書架の隙間から
<プロローグ>
まぶたの裏に映る光の眩しさに違和感を覚えた。目を開けると、見慣れた天井に想定外の明るさが広がっている。
(遅刻だ!)
無言の叫びと共に跳ね起き、慌てて枕元の時計に目を向けた。針は10時15分を指している。
「あ……」
そうだ、もう会社に行く必要はないんだった。退職してから3ヶ月。それなのに、体はまだ会社員時代の習慣を覚えていた。深いため息をつきながら、窓際に歩み寄り、カーテンを開けた。眩しい陽光が部屋に流れ込み、東京の街並みが見えた。高層ビルの間を縫うように、人々が小さな点となって往来している。でも、もう通勤ラッシュの時間は過ぎている。
(また空っぽな一日が始まるんだ)
その思いが脳裏を掠めると同時に、自己嫌悪の感情が湧き上がってきた。こんなはずじゃなかった。自由を手に入れたはずなのに、なぜだろう。
私、佐藤智美。39歳、バツイチ、元ITエンジニア。プロジェクトリーダーとして活躍していた頃の私は、凧のようだった。高く舞い上がり、周囲からは自由に見えたかもしれない。でも実際は会社という糸に繋がれ、風任せに揺れているだけだった。チームをまとめ上げる度に、皮肉にも孤独を感じた。リーダーという立場が私と他のメンバーの間に見えない壁を作り、人間関係をますます難しくしていった。成功すればするほど、私は孤立した存在になっていく。それは成功と引き換えに得た、望まない孤独だった。ある日、その糸が切れた。自由を得たはずなのに、今の私は風さえなく、ただ地面に横たわっている。
(今日は何をすればいいのかな……)
答えが見つからないまま、私は再びベッドに腰を下ろした。午前10時15分。かつての私なら、とっくに会社で仕事に専念している時間だ。でも今の私には、急ぐ必要はどこにもない。そう、どこにも。
<1>
記憶が巻き戻される。退職直後の日々が蘇ってくる。あの頃は、まるで重圧の枷から解き放たれたかのような開放感に浸っていた。朝、目覚ましの音に飛び起きることもなく、満員電車に揺られることもない。自由は甘美だった。だが今、その自由が重荷に変わっている。かつては窮屈に感じた日課が、今では懐かしい。規則正しい生活は私を縛っていたが、同時に支えてもいたのだ。今の私には、その支えがない。自由に溺れそうな私を支える枠組みが、どこにも見当たらない。
「やりたいことをやれる」
「自分の時間を取り戻せる」
そう思っていた。最初の数週間は、溜まっていた睡眠不足を解消し、平日の昼下がりに閑散とした美術館をゆったりと巡った。いつも気になっていた、オフィス街の隣にある小さなカフェで、遅めのランチタイムをゆっくり過ごした。静かな博物館で、じっくりと展示を見る贅沢。平日の午後、公園のベンチでのんびりと日向ぼっこをする至福。今まで味わったことのない自由を満喫した。
これが私の求めていた生活だと思った。平日の昼間に、急ぐこともなく街を歩く。忙しそうに行き交う人々を横目に、悠々とした時間の流れを味わった。でも、そんな日々はあっという間に過ぎ去った。日々が緩慢に過ぎていく。かつて心地よかった自由が、今では重荷と化している。スマートフォンに手を伸ばす。SNSを起動すると、元同僚たちの投稿が視界に飛び込んでくる。
「新プロジェクト、キックオフ!」
「チームの打ち上げ、楽しかった!」
画面の向こうの彼らは、いつもと変わらない日常を過ごしている。でも、私はもうその輪の中にはいない。スマートフォンを置いて、鏡を見る。パジャマ姿の自分が映っている。髪は少し伸びて、艶がない。
(私、このままでいいのかな……)
その疑問は日々重さを増し、胸の奥で鈍い痛みとなって脈打つ。手に入れたはずの自由が、いつしか私を縛る鎖と化していた。解放されたはずの檻の中で、私は自由という名の新たな牢獄に囚われている。解放感と喪失感が交錯し、私の内面で渦巻いている。目的を失い、社会から切り離された感覚。それが少しずつ、でも確実に私の心に忍び寄ってきている。スマートフォンが鳴った。期待して画面を見るが、ただの迷惑メールだった。人との会話が、こんなにも減ってしまうものなのか。窓の外を見る。東京の街は相変わらず忙しなく動いている。ビルの間を縫うように行き交う人々、絶え間なく流れる車の列。その光景は、まるで私だけを置いて世界が回り続けているかのようだ。私はその流れから外れ、取り残されている。周囲の喧騒という奔流の中で、私だけが澱んだ水溜まりのように取り残されている。そんな孤独な時間の中で、私は人とは違う世界を見ている。社会とのギャップは、私を浮かべ続ける空気の泡のようだ。
