第一章
一
担任教師のホームルームがぐだぐだと長いものだから、樋上螢は少しいらだっていた。これから放課後読書に耽るべく意気込んでいたのに、とんだ邪魔が入ったものだ。読みかけの小説のことを思うと、先の展開が気になりすぎて、担任に呪詛を飛ばしたくなってくる。
かれこれ十五分ほど経って、ようやく担任も気が済んだらしい。解放されたクラスメイトが談笑を始める中、螢はいつものように、図書室へ向かうべく廊下に足を踏み出した。
冷房の効いた教室から出ると、ジメジメとした暖気がむっと体にまとわりついて、少しだけ不快感に苛まれた。季節を感じるのは好きだが、蒸し暑さだけはどうにも苦手だ。
九月に入り、暦の上では秋となっても、未だ夏の余韻が色濃い。三階廊下の窓から校舎裏を見れば、雑木林は緑の一色で、その上空にはわた雲が浮かんでいる。もうしばらくは太陽も沈まない。
まだまだ蒸し暑い日が続きそうだ。すれ違う同級生たちが、口々に「あちぃ~」と言い合っている。彼らにとっては忌まわしい気候なのだろう。
しかし螢にとっては、これも季節の一部に違いないので、苦手であっても嫌いではなかった。加えて、この時期は日が長いから、最終下校時間が繰り下げになる。つまり書物の海、もとい図書室で悠々と読書に耽ることができるのだ。だから蒸し暑さとか、ついでに担任の無駄話なんかも、もはや些細なことでしかない。
軽い足取りで階段を下り、二階廊下を歩いていると、
「あっ、先輩!」
背後から聞き慣れた呼び声が届いた。螢が振り返るより速く、声の主はトコトコ走り寄ってきて、螢の隣りで足並みを揃えた。後輩の彩香だ。
螢が何か言うより先に、彩香が口を開いた。
「先輩がどこに向かっているのか当てますね。ずばり、図書室!」
「正解――って、分かりきったことを。とんだ茶番だ」
「………………」
彩香はむすっとした――と思ったら今度はニヤついて、数本の鍵束をチャラチャラと螢に見せびらかした。そして、わざとらしく言った。
「あぁ、なんだか私、具合悪くなってきたかも。帰っちゃおうかなぁ~」
「…………」
彼女が冗談で言っているのは明白なのだが、それでも螢を困らせるには十分な一言だった。なんせ彼女が見せびらかした鍵というのが、図書室の鍵だったからだ。
「……君、それは卑怯というものじゃないのかい?」
「ん、何がですか?」
「……分かったよ、僕が悪かった。謝るから図書室は開けてくれ」
「あっ、なんだか具合が良くなってきました。今日も絶好調です!」
茶番というなら、今のやり取りの全部が茶番だ。しかし、それを言うと面倒なことになるので、螢は出かかった言葉を飲み込んだ。
「そういえば先輩って、休日は何してるんですか? 放課後はいっつも図書室ですけど、まさか土日は図書館、だったりして?」
「毎週ってわけじゃないけど、図書館にはよく通ってるよ。静かだし、空調も効いてるし、何より本に囲まれるってのがいい」
「……買い物とか、遊びに行ったりしないんですか?」
「そりゃあ、たまには行くさ。本屋に行ったり、家具屋で本棚を見たり。それ以外だと、やっぱり読書はコーヒーとセットだから、近所の喫茶店で豆を――」
「――結局、本ばっかりじゃないですか! そんなの不健康です、大問題です!!」
いきなり食って掛かられたので、螢は面食らった。確かに本関係のことばかりだったかもしれないが、別に非難されるようなことでもなかったはずだ。
いや、それはともかく……、
「彩香、少し声が大きすぎるんじゃないのかい? みんなに見られてるんだけど」
「うっ……」
図書室を前にして、螢たちは、付近にいた数名の生徒の視線を一身に浴びていた。
二年生の教室は三階、三年生の教室は四階にある。そしてここは二階だ。つまるところ、こちらを見ている生徒たちは、彩香の同級生ということだ。
螢はさして恥ずかしくもなかったが、彩香は少し赤くなっていた。
「とりあえず、中に入ろう」
「……はい…………」
ちっこい彩香が鍵を回す。ただでさえちっこいのだから、これ以上は縮まないだろう。
――ガラガラと戸を開けた。誰もいない室内から、廊下よりも暑く湿った空気が流れ出て、むわっと顔を撫でた。しかし同時に、どこか懐かしいような紙の香りが鼻腔をくすぐり、それは螢を不快感と対極の方向へ誘った。
入ってすぐ左手に受付カウンターがあって、右奥には書棚が並ぶ。そして中央に、四人がけのテーブルが数脚。
気分が高まると、ついつい <書物の海> なんて大げさな表現をしてしまうが、図書館と比べれば、せいぜい <本の溜池> くらいか。しかし、それでも十分だ。
