魔獣?
「お待ちを!!」
だれかが叫ぶのと、何かに手を掴まれたのはほぼ同時だった。無意識に目を瞑っていたようで、目を開けると目の前に魔獣の巨大な顔があった。その巨大な手が私の手首というか腕を掴み、ナイフの刃を首から離すように力をかけている。驚きと恐怖で声にならない悲鳴をあげてしまった。
魔法陣を囲んでいた戦士たちが槍を構えたまま魔獣との距離をぎりぎりまで詰める。魔獣は膝立ちで私と向かい合っているがそれでも私より少し高い位置に顔がある。周囲の槍が気になるようだが、私の腕を離す様子はない。
「お待ちください姫様!」
どうやら先ほどの声はモルドア様だったようだ。
「どうなったのですか?〈使役〉は成功したのでしょうか?」
魔獣と向かい合ったままで顔だけ向けた私の問いにモルドア様は厳しい顔で返す。
「いえ、できていないはずです」
その返事を聞いて、周囲の戦士、魔導士たちは緊張の度合いを極限まで高めた。〈使役〉がなされていない魔獣など災害そのものだ。戦場で魔獣より先に使役士を殺してしまった場合、解放された魔獣が暴れて被害が大きくなることもあるらしい。そんな、ここまできて失敗してしまったというのか。
「どういうことだモルドア殿。そなたの腕で魔力以外の理由で失敗するなど考えられぬ」
ルード様の問いにモルドア様がちょっと戸惑ったような顔になった。
「いや、こんなことは初めてです。手ごたえが全然なかった」
「は?」
「おそらくこの魔獣は、魔力がまったくありません」
「何だと?!」
すべての生き物は魔力を持つ。森の虫だろうと植物だろうと、生命の根幹が魔力だ。生き物の生命力そのもののことを魔力と呼ぶといってもいい。〈召喚〉にせよ〈使役〉にせよ、あるいは他の魔法も含めて、魔法は自身の魔力を他者の魔力に関与させるものだ。魔力がないものには魔法はかからない。だから死者や、岩のような無機物には〈召喚〉や〈使役〉は作用しない。
「ではこの魔獣は死んでいるのか?」
「わかりません。しかしそうは見えません」
そうだ、どう見ても死んでいるようにも、作り物のようにも見えない。なによりまだ掴まれたままの腕が温かい。体温がある死体などいないだろう。そもそも〈召喚〉できたのだから。緊張が高まっているのか緩んでいるのか、なんだかよくわからない空気になったが、気を取り直すようにルード様が声を上げた。
「よし、とにかくこの魔獣を何とかしよう。姫様、いったん離れてくだされ」
「できません!」
思わず叫んでしまった。魔獣が手を放してくれないのだ。締め付けられているわけではないが、力を入れてもびくとも動かない。私たちの会話を聞いているのか、少し表情が動いたが何を考えているかは読み取れない。
「あの、姫様」
ファルがおずおずと話しかけてきた。思わず全員(魔獣含む)がファルの方を見た。ちょっとびくっとしたファルだが、そのまま話し続ける。
「ナイフを放してみては?なんだかその魔獣、姫様が死ぬのを止めたように見えたのですが・・」
「あ」
そういえばまだナイフの柄を握りこんだままだった。
「いや、大丈夫か?!」
思わずといった調子で、戦士長のクリアト様が声を上げた。たしかに、ここでナイフを放せば私は丸腰だ。魔獣と最も距離が近い私が最も危険な状況だ。だが
「やってみましょう。根拠はないですけれど、たしかにファルの言う通りのように思えます」
わからないことが多すぎて何が正しい判断なのかすらわからない。だが事態が動けばそれに対して新たな動きも取れるだろう。この瞬間にもクゥ・ザイダレングはお父様とお母様が護る西の砦に近づいているのだ。猶予はない。
「全員集中しろ。魔獣が不穏な動きを見せたら一気に蹴りをつける」
クリアト様が静かに、しかしお腹に響くような声で周囲の戦士たち、魔導士たちに声をかけた。私はそっと手指の力を抜いてゆく。手から離れたナイフが床に落ち、硬質な音を立てた。それを顔を動かさず目で追っていた魔獣は、少しホッとした?顔になり、ゆっくりと私の手を放してくれた。
それを見た人間たちもまた、いっきに弛緩した表情になった。この魔獣は明らかに知性がある。そして私たち人間に近しい?価値観を持っているのかもしれない。どういう魔獣か全くわからないが、何をしでかすかわからないということもなさそうだ。