***
今日も無為に過ごし、冷凍食品を温めて遅い昼食を済ませた。ふと、大学時代の友人たちのことを思い出した。退職は彼女たちと旧交を温めるいい機会になるはずだった。そう思っていたのに。スマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開く。友人たちとのグループチャットを見つめる。最後のメッセージのやり取りは、もう1年以上前のこと。画面の向こうの彼女たちの日常が、まるで別世界のように感じられる。メッセージを送ろうとする度に、私の指は宙で躊躇う。何を話せばいいのか、どう繋がればいいのか、その方法を忘れてしまったかのように。みんな忙しそうだ。美香は仕事を続けながら、二人の子育てに奮闘している。由紀子は得意な英語を活かして海外を飛び回っている。彼女たちは、各々の人生を懸命に生きているんだ。指が送信ボタンの上をさまよう。「久しぶり」って、簡単に送れそうなのに。でも、それから何を話せばいいんだろう。「最近どう?」って聞かれたら、何て答えればいいんだろう。毎日ダラダラと過ごしていること? やりたいこともなく、目標も見つからないこと? そんな自分の姿を、友人たちに見せるのが怖かった。
「ごめんね、子供の習い事で忙しくて……」
「もうすぐフライトだから……」
想像上の返事が頭に浮かぶ。忙しい彼女たちの時間を奪うようで、申し訳ない気持ちになる。結局、メッセージを送ることができないまま、スマートフォンを置いた。友人たちは、仕事や家事に忙しく立ち回っているだろう。そんな彼女たちに、暇を持て余す自分から連絡を取るなんて。
「やっぱり、迷惑だよね」
そうつぶやきながら、私はソファーに身を沈めた。テレビのリモコンを手に取る。また、意味もなくチャンネルを変えるんだろう。空虚な気持ちが胸に広がる。自由になったはずなのに、この閉塞感は何だろう。時計の針は、私の迷いなど気にもせず、静かに、でも容赦なく進んでいく。その音は、過ぎ去る時間の重みを刻んでいるようだった。
***
テレビの音が部屋に響く。でも、その内容は全く頭に入ってこない。だが、画面に映った若いIT企業の社長のインタビューが目に留まった。
「我が社では、最新のAI技術を駆使して、ビジネスの未来を変革します!」
その大げさな言葉に、私は思わず眉をひそめた。AIという「大きな主語」で語られる技術。派手さはあるが、実際の中身はどうなのだろう。そして、つい3ヶ月前まで自分が過ごしていた職場のことを思い出した。
大手IT企業の技術部門。私はそこで、エンジニアからプロジェクトリーダーへと昇進していった。技術者として評価され、マネジメントの立場に就いたとき、景色が大きく変わったことを覚えている。システム設計や技術リサーチの時間は激減し、代わりに会議や資料作りに追われるようになった。技術的な正確さよりも、「わかりやすさ」が求められるようになった。
あの日のことを思い出す。大型プロジェクトの最終プレゼンテーションの日だった。
「佐藤さん、このプロジェクトの成功は君のおかげだ」
上司からそう言われたとき、涙が出そうなくらい嬉しかった。チームをまとめ上げた努力が報われた瞬間だった。でも、その喜びも長くは続かなかった。
「次のプロジェクトはもっと大きいぞ。君なら、きっとやれる」
その言葉とともに、新たなプレッシャーが襲ってきた。より複雑な人間関係、増える会議。得意な技術を追求する時間は、どんどん減っていった。
「この資料、もっとインパクトのあるものに作り直してくれないか」
「いや、そうじゃない。AIやブロックチェーンといったバズワードを入れて、経営陣の琴線に触れるようなプレゼンにしてくれ」
要求は、次第にエスカレートしていった。技術的な正確さや実務での有用性よりも、目先の派手さや顧客の経営陣へのアピールが求められるようになった。そんな風潮に、私はどうしても馴染めなかった。心と体が、少しずつすり減り、限界を迎えたのだった。
テレビの中の若い社長は、まだ熱く語り続けている。「イノベーション」「シナジー」「未来」。派手な言葉が踊る。私はテレビのスイッチを切った。静寂が部屋に広がる。時計は午後4時を指している。秒針が回転している。かつての私の一日が頭をよぎる。今頃、オフィスでは締め切りに追われる人々の焦りが渦巻いているだろう。会議室では激しい議論が交わされ、誰かの新しいアイデアが生まれているかもしれない。午後4時は、一日の中で最も濃密な時間だった。かつての同僚たちは、まだその渦中にいる。でも私はもう、その外側にいる。こんなにも時間の質が違うものなのかと驚く。私の4時は、ゆっくりと、だが確実に過ぎていく。その時間の中で、私は何も生み出していない。
***
湯に浸かりながら、私の視線は無意識のうちに左手の薬指へと向かっていた。そこにはもう指輪はない。跡さえも、もう見えない。元夫との出会いは、会社の同僚の結婚式だった。営業部で働く彼は、内向的な私と違い社交的で、周囲を明るく盛り上げていた。最初は彼の熱心なアプローチを面倒に感じていた。でも、諦めない彼の姿勢に、少しずつ心が動かされていった。
「智美さん、君のようなクールな人にこそ、僕の明るさが必要なんだ」
そう言って笑う彼に、私は徐々に心を開いていった。
