表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰ソ彼、暮レ六ツ  作者: 黒澤心
2/3

第二章


      二


 部屋に入ってみて、螢はまた一つ疑問に思った。部屋の真ん中に、入口から見て横向きに長テーブルが一脚、それを挟んでパイプ椅子が二脚、あとは何もないのだ。テーブルの向こう、校舎表に面した窓はカーテンが閉められていて、透けた夕陽が差し込んでいる。

 面談にでも使っているのだろうか……しかし、それ用の部屋なら他にある。まるで、空き部屋に用途を持たせようと、無理矢理に繕った感じだった。

「そこに掛けて」

 そう促した彼女は、テーブルを回り込み、窓側で姿勢良く腰掛けた。螢も言われた通り、入口側に腰掛けた。

「すいません、ちょっと冷房が強すぎないですか?」

 螢が言うと、彼女は「そうかしら」とだけ言って、眉一つ動かさなかった。ともかく意思は伝えたので、勝手に空調をいじってやろうと思った螢だったが、どうにも空調機器が見当たらない。ぐるぐる部屋を見回していると、

「――君に聞かせるのは、六つの断片」

 唐突に、前置きが始まった。螢は未だ肌寒さに鳥肌を立てていたが、他人の話を聞かない彼女のことだから、そうも言っていられない。仕方なく、耳を傾ける。

「どう捉え、どう考えるかは、君の自由。聞くのが嫌になったら、途中で帰っても構わないわ」

 やはり彼女は、話を聞かせることに、それほど固執していないように思える。あるいは、そう思わせることが彼女の意図なのかもしれないが、今や部屋まで付いてきてしまっている螢にとっては些細なことでしかない。

「それじゃあ、帰りたくなったら遠慮なく帰りますね。それより、六つの断片・・って、どういう意味ですか? 不思議な話が六つある、ってことですかね?」

 ――彼女は答えなかった。薄ら笑っているような、感情の読めない表情を螢に向けて、黙っている。

(……もしかして、前置きも不思議な話の一部なのだろうか。だとすると、どう捉え、どう考えるかは、僕の自由ということか)

 そう解釈した螢は、今一度、彼女の表情を覗いた。何も言わず、真っ直ぐこちらを見ているのは、やはり、そういうことなのだろう。

「分かりました。じゃあさっそく、聞かせてもらいますかね」

 螢が言うと、彼女は螢の瞳をじっと覗き込んだ。それから、滔々と語り始めた。

「二十年ほど前の話。とある主婦が――」


 二十年ほど前の話。とある主婦が自宅でひとり夕食の支度をしていると、電話がけたたましく鳴った。受話器を取ると、相手は高校生の娘で、どうやら学校の公衆電話からかけてきているらしい。部活を終えて帰ろうとしたところ、自転車のチェーンが切れてしまったので、帰れなくなったのだと言う。ちょうど夫が仕事から帰ってきたので、彼に娘の迎えを頼み、自分は台所に戻った。

 調理をしながら、主婦はあることを考えていた。先の電話中、娘の後ろから、ずっとピアノの音が聞こえていたことだ。人差し指で、鍵を一本一本叩いているような、途切れとぎれの単音である。

 ――ほどなく、夫と娘が帰ってきたので、三人で卓を囲んだ。食事の最中、主婦は話を持ち出した。

「電話していた時、誰かピアノを弾いていなかった?」

 問われた娘は怪訝な顔をすると、こう母に返した。

「何を言っているの、ピアノそっちで鳴っていたじゃない」

 娘が言うには、音は確実に受話器から聞こえていたらしい。それに、音楽室は部活で使用していたので、誰も残っていないことを確認し、施錠も済ませていた。

 そうなると、電話が学校と自宅だけではなく、どこか別の場所とも繋がっていたということになる。いったい、どこと繋がっていたのだろうか。


「――えっと、終わり、ですか?」

「ええ、終わり」

 螢はガッカリした。なぜなら不思議な話というのが、ただの怪異譚、もとい無価値なオカルト話だったからだ。こんなものを六つも聞かされるとなると、気が重くなる。

「……すいません、いきなりこんなこと言うと野暮ってもんかもしれませんがね、それは単に、電話が混線していただけじゃないんですか? どこかの保留音が入り混じっただけとか、そんなことだと思うんですが」

