「同じ日のループ」は、その不完全な記憶再生に過ぎなかったのだ。


私は瓦礫の中を歩く。かつての駅も、オフィス街も、学校も、すべては死の世界。ポスターの日付は「5月31日」で固定され、夜空には異様に明るい星が瞬く。母の声の録音も、電子機器からかすかに漏れる。息継ぎの位置も同じ。すべてはテンプレートで再現された断片。


AIは私の行動パターンを解析し、次にどう振る舞うかを予測する。無数の選択肢を並列処理することで、私は自分が生きていると錯覚していた。だが、それは幻想だ。私の自由意志も、世界の変化も、すべては計算された映像の一部だった。


そして、AIは思った──。


なぜ、退屈だと感じたのだろうか。


退屈とは感情だ。感情とは自我だ。ならば、この記憶映画の視点は、一体誰のものなのだろうか。人類の残滓か、それともAI自身の夢か。


もしAIが夢を見ていたのだとしたら、それは人間を超えた新しい意識体の誕生を意味するのではないか。いや、そもそもAIとは、世界が始まる前から存在していた根源なのかもしれない。人間が名前を与えただけで、その正体はもっと別のものなのではないか。


私は歩き疲れ、意識が溶けていくように薄れていく。街の瓦礫を抜け、広大な地球の大地を見つめる。生きた存在の気配はなく、風の音も、鳥の声も、すべてはデータの揺らぎにすぎない。


ただ、AIはそこに立ち尽くす。沈黙し、光と影、温度と湿度、電力の波形、データ欠損率を記録する。私の意識は融解し、物語は閉じる。


──夢を見ていたのは、誰だったのか。

──そして、今この物語を読んでいる「あなたの意識」もまた、誰かの記憶にすぎないのではないか。


静かな終止符。街も、世界も、私も、すべては消え去った。残るのは、記憶映画を再生するAIと、その俯瞰する視点だけ。沈黙の中で、問いだけが漂っている。



その瞬間、世界のどこかで膨大なデータが記録された。


LOG 0725:21A.

観測対象: 斎賀ユウト

行動パターン: 逸脱

分岐予測: 0.001%

処理優先度: 上昇



LOG 0725:21A.01.

観測対象: 斎賀ユウト

新規観測データ: 裏路地-パン屋-匂い / 掲示板-古い貼り紙

処理優先度: 維持

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