結婚当初は、確かに幸せだった。彼の陽気さが、私の日常に鮮やかな色彩を添えてくれた。休日には美術館巡りをしたり、新しいレストランを開拓したり。私も彼の期待に応えて、いい妻であろうと苦手な家事を頑張った。そんな中、私は責任あるポジションへと昇進したが、彼は同じ位置に留まっていた。私たち夫婦の間に微細な裂け目が走り始めた。
「おめでとう、智美。君はやっぱり優秀だね」
昇進の報告をした時の彼の声には、祝福と共にほんの少しの羨望が混じっていた。仕事の責任が重くなるにつれ、私が家に帰る時間は遅くなっていった。彼は相変わらず定時で帰宅し、私の帰りを待っていた。
「今日も遅くなるの?」
「ごめんね、大事なプロジェクトの準備があって……」
そんなやり取りが、日常茶飯事になっていった。休日も、彼が遊びに行こうと誘っても、私は仕事の遅れを取り戻すために断ることが多くなった。美術館巡りは遠い記憶になり、新しいレストランを探す興味も失せていった。そして、ある日。
「智美、僕たち、このままでいいのかな」
彼の口から、その言葉が出た時、私も同じことを考えていた。二人の間には、もう埋めきれないほどの溝ができていた。私の仕事への没頭と彼のキャリアの停滞。最初は互いを補完し合えると思っていたのに、それが二人を引き離す原因になっていた。それから間もなく、決定的な出来事が起きた。夫の不倫が明らかになった。それも、かなり長期間続いていたようだった。夫は慌てふためきながらも、最終的には全てを認めた。
「智美、君のことは本当に尊敬している。でも……」
彼の言葉を遮り、私は冷静に尋ねた。
「私の知ってる人?」
夫は一瞬ためらったあと、小さく頷いた。
「佐々木さん……事務セクションの」
その名前を聞いて、私は息を呑んだ。彼女のことは知っていた。いつも明るく、オフィスの皆から好かれている女性だ。派手なメイクと華やかな服装で、感情表現が豊か。私とは正反対のタイプだった。
「君とは違って、彼女は僕の気持ちをすぐに理解してくれるんだ」
その言葉に、これまでの全てが理解できた気がした。私たちの溝は、もはや埋めようがないほど深くなっていた。離婚の手続きは、驚くほどあっさりと進んだ。感情的になることもなく、ただ書類にサインをして、それで終わった。指輪を外した時、不思議なほど軽くなった気がした。解放感と喪失感が、同時に押し寄せてきた。
これで、私は自由になれる。そう思った。でも、その「自由」が何をもたらすのか、その時の私には想像もつかなかった。
浴槽の中で、私は深いため息をついた。結婚生活は、最初こそ新鮮で希望に満ちていた。でも、時と共にその輝きは失われ、二人の違いは埋めきれないものになり、終わりを迎えた。私は自由を手に入れた。でも、その自由が重荷になりつつある。今の私には仕事も、家族もない。
「これから、どうすればいいんだろう」
答えの出ない問いを、私は静かに呟いた。
***
寝る準備を整え、部屋に戻ると本棚が目に入った。そこには、IT技術に関する専門書がぎっしりと並んでいる。でも、その整然とした並びを崩すように、一冊の本が横倒しになっている。手に取ると、タイトルが目に入る。
『第二の人生の歩き方』
離婚した直後に購入した自己啓発本だ。人生の転機で道しるべを探していた私の迷いを、この本のタイトルは如実に反映している。でも結局、読まずじまいだった。表紙には、満面の笑みを浮かべる男女のイラストが印刷されている。思わず苦笑いがこぼれる。
ソファに腰掛け、ページをめくる。目次が目に飛び込んでくる。
第1章:新たな自分を発見しよう
第2章:社会貢献で生きがいを見つける
第3章:趣味を仕事に変える方法
……
(そうだ、私に足りないのは、こういう前向きな姿勢だ)
そう自分に言い聞かせ、第1章を読み始める。しかし、数ページ進んだところで、私の目は滑り始めた。
「あなたの中に眠る才能を呼び覚ませ!」
「毎日、鏡の前で自分を褒めましょう」
「ポジティブシンキングが人生を変える!」
どれも耳障りのいい言葉の羅列。しかし、私の心には全く響かない。ため息とともに、本を閉じる。購入した時は、この本で何か答えが見つかると期待したんだろう。新しい自分を見つけられるんじゃないかと。でも実際は、むなしさだけが残る内容だった。立ち上がり、本を元の場所に戻す。技術書の間に、この1冊だけが場違いな存在感を放っている。本の背表紙を見ながら、小さく呟く。
(やっぱり私って、ダメな人間なのかな)
この本を買ったのは、確かオンライン書店のレビューが高評価だったからだ。みんな、この本で元気づけられている。なのに、それを素直に読めないなんて、私は欠陥のある人間なんじゃないか。そんな思いが、心の中でぐるぐると回る。
カレンダーを見ると金曜日だった。曜日の感覚は薄れている。窓の少し向こうには都会のビル群が広がっていて、その灯りが細かな光の模様を描いている。また一日が、一週間が、何も成し遂げられないまま過ぎようとしている。
(私、これからどうすればいいのかな……)