「そうかもしれないわね」

 投げやりというか、無責任というか、そんな返答だ。ミステリアスな彼女の話だと思って多少は期待していたのに、とんだ裏切りに遭った気分になって、螢は急にバカバカしくなった。どうにも彼女の素性の前に、底が知れてしまったようだ。

「はぁ……。じゃあ次の話、お願いします」

「あら、もういいの?」

 もういいもなにも、本当は今すぐ帰りたい。興が削がれてしまったし、彼女の素性なんてのも、どうでもよくなっていた。しかし、やはり人情が働くもので、『あなたの話はつまらない』と批判を浴びせるも同様に、早くも帰ってしまうのは心苦しかったりする。もはや彼女のくだらない話に、最後まで付き合う他ないのだ。

 螢は再度、次を促そうとした――が、ふと一考し、言葉を飲み込んだ。

 彼女の言っていたことを改めて思い出す。先程の話が事実であれ、架空であれ、考察の裁量は全て螢に一任されている。つまり、無価値な話だと切って捨てるのもありだし、あるいは何かしらの、隠された真の部分に思いを巡らせることもまた、ありなのだ。

(何かを見落としているのだろうか。ただの怪異譚でなく、別の本質があるとすれば、それは何だろう。ピアノ、公衆電話――いや、現象に着目するのなら、混線・・という部分にこそヒントがあるような気がするが……)

 ――長考していた螢だったが、結局、何も分からなかった。もとより、彼女は意味深に言ってみせただけで、はなから裏の意味など無いのかもしれないが……。

 次の話を聞かなくてはならない――そんな強迫観念が、螢の胸中に蠢いた。

「二つ目、聞かせてください」

 螢が言うと、彼女は表情を変えないまま、「ふふふ」と音だけを鳴らした。それから、再び語り始めた――。


 昭和後期。とある石工のもとに依頼が届いた。内容は、羊飼いの少女の石像を作って欲しい、というものである。

 制作に先立ち、石工は得意先の石材屋から、自身の身の丈以上もある巨石を仕入れた。この巨石だが、妙な光沢と湿り気を帯びていて、以前に仕入れていたものと比べると、どこか異様に感じられる。しかし上質ではあるし、おそらく石材屋が採掘場を変えたのだろうと思い、それほど気にはしなかった。

 石を彫り始めてからしばらく、おおまかな形が浮き出してきた頃、奇妙な事が起こり始めた。毎日、夕方になると、空は晴れているのに、作業場をしとしと雨音が包むのだ。

 最初は気味悪く思った石工だったが、終業して作業場を出てしまえば、雨音は聞こえなくなる。それに、これといって実害があるわけでもない。不可解ではあるが、そういうものだと思えば次第に慣れてきて、いつしか気にならなくなった。

 制作は順調に進み、いよいよ納品となった。昼過ぎに数人の業者が引取りに現れ、石像を持って去っていった。その日の夕方、雨音は聞こえなかった。

 翌朝、業者が再び石工を訪ねてきた。どうも浮かない顔をしている。

 何の要件かと問えば、展示用の石像を一つ、譲って欲しいと言う。理由を聞いてみたところ、先日、石像を設置しようとしたら、突然に豪雨が、音だけ降ってきたらしい。驚いた拍子に作業員が手を滑らせ、壊してしまった。そこで急遽、代わりになるものを探しているのだと言う。

 それとなく察した石工は、適当なものを選ばせ、譲ることにした。

 ここで、どうしても聞いておきたいことがある。それは、壊れた石像をどうしたのか、ということだ。

 石工が尋ねると、どうやら業者の男たちが勤める会社は、石像の設置とは別件で井戸の埋め立てを依頼されているらしく、流し込むための土砂に混ぜてしまったと言う。石工はやめさせようと、その土砂はどこかの山にでも埋めるべきだと意見したが、業者は会社の指示だからと言って聞かなかった。

 今もどこかで、雨音が降っているのかもしれない。


「――一つ目の話とは、少し毛色が違いますね」

 螢が言っても、反応はなかった。彼女は今しがたまで一人語りをしていたのに、どうにも饒舌なのか、寡黙なのか、よく分からない人だ。

 ともかく、螢は考察を始めた。ヒントが無いので、ひとまず着目する点を絞る必要がある。怪異譚であるなら、やはり現象が最重要かと思われた。

(夕方に雨音が降る、か。無害となると、何かのメッセージなのかもしれない。『彫らないでくれ』ってことなのだろうか? ――いや、これだと設置される時に豪雨が降った説明にならない。ならば在り処の問題か……んん、これもしっくりこないな……)

