Prologue.. 過労の夜明けから
赤く焼けた空。最後にこれを見てから何ヶ月が経ったのだろうか。久しぶりに夕日の映える時間帯に帰宅できる喜びを噛み締めた。定時上がりできた俺は欠かさず行く場所がある。それはこの、いかにも都会の喧騒にうんざりした人間が通うような寂びれた路地に佇むバーだ。鉄製の綻びかけた扉に準備中の表札がかかっているが、俺は気にせずに軋む扉を開けた。
「遠慮がないね上坂さん。まだ準備中だから掛けて待ってて。」
と店主。俺は一番端っこのカウンター席に腰掛け、古ぼけた店内を見渡した。ここは俺の祖父が銀行員として現役であった頃の融資によって立ち上がったもので、俺が何をしたわけでもないが、幼いころから祖父と共に通っていた俺に何かと融通してくれる気さくな店主が営む古き良きカフェーといった店だ。
「いやぁ今日は久しぶりに定時帰りだったもんでね。おじさんの挽いた珈琲が飲みたくて来ちゃった。」
バーを営んでいる割に、ここの店主の淹れた珈琲は喫茶店を経営した方が人気が出るのではないかというほど美味しい。実は茶道も嗜んでいるらしく、自己の趣には手加減をしないような、謎の多い人物だ。今日ここにやってきたのはただ珈琲が飲みたかったからだけではなく、頼み事があったからだ。
「ねえ、おじさん。俺らのやってるプロジェクトが来週の木曜日に片付くから金曜日は部署全員休みなんだけどさ、その夜にみんなで飲もうって話になったんだよね。そこでさ、ここで祝宴を張ってもいいかな。」
俺は技術系の小さな会社に勤めるシステムエンジニアで、つい昨日までデスマーチに神経をすり減らし、祝宴どころではなかったわけだが、俺より二、三歳ばかり上の若部長が急に
「このプロジェクト終わったらフロアみんなで飲み行こうや! 」
と言い出したのである。それ自体は全く問題ないのだが、その時に一番暇そうにしていた俺に目を付けた部長が、俺に幹事を任せてきたのだ。空いた時間は巣に籠ってゲームをする予定だったのだが、宴の準備やら予算決めやらが面倒で時間を食ってしまう。正直さっさと終わらせたかった俺は、昔から慣れ親しんでおり、少々の融通が利くこの店を会場にしようと試みたわけである。
「はいはい、来週の金曜日の夜ね。ほんとは二週間前には言って欲しかったんだけど、まあどうせ空いてるし、六時以降だったら大丈夫だよ。何席開けとこうか?」
「テーブルを四つかな。人数が変わったらまた連絡するよ。いやぁ、本当に無理を聞いてくれてありがとうございます。」
「金曜の夜、、四席、、だね。はい、承りましたっと。今度からは二週間前に言ってね。」
「ははぁーありがたやありがたや。」
団体の予約も済み、今日の用事がすべて終わった。外を見渡せばすでに日はかなり傾いており、時刻も五時を廻っていた。俺は差し出された芳醇な香りの珈琲を口に含み、のどに流す。ふぅとゆっくり息をしながら空気を鼻に通すとさらに深みのある芳香が感じられる。やはりうまい。十五分ほどかけてゆっくりとおじさんの珈琲を堪能した俺は、会計を済ませた後に軽い足取りで我が巣へと返り咲いた。
新しい朝が来た、希望の朝だ。さあ今日も元気に頑張ろう。昨日は久々に九時間も寝ることができたため体も心も軽い。俺はとりあえず熱いシャワーを浴びて体を暖めた。そして、いつも通りの黒パーカーにジーンズを穿いて、台所に立つ。フライパンにごま油をたらし、IHヒーターを中火に設定した。まずは冷蔵庫に必ずストックしてあるベーコンを温まったフライパンに二枚並べる。耳に心地よい騒音が聞こえてくる。両面に十分に熱が通ったら弱火にし、卵を落とす。ここで食パンを二枚トースターに入れる。フライパンのふたを閉めて二分ほど加熱する。その間にレタスをいい大きさにちぎり、お好みでトマトやチーズを用意する。ちなみに最近のお気に入りはリンゴのスライスだ。これらを焼きあがったトーストで挟めば朝のベーコンエッグサンドの完成だ。あとはインスタントのコンポタをお湯で溶いて、最高に優雅な朝ごはんの完成だ。自宅サーバーの設置されているワーキングデスクに朝食を置いて席に着く。モニターの電源を付け、推し活をしながらサンドを頬張る。サクッとしたトーストの食感。その途端にベーコンの旨味と油がいい具合に寝ぼけた舌にパンチを繰り出す。そして潰れた卵黄が油を溶かし、最高のハーモニーを作り上げる。そして〆にコンポタを一口。トーストに染み込んだコーンの甘みがほんのり伝わってくる。噛めばジュワーっと滲み出てくるコーンポタージュ。モニターを見れば推しがいる。俺が考えうる限り最高の朝食だ。時計を見てもまだ七時半で出勤には時間があるが、今日は早めに巣から出た。いつもの道を歩き、いつもより四十分も早い電車に乗り込んだ。いつもの駅で降り、いつもは行かない珈琲店で珈琲を買った。たまには贅沢で優雅な朝を送るのもいいかもしれないと感じつつ、いつもより三十分早くオフィスに到着した。
「おはようございます。センパイ!今日は早いっスね。てっきり夜遅くまでゲームしてるもんかと思ってました。」