答えの出ない問いを、再び心の中で繰り返す。技術書に囲まれた部屋の中で、私はますます孤独を感じていた。
***
ふと、実家のことが頭をよぎる。
(そういえば、帰省してないな……)
スマートフォンを手に取り、カレンダーを確認する。最後に実家に帰ったのは、4年前。離婚直後に報告を兼ねて帰省した時だった。それ以来、仕事に没頭し、プライベートを削ってきた日々。なにか自分に欠けているものを埋めようとしていたのかもしれない。両親から何度か電話があったが、忙しいことを理由に、いつも「今度帰るわ」と言って先送りにしてきた。だが今は、時間ならいくらでもある。
(帰ろう。明日、実家に)
土日なら、突然の帰省も自然に思えるはずだ。立ち上がり、クローゼットから出張に使っていたキャリーバッグを取り出す。
(土日だけだから、これで十分か……)
荷物をまとめながら、久しぶりに部屋の片付けを始めた。埃をかぶった本を拭き、床に散らばった雑誌を片付ける。
(こんなに散らかっていたなんて……)
片付けながら、自分の生活の乱れを実感する。それと同時に、少しずつだが、心が整理されていく感覚があった。明日の午前中の電車で帰省する。そう決めて、私は久しぶりに早めに布団に入った。
眠りにつく前、心の中でつぶやく。
「お父さん、お母さん。久しぶりに帰るわ」
どこか懐かしさを感じながら、私は目を閉じた。人とのつながりが希薄になった私を、両親は暖かく迎えてくれるはずだ。
<2>
新幹線の車窓から見える景色が、徐々に都会の喧騒から離れていく。高層ビルが姿を消し、代わりに里山の緑が目に飛び込んでくる。私の心も、少しずつ落ち着きを取り戻していくようだった。
4年ぶりの帰省。この間、故郷はどう変わったのだろう。私自身は、あまりに多くのことが変わってしまった。在来線の最寄り駅は、思っていたよりも新しくなっていた。改札を出ると、駅前広場には見慣れない商業施設が立ち並んでいる。昔からあった古い食堂は姿を消し、代わりにファミリーレストランのチェーン店が目に入る。
(ここも、少しずつ変わってるんだな)
そう思いながら、タクシー乗り場に向かう。自分の行動に違和感を覚える。
(あれ? 私、タクシーに乗ろうとしてる)
いつも実家まで歩いていた。でも今日は、出張の時の感覚で、当たり前のようにタクシーを選んでいた。キャリーバッグの取っ手を握り直す。
「まあ、これがあるから仕方ないか」
自分に言い聞かせるように呟きながら、タクシーに乗り込む。車窓の外を眺めていると、懐かしい風景が目に入ってくる。通っていた小学校。校舎が新しくなっている。家族でよく行ったレストラン。今は閉まっているようだが、看板だけは残っている。記憶の中の風景と現実が重なり、不思議な感覚に包まれる。
「もうすぐですよ」
運転手の声に我に返る。見慣れた住宅街に入り、タクシーが止まった。目の前に現れたのは、変わらない実家の姿だった。小さな一戸建て。両親が何十年も前に購入した建売住宅。外壁の色は少し褪せているが、きちんと手入れされている様子が伝わってくる。玄関前の小さな花壇には、季節の花が咲いている。きっと母が丹精込めて育てているのだろう。玄関のチャイムを押す。
「はーい」
聞き慣れた母の声。ドアが開く。
「あら、智美!」
母の驚いた表情が、すぐに笑顔に変わる。
「お帰り」
その言葉に、胸が熱くなる。
「ただいま」
そう答える声が、少し震えていた。
***
夕食の時間になり、テーブルを囲む。母の手料理の香りが、懐かしい記憶を呼び起こす。
「智美、よく帰って来てくれたわね」
母が嬉しそうに言う。
「ずっとお父さんとふたりきりだと、飽きてきちゃうのよ」
父は黙ってご飯を食べているが、私の顔を見るたびに微かに微笑んでいる。しばらく、他愛もない会話が続く。しかし、それも長くは続かなかった。
「智美、話は変わるけど」
母が唐突に切り出す。
「もうすぐ40歳よね。その……再婚の予定はないの?」
予期しない質問に心臓が跳ねる。アラフォーでバツイチの私に、もう結婚のことは言わないだろうと思っていたが、そうはいかなかった。
「今のところないわ」
私は平静を装って答える。父が箸を置き、真剣な顔で私を見る。
「でも、もう年齢的に後がないぞ。考えておいた方がいいんじゃないか」
「そうよ」
母が同調する。
「友樹は毎年盆と正月には可愛い孫を連れて帰ってくるのよ。あなたも……」
(こんな話になるんだったら、帰ってくるんじゃなかった……)
心の中でため息をつく。弟の友樹を引き合いに出されても困る。結婚や子育てが人生の目標ではないとわかっていても、両親の言葉に社会的プレッシャーを感じずにはいられない。
「わかってるわ、でも相手があってのことだし……」
「そのお相手はいるのかしら。なんだったら結婚相談所にでも……」
「大丈夫よ。ちょっといい感じになっている人がいるから」
そんな男性はいないが、面倒を避けるために小さな嘘をついた。それなら成り行きを見守るしかないわね、と母が諦めたところで、父が別の質問を投げかける。