 明確な答えが見つからない。しかし一つ、螢の中に印象付いたものがある。それは <夕方> と <雨音> という現象に対するありきたりな感情。そこはかとない|寂しさ、だった。

「次の話、お願いします」

 螢は、いつになく真剣になって求めた。少し間を置いて、彼女が口を開く――。


 昭和中期。とある時計技師の男が、職場の近隣にある学校から、木造校舎の最上部に設置されている大時計の修理依頼を受けた。何度調整しても、すぐに時間がずれてしまうらしい。

 時計の裏側の部屋で機構部を調査してみると、その一部、二枚ひと組で噛み合っている大小の歯車のうち、小さい方だけが不自然に錆びていた。他の歯車には、特に異常は見られない。

 解体して磨いてみると、錆は内部まで侵食していなかったので、清掃して油を塗り、修理を終えた。

 ――翌日、技師は学校からの連絡により、再び機構部を調査することになる。

 診てみれば、昨日磨いたばかりの歯車が、まるで数十年も放置していたかのように錆びてしまっていた。

 原因が分からないので、ひとまず昨日と同様に解体を試みたが、今度は二枚の歯車が癒着してびくともしない。おかしい、自分が修理のためにこの時計を止めるまで、二枚はきちんと回っていたはずなのだが……。

 工具を使い、引き剥がす方法をひとしきり試していたが、上手くいかない。そうこうしていると、学校に到着した時間が遅かったこともあって、すっかり夕方になってしまった。

 気が急いた技師は、二枚を力任せに引っ張った。すると、歯車が細かに振動して、金切り声のような鋭い音が室内に響き渡った。驚いた技師が放り出すと、鈍い音を立てて床に落ちた歯車は分離し、小さい方は真っ二つに割れてしまった。

 技師はその出来事を学校側に伏せ、単なる修理中の破損として報告した。そして数日後、新しい歯車を用意すると、手早く、入念に取り付け、逃げるように学校を去った。

 それから何度か、技師は学校から連絡を受けた。内容は、機構部のある部屋から甲高い金属音が聞こえる、というものだった。しかし、再び足を向けることを嫌がった技師は、時間のずれが治っていることを重ね重ね聞き返し、呼び付けを頑なに跳ね除けた。

 しばらくして、学校からの連絡は無くなった。


(離れない歯車……。甲高い金属音ってのは、まるで〝悲鳴〟みたいだな…………)

 彼女が『金切り声』と話したように、螢は、不安を助長するような叫び声を想像して、身震いした。

 歯車といえば、人間関係の比喩表現として使われたりもする。一枚だけが錆びてしまうことや、癒着したことが意味するのは何だろうか。

(――ちょっと待て。彼女は前置きで〝断片〟と言った。これはつまり、一つひとつの話を個別に考えるのではなく、全て繋げて考えろ、ってことじゃないのか……?)

 顎に右手を当てて俯いていた螢は、対面を窺うように顔を上げた。彼女は(じろ)ぎ一つせず、じっとこちらを見ている。

 螢がコクりと頷くと、彼女は次を語り始めた――。


 明治時代。西洋文化が広く浸透し始め、それは絵画の世界でも同様だった。

 とある洋画家にまつわる話。彼の知名度は非常に高く、その絵は淡く繊細な色調が特質とされ、ひとたび作品が市場に出回れば、即座に高額で取引きされるほどの人気を博している。しかし、彼の遺作を知る者は少ない。

 彼は晩年、ただ一つの作品を完成させるために心血を注いでいた。幾歳月を費やし、ようやく描き終えたのだが、それでも彼は「まだ足りぬ」と呟き、筆を置いてもなお自作を凝視していた。食事も摂らず、日に日に痩せ細っていく彼を心配した家族が何度も声をかけたが、終いに彼はアトリエを内側から閉ざし、作品をどこかに隠してしまった。次にアトリエが開かれたのは、彼が遺体となってしばらくしてからのことである。