そう声を掛けてきたのは相変わらず早朝出勤の黒野悠梨だった。彼女は高校の頃の陸上部の後輩で何かと趣味が合うため大学で離れてもたまにソシャゲをオールナイトで周回したり、週末に酒を飲んでお互い愚痴をこぼしたりする、所謂腐れ縁のような仲のやつだ。彼女も俺と同じく、開発部に所属しており、少し担当は違うものの、同じプロジェクトを一昨日まで進めていた。そのデスマーチが終わり、かなり余裕があるように見える。
「おはよう。この前部長が言ってた宴会さ、俺一押しのバーでやることにした。日程と場所はサーバーチャットで共有してある。」
はいはいと二つ返事で了解していた。今日の業務内容は主に年末の仕事納めに向けた準備だからうちの部署は特にすることがないのだが、隣の部屋では決算に追われる経理部が慌ただしくキーボードを叩いている。俺も一昨日までは同じ境遇だったのだから極めて同情する。
ちなみにだが、経理部と開発部は同じ(無能な)上層部を抱えることで謎の一体感が生まれており、仲がいいという現象が起きている。プロジェクトの後半で必ずデスマーチに追われるのも上層部のスケジュール管理ががさつなのが主な原因だ。下で働く人材は優秀なのに上層部がお粗末なのだ。
とりあえず俺は席につき、ファイルの整理やら作業デスクの整頓やらをした。そんなこんなで生産性のない時間に給料をもらっていたらいつの間にか時は流れ、現在午後三時。一日のうちで最もやる気が出ない時間帯だ。経理部にいる小学校からの親友にちょっかいをかけがてらお菓子でも差し入れるか、と立ち上がり部署のドアを開けたのだが、それと同時に経理部のドアも開いた。
「あぁ、ヨシィ助けてくれよぅ。。。忙しすぎて死にそうなんだよぅ。。。」
そう声を掛けてきたのは今話に出た親友の桐谷駿だ。そしてヨシというのは俺、義雄のあだ名だ。先に言った通り中学からの親友で、何故か俺の事を慕っている節があるとてもユニークで面白いやつだ。どのくらいユニークかというと、とりあえず彼との会話を聞いて欲しい。
「よう駿ちゃん。おつかれ。今そっちの部署に差し入れ買いに行こうとしてたんだけどさ、お前外でてる暇あんの?」
「いやぁ、そんな暇はないんだよぅ。だけどカフェインがないとねぇ。まじ眠いわぁ。僕進化するのかなぁ。。。」
「いやお前魔物かなんかかよ! 取り敢えず一緒に珈琲でも買いに行こうぜ。」
「うん! 僕何にしようかなぁ。チョコフラッペがいいかなぁ、クッキー&クリームココアも美味しいよねぇ。」
「うん。そうだな。おいしそうだな。(カフェインの話どこいったんだよ。。。)」
といった様子で、天然さが散見、いや、露見される感じのおっとり系キャラだ。みんなからは愛称で駿ちゃんと呼ばれている。取り敢えず彼にも友人枠で宴会場の場所と時間を伝えた。ちなみに、結局彼は飲むヨーグルトを購入していた。最初ジュースだと思って九パーセントカクテルを手に取っていたので必死に止めた。
オフィスに戻った俺は俊ちゃんと共に一応経理部の戸を叩いた。
「失礼します。開発部の上坂です。午後のお菓子を差し入れに来ました。今年のお礼ですのでみんなさんどうか遠慮なくお取りください。」
「おお、ヨシ君。悪いね、気ぃ使わせちゃって。じゃ、遠慮なく頂くよ。」
今のは経理部の部長だ。歳を召しているのに若者よりもコンピューターを巧みに操る敏腕かつ、部下のミスも優しくカバーしてくれるという、理想の上司の権化たるナイスガイだ。俺も将来はこんな人間になりたいと心から思う程にみんなから慕われている。
「あら、ヨシ君じゃない。ホントに気が利くわね。ウチの後輩も見習って欲しいぐらい。」
そう言って経理部の後輩を睨んだお方が俺が無謀にも恋に落ちてしまった小野寺咲先輩だ。僭越ながら説明させていただくと、この方は会社一のキャリアウーマンでかつ美人。周りを見渡す能力に非常に長けており、同僚の異変にはすぐ気づく。そして恐らくこちらが片想いをしていることもバレバレである。まあ所謂、高嶺の花ということだ。
兎に角、差し入れにはみんな気に入って貰えたようだ。忙しい時にお邪魔したら悪いと思ったが、案外すでに作業も締めに差し掛かり、落ち着いているようだった。時刻は既に五時だ。特に追加の作業もオフィスに残る予定もなかった俺は俊ちゃんに連絡をして一緒に少し遊ぼうと誘ったが、まださすがに忙しいらしく、一人で巣に帰った。
こうして十二月のある一日はなんてこと無く終わった。
こんにちは
今回は私の初作品をお読みいただき、ありがとうございます!
私のプロフィールを見ていただけるとわかると思いますが、この作品は本当の初作品ではありません。前作は私の能力不足かつ、ストーリー構成の矛盾発生を理由に打ち切りとしてしまいました。しかし個人的に今自分の頭にあるアイデアは悪くないので、捨ててしまうのはもったいないと思い、小説の執筆方法を勉強し、戻ってきた次第です。
今作は私が満足いくまで何回も推敲し、洗練したストーリー構成となっていますので皆さんに自信をもって公開できます。どうかレビューやお気に入り登録などしていただけると励みになりますのでどうぞよろしくお願い致します!