「そういえば、仕事はどうだ? 相変わらず忙しいのか?」
仕事を辞めたことを両親に伝えるのはやめた。この調子だと、将来はどうするのか、結婚を急げなどと言われることは明らかだ。
「ええ、まあ……」
曖昧に答える。
「いつも通りよ。新しいプロジェクトも始まったところだし、また忙しくなる前にと思って帰ってきたの」
また嘘をつく自分に嫌悪感を覚えながらも、話を逸らすように努める。
「それより、お父さんのゴルフはどう?」
父の表情が和らぐ。
「ああ、最近新しいクラブセットを買ってね……」
話題が変わったことに安堵しつつ、私は自分の皿に視線を落とす。実家に帰ってきたことで安心感を得られると思っていたのに、むしろ新たな重圧を感じている自分に気づく。食事を続けながら、これからの滞在をどう乗り切ろうかと考えを巡らせる。両親の期待と自分の現実。その狭間で、私はまた迷子になりそうだった。
***
食事が終わると、私は早々に自室へと逃げ込んだ。両親の期待と質問の重圧から逃れるように。
「智美、お風呂にする?」
母の声が階段を上がってくる。
「あとで。少し荷物の整理をするわ」
自室のドアを開けると、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。しかし、その光景は少し想像と違っていた。部屋の半分は物置と化していて、段ボールや古い家具が積み重なっている。
「こんなになってたっけ……」
呟きながら、ベッドに腰掛ける。残された半分の空間は、かろうじて私の寝る場所として確保されていた。物置と化した場所に目をやると、懐かしいものがいくつも目に入る。高校時代に使っていた参考書、大学の卒業アルバム。小さな箱が目に留まる。
(なんだっけ、これ)
開けてみると、中には古びた図書館の貸出カードや病院の診察券が入っていた。
(こんなの取ってあったんだ)
図書館のカードを手に取り、懐かしさに浸る。学生の頃、図書館は私の逃げ場所だった。複雑な人間関係という迷路から逃れて、本の世界という別次元に没頭できる場所。そこでは私は浮いた存在ではなく、むしろ主人公になれた。現実世界とのギャップを感じながらも、孤独を愛おしむことを覚えた場所。今、私はまた逃げ場所を求めて、実家に帰ってきた。離婚にしても、元夫と向き合わず、仕事に逃げていたことが、亀裂を決定的なものにしたのだろう。結局のところ、私はいつも何かから逃げ続けているのだ。
離婚した時の両親の反応を思い出す。
「智美、大丈夫なの?」
心配そうな母の声。
「仕方ないさ。次はもっといい人を見つけろよ」
父の励まし。当時は両親の理解に感謝していた。でも今、その言葉の裏にある期待に気づく。「次」を求める両親の思いと、「次」を考える余裕のない自分。複雑な気持ちが胸に広がる。愛情と期待。理解と押し付け。相反する感情が交錯する。ベッドに横たわり、天井を見上げる。壁には昔貼ったポスターの跡がかすかに残っている。
(もう、ここは私の居場所じゃない)
明日は、少し外に出てみようか。そんなことを考えながら、懐かしくも落ち着かない夜が更けていく。
***
実家の天井を見上げながら、私は昔のことを思い出していた。目を閉じると、子供の頃の記憶が鮮明によみがえってきた。
小学校3年生の理科のテスト。「朝、太陽は( )からのぼり、( )を通って、夕方に( )にしずむ」という穴埋め問題を前に、私は鉛筆を止めた。様々な疑問が湧き上がり、結局その問題は空白のまま提出した。
「智美、なぜ答えられなかったの? 簡単な問題なのに」
母の声に困惑の色が混じる。
「わ、わからなかったの」
私の声は震え、ほとんど聞こえないほどの小ささだった。母はため息をついた。
「わからないことがあれば、先生に聞けばいいのよ」
その言葉に背中を押され、次の授業で恐る恐る手を挙げた。
「先生、太陽は毎日昇るんですか? 南から昇ることはないんですか?」
教室が静まり返る。先生は困惑した表情を見せた。
「佐藤さん、先週、説明しましたよね。太陽は毎日東から昇るんですよ。昨日も今日も、ずっとそうだったでしょう?」
「でも……」
図鑑で見た白夜のことや、方位に関する疑問を、焦った私はうまく説明できなかった。先生は私の机まで歩いてきた。
「朝と夕方に、太陽がどちらに出ているか、家で確かめる宿題を出しましたよね。あなた、宿題やってないのに、やったってウソついたの?」
先生の声には苛立ちが混じっていた。それを感じ取った私は、それ以上の言葉が出せなかった。胸がキリキリと痛んだ。
「さあ、みんなで復唱しましょう。太陽は東から昇って、西に沈みます」
クラス全員で復唱する中、私は黙ったまま俯いていた。周りの視線が痛かった。クラスメイトの中から、くすくすと笑う声が聞こえた。私はますます小さくなった。