 ――それから十年以上の時が流れた。父の作品を全て売り払い、放蕩を続けていた洋画家の息子は多額の借金に苦しんでいた。そんなある日、アトリエの奥で、床下に隠された一枚の絵画を見つける。それは自身が幼少のみぎり、父がどこかに隠して以来失くなったと思っていた遺作だった。これを売り払えば金ができる――そう考えた息子は、早速その絵画を布で包むと、よく取引きに利用していた画廊を訪れた。

 しかし、買取りは拒否されてしまう。それどころか画商は、まるで贋作を持ち込んだペテン師を問い詰めるような口ぶりで、すぐにでも追い出そうとするのだ。

「これはお父上が描かれたものではありません。なぜならあの方は、この様に濃淡のない色を用いられなかったし、粗野に塗り付けるようなこともなさらなかった。どれを取っても、何一つ前例も無ければ、見い出せる彼の特徴が無いのです」

 洋画家の息子は酷く腹を立て、轟々と画商を罵った。まさしく自分こそ、その絵が紛れもなく父の作品であることの生き証人なのだ。

 まくし立てられた画商はついに折れ、手切れ金として札束を渡し、絵を買い取った。

 その数日後、画商は偶発的な水難事故でこの世を去った。絵は次の者、某名家の当主の手に渡ったが、その当主もまたほどなく、野山へ散策に出掛けた先で、猟師の放った流れ弾を受けこの世を去った。

 絵は持ち主を転々とする。祟りがあるとの噂もあったが、持ち主が必ずしも不運に見舞われたわけではない。突如として富や名声を手にした者もいれば、戦時中に最前線へ送られ、部隊でただ一人生き残った者もいた。

 不運に見舞われた者、あるいは幸運を手にした者――両者ともに、似通った現象を目にしたという。命運を分ける数日前、「夕刻に、絵が変容した」と言うのだ。一方は「枯れた」といい、一方は「咲いた」という。

 描かれているのは白い花瓶。そしてそれに生けられた、鮮烈な紅の花弁を着飾る、薔薇の蕾である。

 今日に至って、絵の行方は知れない。


 ――いよいよ四つ目、後半に差し掛かったわけだが、何の断片なのかさっぱりだ。さっさと六つ全てを聞き出した方がいいのかもしれないが、やはり個々の話は、何か含むところがあるようにも思える。とりあえず考察は続けよう。

 洋画家は、絵に何か(・・)を込めたのだ。咲くか、枯れるか……。花には水を与えなくてはならない。ならば持ち主の命運を分けた要因は、彼ら個人にあったのではなかろうか。

(もし僕が絵の持ち主になったとしたら、枯らしてしまいそうだな……)

 昔から読書を初めとして、興味の偏りが顕著だったので、今になって思えば、色々と失くしたものが多かった気がするし、後ろめたい過去も少なくはない。

 螢は幼い頃、縁日の屋台で掬ってきた金魚をバケツに放置して、数日で死なせてしまったことを思い出した。飼育方法を間違ったのではなく、ぞんざいに扱った結果、死なせてしまったのだ。

 ――いや、こんな話、今は無関係だ。それに、あまり感傷に浸りすぎると、彼女に心うちを悟られるかもしれない。

「……そういえば、美術室にも薔薇の絵がありましたね。もしかして、あれだったりして」

 ごまかしで、適当に思い付いたことを言ってみた。しかし彼女は、「そうかもしれないわね」と、機械じみた定型文を吐いただけだった。

「……次、お願いします」

 螢が促し、彼女が語り出すまで、数秒の沈黙が降りる。

 まるで全てが死に絶えてしまったような無音。

 狭い室内が、セピア色に浮かんでいる――。


 第一次世界大戦の終結からほどなく、とある若い男が鉄工所を起こした。経営は波に乗り、富を手にした彼は、誰もが羨む生活を送っていた。

 朝は悠々と出勤し、やり甲斐のある仕事に没頭する。仕事を終えて自宅に帰れば、美しい妻が夕食を準備して待っている。充足した毎日だったが、一つ、気がかりなことがあった。それは、日に日に妻が陰気になっていくことだった。

 ある日、男は妻に理由を尋ねた。すると妻は、自分の部屋にある姿見がおかしい、と言う。それは人間が三人ほども並んで入れる大きなもので、男からの贈り物だった。

 ――翌日、男は仕事を終えると、真っ直ぐ自宅へ帰った。

 妻の部屋に入るなり急かされ、慌てて姿見を覗き込んだ。そこには自分たち二人と、部屋の風景が映っている。

「別に変なところなんて……」と言いかけて、鏡に映る壁掛け時計が目に入った。その針は回転の方向すら定めず、異様な速度で、でたらめに動いていた。実物は正確に時を刻んでいる。