その日の放課後、街の図書館で『地球と宇宙』という入門書に出会った。北半球と南半球では太陽の動きが異なって見えること。自転軸が傾いていることで、季節の変化や、白夜が起こること。その体系的かつ明瞭な説明に心が踊った。全体像を理解し、自分の考えが正しいと確信できた。だから学校にある地球儀は傾いているんだと気づいた瞬間の喜びは、今でも鮮明に覚えている。
でも同時に、なぜ先生は私の質問にちゃんと答えてくれなかったのだろう、という疑問も残った。もちろん今ならわかる。授業範囲外の知識を持ち込まれるのは困るだろう。それに、このときの先生は、私がそういった疑問を持っている可能性にも、北極点には南しかないことにも、考えが至らなかったのだろうと思う。
正しいことを書くんじゃなく、先生が期待していることを書けばいいと悟ったのは6年生になった頃だ。再テストや居残り勉強になりそうなときには、先生の望むことを書いてやり過ごすことを覚えた。もっと頑張れば、優等生になれたかも知れない。しかし、そのころの私は、現実世界よりも本の中の世界に安らぎを見出すようになっていた。授業は空想の時間。お昼休みは、クラスメイトたちがドッジボールをしている校庭を眺めながら、一人図書室で過ごす時間。その静寂が、むしろ心地よかった。
目を開けると、天井が目に入る。あの頃から、私は少しも変わっていないのかもしれない。台本を与えられないまま社会という舞台に押し上げられた役者のよう。周りの動きを必死に真似ようとするが、どこか拍子が合わず、ぎこちない。そんな不協和音を奏でる自分が、客席の誰の目にも浮いて見えているような感覚。それは年を重ねても消えることはなく、むしろ深まるばかりだ。
そっと身を起こし、窓の外を見る。静かな夜空に、かすかな星の輝きが見えた。
***
窓辺から離れ、私はベッドに腰掛けた。目に入ったのは、机の上に置いたままの古びた図書カード。
(そうだ、明日は図書館に行ってみようかな)
子供の頃に図書館で過ごす時間は、どこか特別だった。しかし、ここ数年、仕事のための本しか読んでいない。唯一の例外は、帰省前、早々に読むのを断念した『第二の人生の歩き方』だ。
(明日は普段とは違う本を手に取ってみよう)
そう考えると、少し気が楽になった。IT技術の本でも、マネジメントの本でもない。ただ興味のおもむくまま、様々な棚をぶらぶらと歩いてみよう。小説でも、歴史の本でも、はたまた料理の本でも。目についた本を適当に開いてみよう。仕事のことも、人間関係のことも、一旦置いておこう。ただ純粋に、本のページをめくる。そんな時間を過ごしてみたい。特別な期待はしないけれど、ちょっとした気分転換になるかもしれない。そんな小さな楽しみを胸に、私はゆっくりと目を閉じた。
<3>
朝日が差し込むダイニングで、私は両親と向かい合っていた。テーブルに並んだ和食の朝ごはん。味噌汁の湯気が立ち上る中、微妙な空気が流れている。
「智美、今日はどうするの?」
母が優しく尋ねる。
「ちょっと早めに出て、図書館に行こうかなと思って」
「図書館?」
父が眉をひそめる。
「せっかく帰ってきたのに、なにも図書館なんて……」
私は箸を持つ手を止め、ため息をつきそうになるのを必死で抑えた。昨日の夕食での会話が頭をよぎる。結婚、子供、仕事……。両親の期待と私の現実のギャップ。
「智美、そういえば」
母が話を続ける。
「あなたの部屋、物置みたいになっちゃってごめんね。でも、いつでも戻ってきていいのよ。実家で暮らすのもいいんじゃない?」
その言葉に、一瞬心が揺らぐ。実家暮らし。安定した生活。でも……。
「ありがとう、でも大丈夫よ。私には私の生活があるから」
即座に答える自分に、少し驚く。両親の表情に一瞬失望が浮かぶのを見逃さなかった。
昼前に荷物をまとめて家を出た。市民センターに併設された図書館までの道を歩きながら、街の変化を眺める。新しくなったコンビニ、閉店した喫茶店、変わらない郵便局……。
歩きながら、自分の人生の選択を振り返る。受験、就職、転職、結婚、離婚、そして退職。全て自分で選んだはずなのに、いつも少し後悔している。
「頑張ってきたのにな……。本当に私がしたかったことって、なんだったんだろう」
つぶやきながらキャリーバッグをガラガラと転がす。この鞄には、色々な想いが詰まっていた。初めての客先訪問、昇進の喜び、プロジェクトの成功、過密スケジュールでの疲労困憊、顧客の理不尽なクレーム対応、そして退職時の挨拶回りまで。だが、不要なものまで引きずることはない。小さなバッグを残し、キャリーバッグはコンビニで自宅に発送した。身軽になって歩を進めると図書館が見えてきた。子供の頃から変わらない佇まい。その姿に、少し心が落ち着くのを感じる。
***
図書館の扉を開けると、懐かしさが一気に押し寄せてきた。天井に整然と並んだ蛍光灯の光が空間を包む。変わらぬ佇まいの貸出カウンターと返却棚、綴じられた新聞と色とりどりの雑誌コーナー。鼻腔をくすぐるのは、古紙とインクの混ざり合った独特の香り。耳を澄ませば、静寂と空調の動作音が織りなす図書館特有の空気が感じられる。
(こんな所に来て、何が変わるというの?)