 妻に聞けば、いつも夕方になるとこうなるらしい。男は気味が悪いので捨ててしまおうと言ったが、妻は大切なものだからと、手放そうとはしなかった。

 ――それから数日後。仕事を終えた男が自宅に帰ると、いつも出迎えてくれる妻が顔を見せない。部屋に行ってみるも、そこにも姿はない。

 警察に届け出たが、妻の行方が知れることはなかった。まるで、突如としてこの世界から消えてしまったかのように……。

 それから毎日、夕方になると男は姿見の前に立った。しかし、再び妻に会うことはなかった。


(これまでの話って、全部、夕方に関することじゃなかっただろうか……)

 夕方は、 <逢魔が時> とも言う。日が落ちるにつれ、明るみに姿を現さなかったものたちが、いよいよ活動を始める時間。まさに、魔に出逢う時、というわけだ。

 今の時刻に合わせたコンセプトなのだろうか。あるいはそうでなく、彼女が自身の存在を奇怪に醸し出し、恐怖心を煽るための仕掛けなのだとしたら、至極、下らないな――と螢は鼻で笑った。

 本題に戻る。

 順当に考えれば、妻は鏡の中に迷い込んでしまったのだろう。鏡が異世界と繋がっているという話は多い。

 しかし何か、もっと捻った答えがありそうな気がする。

 鏡というと、 <他人は自分を映す鏡> という言葉を思い出した。他にも考えれば、螢の瞳には彼女の姿が映っているわけで、なにも世界を映し出すのは、鏡ばかりではないのだ。

(僕の瞳に映っているのは、ただただ面妖な女だ。じゃあ彼女の瞳に、僕はどう映っているのだろうか……)

 そんなことを考えて、螢は、脱線してしまった、と首を左右に振った。

 そういえば、中央階段に古ぼけた姿見が設置してある。年季の入った焦げ茶の木枠にはまっているのだが、そこに寄贈品・・・と彫ってあったような……。

 答えに近付いている、予感。

「次が最後ですね。聞かせてください」

 螢はようやく、地べたを踏みしめたように感じた。しかし、螢の力強い眼差しを受けても、彼女は一切の温もりも感じさせない表情で、淡々と語る――。


 大正時代初期。とある町で学校建設事業が立ち上がり、建設地として小高い山が選ばれた。中腹を切り開き、広々とした更地が出来上がった頃の話である。

 正午の休憩時間、現場監督のもとに一人の作業員が訪れ、「見てほしいものがある」と言う。監督が付いて行くと、作業員は更地の隅の方、重機で掘った大穴の前に立ち、中を指さした。

 覗き込んでみれば、異様に太い樹木の根が剥き出しになり、穴の中を壁から壁へ、真っ直ぐに貫いている。根の表皮は重機によって傷付き、酷く抉れていた。その穴から十メートルほど離れた木立に、一際立派な銀杏の大木がそびえ立っている。

 いくら巨大だからといって、ここまで根を伸ばしているわけはない。しかし、不気味だ。除去の指示を躊躇った監督は、ひとまず全体を掘り返すように伝えた。

 ――作業開始から数時間。夕刻になって、大穴は長い溝になっていた。その中には、銀杏の大木に向かって伸びている、巨大な根……。

 監督は恐ろしくなり、この場から逃げ出したい気持ちに駆られた。周囲にいた作業員たちも同様で、口々に不吉なことを呟いては、早くこの場を後にしようと必死だった。

 夕日が血のように紅い。作業員の一人が叫んだ。目線を追うと、抉れた根の断面から赤黒い液体が流れ出し、溝の底に水溜りを作っていた。

 また別の作業員が叫ぶ。今度は彼の足下で――いや、その場にいる全員の足下で、影が人型の黒い靄となって立ち上がり、山の麓に向かってゆっくりと去っていくのだ。

 監督は大声で、ありったけの布をかき集めるように指示を出した。作業員たちも懸命に従い、血を流す根に、集めた布を幾重にも巻きつけた。それから全員で頭を垂れ、銀杏に向かって命乞いを繰り返した。

 すると、いつしか夕焼けは見慣れた色へと変わり、影もまた、作業員たちのもとに戻っていた。


「――やっぱり、そうなんですね」

 螢は確信した。目の前にいる女の、能面が張り付いているような無表情は、今や『なんのことかしら』と、しらを切っているようにしか見えない。

「もう分かったんですよ。あなたは、この学校のことについて話していたんだ」

 全ては、この答えを導き出すためのパーツに過ぎなかったのだ――いや、本当の答えは、また一つ先にある。

「まだ終わりませんよ、僕を見くびらないでください。あなたは最初に、〝六つの断片〟と言った。学校に怪異譚ときたら、それはつまり〝七不思議〟です。今までの話は、その断片だったんだ。違いますか?」

 螢は得意げに言い放った。まさに、彼女の挑戦に打ち勝った気でいた。

「ふふふ」と、この時初めて、彼女はぐにゃりと口端を歪ませ、表情を変えた。

(看破されたくせに、それでも僕を手玉に取っているような態度をしやがる。やれやれ、往生際の悪い女だ)

「もちろん看破したんだから、さっきの話が最後、なんて言いませんよね。ほら、早く七つ目を語ってくださいよ」

「聞きたいの?」

「なにを今更……。あなたが僕を試したんじゃないですか。当然、聞くに決まってる」

「それじゃあ、聞かせてあげる」

「まったく、回りくどいやり方をしますね。最初から素直に――」

「とある学校での話。少年の日課は、放課後の図書室で読書をすることだった。ある日、いつものように読書に耽っていたところ、ふと廊下で物音がした。図書室を出てみると、誰もいない廊下で、ビー玉が転がっている」

 胃に氷を流し込まれた。それは語られるべきでない話で、語られてはいけない話だ。螢は決して、そんなものを望んではいない。

「少年は追いかけた。ビー玉は下駄箱を通り過ぎ、玄関口でようやく止まった」

 ――静寂。

「……そ、それから……どう、なったんですか…………?」

 ゴクリと、生唾を飲み込む。

 彼女は語りを留め、螢を真っ直ぐに見つめているだけだ。今しがたまで妖気を揺蕩わせていたその瞳が、虚空を閉じ込めたピンホールレンズのように、どこまでも冷たく……。


 ――ひらり、と、カーテンが揺れた。窓は閉め切られているはずなのに、ひらり、と。


 心臓が痙攣して、慄えが全身に伝わった。脳に錆色の思考が満ちる。

 ――するとまた、カーテンが揺れた。まるで、『見ろ』と言わんばかりに。

 螢は音の全てを殺すように、ゆっくりと席を立った。

 過剰なまでに距離を取ってテーブルを回り込んだが、彼女は電源を落とした機械のように動かない。螢に対して、首を振り向けることもない。

 カーテンに触れられる所まできて、螢は意を決し、彼女を背後に置いた。小刻みに震える右の指先でカーテンをつまむと、数センチの隙間を作り、外を覗き見た。


 ――夕焼けに沈む屋外。正面には、何者の姿もない。少し隙間を広げ、右を見て、左を見て……こみ上げる悲鳴を、喉元で無理矢理に押し止めた。


 下駄箱前の石畳。ビー玉が止まった場所に、ソレ《・・》は居た。

 人型をした、黒い靄。目玉なんて無いのに、こっちを見ていると、はっきり分かる。


 たかだか二部屋分の距離が、螢の発狂をかろうじて抑えていた。この均衡が崩れた時、螢は自分がどうなってしまうのか知らない。

「あ……あれは、何ですか…………?」

 痙攣する横隔膜を強引に動かして、背後に問う。彼女は正体を知っている――しかし、返答はない。

「……き、聞いてるんですよ……あれは――」

 螢の心臓が殊更に脈動し、硬直した筋肉が声帯を詰まらせた。

 背後の女が何者か、螢は憶測で決めつけていただけだ。真っ先に知るべきは、靄の正体ではなかった。

 戦慄の方向が、すぐ後ろの存在に変わる。

 石臼のように重い首を回し、彼女が視界に入る前で、直視することを躊躇った。

 そして一気に振り返った時、螢はついに悲鳴を上げた。


 ――椅子に腰掛た彼女。見開かれた死人の双眸。狂気に歪んだ本物の笑み。

 螢は彼女の顔と背中を、同時に見ていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