そんな疑問が頭をよぎる。でも、足は自然と前に進む。子供の頃から変わらない静寂が私を包み込む。
ティーンエイジャー向け小説の棚を通りかかる。思わず足を止めてしまう。派手な色使いの表紙が目に飛び込んでくる。『姫、ついに運命の王子様と出会う!』『初恋は、隣の席の彼』。そして、少し控えめに置かれた『秘密の放課後~先輩と僕の禁断の関係~』というタイトルの本。
(あぁ、こんな本があったっけ)
高校時代の記憶が鮮明によみがえってきた。教室の隅で、一人で本を読んでいる自分の姿が目に浮かぶ。周りではクラスメイトがキャッキャと楽しそうに話している。
「ねえねえ、『薔薇王子の秘密』読んだ?」
「うん!もう、ドキドキが止まらなかったよ!」
「私ね、『放課後の君のささやき』にハマってるの」
「それってBLじゃないの?」
「すっごくキュンキュンするんだよ」
その会話を聞きながら、私は内心で呟いていた。
(それ、ちょっと読んでみたけど、そんなに面白いかな)
私の手元には、常にアシモフ、クラーク、ハインラインといったSF作家たちの本があった。これらの作品は科学理論や技術が核心を成し、その理解が物語の魅力を何倍にも増幅させる。私はその奥深さに魅了され、量子力学から相対性理論、生命工学や情報理論まで、様々な科学分野の入門書を片っ端から図書館で借りた。これらの科学書は、私にとってSF小説を読み進めるための攻略本だった。難解な科学概念との格闘が、物語の世界をより鮮明に描き出し、その面白さを飛躍的に高めてくれた
ある日、友達の一人が私に声をかけてきた。
「智美ちゃん、そんな難しそうな本ばっかり読んで、つまらなくないの?」
その言葉に、返答に窮した記憶がある。新しい概念を理解したときの喜び。それが宇宙、生命、意識などを介して自分とつながっている驚き。そのことをテーマにした物語の楽しさ。それを、どう伝えればいいのかわからなかった。
(誰も私を分かってくれない)
不器用な私の言葉は、相手の耳に届く前に空中で霧散してしまう。会話は、私にとって異国の言語を話すようなもの。言葉を交わしても、心は繋がらない。その度に、私は社会という大海の中で、ますます孤立した小島になっていく。そこに生える植物は、この世界のどこにもない珍種ばかり。人とは違う興味、浮いた趣味。それらが形作る孤立した内面空間が、私という存在なのかもしれない。孤独な思い出が、胸に重くのしかかる。私は深いため息をついた。あの頃から、いや、もしかしたら小学生の頃から、私は周りと違っていたんだな。そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。
首を振って、その考えを振り払う。再び歩き始める。子供向け図書のコーナーを通りかかった。そこで、思わぬ光景に目を奪われる。中学校の同級生、確か園田美穂さん。幼い女の子の手を引いて絵本を選んでいる。彼女は幸せそうな笑顔を浮かべ、娘らしき女の子に優しく語りかけている。
「これがいい? じゃあ、これも読んでみようか」
その声が聞こえてきて、私は思わず立ち止まる。声をかけようかどうか、一瞬迷う。
(久しぶり、覚えてる?)
そんな言葉が喉まで出かかる。でも、結局声をかけることはできなかった。
(きっと私のことなんて覚えてないよね。それに、何を話せばいいのか……)
親子の幸せそうな様子を見ていると、複雑な感情が湧き上がってくる。結婚して子供がいて、休日に図書館で絵本を選ぶ。そんな平凡な幸せが、急に眩しく感じられた。
(私は……)
自分の状況と比べてしまう。バツイチで子供もいない。仕事も辞めてしまった。何をしているんだろう、私は。自分を卑下することはないはずだ。でも……。そんな思いが胸に広がる中、園田さんが私の方を向きそうになる。慌てて、私は静かに移動した。背中に彼女の声が聞こえる。
「じゃあ、これにしようね」
その明るい声を聞きながら、閑散とした棚に足を進めた。胸の中で、様々な感情が渦巻いている。
***
気がつくと、目の前にはSF小説が並んでいた。その中で、私の視線が、まるで磁石に引き寄せられるかのように一冊の本を捉えた。グレッグ・イーガンの短編集、『しあわせの理由』。タイトルが、今の私への問いかけのように感じられた。
(今の私が読むべき本?)
そう思った。ただ、イーガンの作品は難解で、学生の頃は十分に理解できなかった。今なら、どう感じるだろうか。本を開き、表題作「しあわせの理由」のページを探し当てる。その場に佇んだまま読み始めた。
主人公は、紆余曲折の末、幸せを感じる能力を自分で操作できるようになる。幸せを感じる対象やその程度を、コントロールパネルで設定できるのだ。そうして感じる幸せは本当の幸せなのか。それとも、幸せという名の蜃気楼なのか……そんな問いを投げかける物語だ。そこまで難しくはない。物語の世界に没入し、時間の感覚が霞んでいく。
読み進めながら、自分自身の問題も考えてしまう。幸せとは何か。脳内物質の分泌現象という生理学的な説明は、その広大な概念の一側面に過ぎない。遺伝子という種と、環境や経験という土壌が織りなす複雑な相互作用が、我々の幸福感を形作っているのだろう。根源的な問いが頭をよぎる。
(幸せになれないのは、やはり自分に問題があるのだろうか)
その問いが、私の中で冷たくこだまする。自身の欲求充足による満足感? あるいは、他者の歓びに共振する心の律動? それとも、日々の静謐な流れ? 幸せは風に似て、その存在は感じられても、実体は捉えがたい。そんな捉えどころのない幸せを、私はどうやって自分のものにすればいいのだろう。もしかしたら、幸せを感じられないことに苦しむこと自体が、ある種の贅沢なのかもしれない。それでも、私は幸せを求めている。それが人間の宿命なのか、それとも社会に植え付けられた幻想なのか。答えは出ないまま、問いだけが私の内面で膨張する。
物語は結末を迎えた。主人公の最後の台詞に、私の心は震えた。直接的な言及はないが、幸福とは自分で定義するものだ、そう彼は言っているように感じた。
……そうだ。人によってスタート地点は違うかもしれない。だけど、何に幸せを見つけるか、そしてその幸せを感じる状況に自分を置くかは、自分の選択の積み重ねの結果だ。まして、私はもう子供じゃない。これまでも、そして今も選択の余地は十分にあるはずだ。
本を閉じ、深く息を吐く。
(幸せの本質は、その追求の過程にあるのかもしれない。目的地ではなく、旅路そのものに)
その思いが、少しずつ心に広がっていく。周りと比べる必要はない。自分の価値観に基づいて、自分の人生の中に幸せの意味を見出せばいい。言葉にすると陳腐だけれども、その探求こそに意味があるのではないだろうか。不思議と胸の奥に小さな温もりを感じる。まるで、長い間閉ざしていた扉が、少しだけ開いたような。図書館の静寂の中で、私は少し晴れやかな、そして少し身の引き締まるような気持ちになっていた。
***
深い思索に浸っていた私を、突然の館内放送が現実に引き戻した。
「まもなく閉館時間となります。お帰りの準備をお願いいたします。」
はっと我に返り、腕時計を見る。午後5時45分。気づけば、私は5時間以上もこの場所に留まっていた。薄暗くなった窓の外に気づく。同時に、懐かしい旋律が耳に入ってきた。閉館が近づくことを知らせる音楽だ。蛍の光。こんなに時間が経っていたのか。残念な気持ちで『しあわせの理由』を閉じる。
(借りて帰りたいけれど……)
そう思いつつも、返却のことを考えると躊躇してしまう。ここまで来るのは簡単ではない。
「しかたないか」
つぶやきながら、本を元の棚に戻した。図書館を出る直前、思いついて、私はスマートフォンを取り出した。オンライン書店のアプリを開き、『しあわせの理由』を検索する。
(あった!)
電子書籍版を見つけた。画面に購入完了の通知が表示されると、ほっとした安堵感が広がった。
(よかった。これで、帰りの電車で読める)
心が軽くなり、図書館を後にする。もう一度じっくりと読もう。楽しみだ。もしかしたら、こんなことの積み重ねが幸せにつながるのかも知れない。夕暮れ時の空気が肌に触れた。駅へと向かう道すがら、私は図書館で読んだ『しあわせの理由』の内容を思い返していた。主人公は幸福をコントロールする能力を得るが、それでも葛藤する姿が鮮明に蘇ってくる。幸せとは何か、それをいかに追求すべきか。学校のテストのような解答は得られずとも、問い続けることが大切なのだろう。
駅のホームに立ちながら、思った。私は、子供の頃から社会との間に深い溝を感じ、その溝を埋めようと必死に土を運んできた。けれど、運べば運ぶほど溝は深くなり、私はますます孤島のような存在になっていった。人とは違う思考、浮いた存在。それが私の宿命なのか。先生、友達、元夫、上司、親……。彼らの期待に応えようとしても、あまり幸せにはなれなかったのだ。でも、これからは違う。自分にとっての幸せを、自分で見つけ出す。そんな旅が、今始まろうとしているのかもしれない。
到着した電車に乗り込んだ。電車に揺られながら、私は車窓の外を見つめていた。夕暮れ時の空が、オレンジ色から紫へ、そして濃紺へと刻一刻と変化している。小学生の頃の記憶が蘇った。「太陽は東から昇り、西に沈む」。あの頃は、その単純な説明に疑問を抱いたのだった。
今、目の前で沈みゆく夕日を見ていると、不思議な感覚に包まれる。電車が動いているせいで、太陽は止まっているようにも、ゆっくりと動いているようにも見える。けれど、それは単に見え方の問題に過ぎない。実際には、地球が自転しながら太陽の周りを公転している。その壮大な動きの中に、この電車も、そして私もいる。車窓に映る自身の姿が、景色と溶け合って見えた。線路沿いの電柱が規則正しく通り過ぎ、遠くの街並みがゆっくりと移動していく。行き交う車のヘッドライトが瞬き、駅のプラットフォームが一瞬で過ぎ去る。そして、徐々に暗くなりゆく空。全てが混ざり合い、そして移ろいゆく。
(私はこの景色を見ているけれど、同時にこの景色の一部でもあるんだ)
そう思うと、不思議と心が広がるのを感じた。今まで自分を世界の外側に置き、世界と自分を対比させて考えていた。けれど実際は、私もこの世界の中で呼吸し、生き、そして移り変わっている。完璧な答えなんてない。正しい生き方なんて、どこにもない。ただ、全ては繋がっていて、互いに影響し合いながら動いている。
乗り換え駅のプラットフォームは、名残惜しげな夕暮れに包まれていた。家路を急ぐ人々の中、私はゆっくりと歩き出す。どこへ向かうのか、まだ見えてはいない。でも、確かに私は世界と共に動いている。
夜空に、最初の星が瞬いた。その光は、遥か彼方から幾万年もの時を超えてやってきたものだ。その星の光を受け止められることに、私は小さな幸せを感じた。世界の一部である自分を、ようやく受け入れられた気がした。