螢がテーブルを独占したのと同じくして、彩香はカウンターの裏に回り込み、冷房のスイッチを入れた。それから、先ほどの羞恥を早く忘れてしまいたいのか、あくせく働き始めた。
この高校に司書教諭はいない。したがって、図書委員は通常の作業と合わせ、司書業務の代行も担っている。昨年度までは委員の全員で分担して当たっていたようだが、今は彩香が、ほとんど一人でやっている。いや、彼女曰く、やらされているらしい。
なんでも、前々から司書という職業に興味を持っていた彩香が、入学早々に色々と買って出たのが事の発端と聞く。それを皮切りに、他の委員たちは、自分らの仕事まで次々と彼女に押し付けたのだそうだ。まさに『いいカモが来たぞ!』ってな具合だったのだろう。
「――先輩、読書しないんですか?」
「いや、もう少し冷えるまで待ってようかなと思ってね。まだ蒸し暑くて集中できないからさ」
「それなら冷えるまで、私の仕事、手伝ってくれてもいいんですよ?」
失敗した、と螢は思った。どうやら面倒な話題に触れてしまったようだ。
彩香と毎日のように顔を合わせるようになって、もう半年くらい経つ。彼女が不本意な多忙に晒されていることは螢も理解しているし、不憫にも思っている――が、だからといって面倒な仕事を手伝う気にはなれない。そもそも螢は保健委員だし、なにより読書を阻害されるようなことは、なんとしてでも避けたかった。
「手が足りないんなら、そう委員の連中に言うべきだと思うよ」
「無理ですよ、いまさら。文句言われるに決まってます」
「じゃあ差し当たって、次の司書が来るまで頑張るしかないね」
「来ればいいんですけどね……。詳しくは知らないんですけど、文部科学省の規定がどうとかで、学級数が少ない学校には、司書を置かなくてもいいってことになってるみたいなんですよ」
「へえ、そんなのがあるのか。なら君は、少子化の被害者ってわけだ」
「なんですか、それ……? まったく、他人事だと思って! もういい、今日の仕事はおしまいです! こんなのやってられるかっ!!」
ついに不貞腐れてしまった。しかしまあ、面倒を回避できたから良しとしよう。
――しばしの沈黙が降りる。
図書室とは、外界と雰囲気を異にする静の空間だ。それを肌身で感じ、螢はまた一つ気分を高めたが、外で部活動に励む学友たちの声が小さく耳に入ると、少し煩わしく思った。
しかめっ面の螢を見て、彩香が言った。
「先輩、どうかしましたか?」
「……図書室ってさ、完全防音にできないのかな?」
カウンターの向こうで、彩香は首を傾げた。やがて螢の言う意味に気が付くと、今度は彼女がしかめっ面になった。
「学校はみんなのものです。そんな身勝手なこと言ったらダメですよ」
「いやいや、冗談だよ。そんなことは分かってるって」
「ホントですか? それに、防音なんかにしちゃったら、先輩が大好きなヒグラシの鳴き声も、聞こえなくなっちゃいますよ?」
「うぅむ、たしかにそれは困るかもね」
学校は、小高い山の中腹にある。横長の敷地の半分が運動場で、あとは校舎や併設の建物が占めている。図書室から窓の外を見れば、目の前が運動場だ。
この立地は螢にとって不満の一つだが、運動部の掛け声も読書に没入してしまえば遠くなる。やがて集中力が途切れる頃になると、今度はヒグラシの声が耳に入って、しみじみ下校の準備に移るのだ。こうやってあたかも自然と調和しているような毎日を、螢はどこか文学的に感じて自己満足に浸ったりしている。
「つくづく思いますけど、先輩って、変人ですよね」
「そんなことはない、ただ自然が好きなだけだ。それに、君だって今日の体育の授業中に、運動場の隅っこにある銀杏の大木をしげしげ眺めていたじゃないか。先生にずいぶんと怒られていたみたいだけど」
「えっ、なんで知ってるんですか?」
「屋上でサボっていたから」
「不真面目だなぁ……。でも、よくそんな遠くから私って分かりましたね!」
「分かるさ。だって君は誰よりも、すこぶる小さいからね」
なんだか目を輝かせていた彩香だったが、螢が言い終わると、ガクッと肩を落とした。
「……先輩、デリカシーって言葉を知っていますか? ともかく、変人と一緒にされちゃ困ります。私は霊媒体質なので、霊力の強い存在には、ついつい引き寄せられちゃうだけなのです。自然環境には、たいして興味ありません――あっ!」
彩香の何か思い出したような素振りに、螢は、また失敗した、と直感した。
「そういえば昨日ですね、事務室を整理してたら、面白い冊子を見つけたんですよ。この学校の七不思議について書いてあるんですけど、興味深い内容だったんで、読んでみませんか?」
やっぱり、オカルトの話題が出てきた。
螢ほどではないが、彩香も読書家だ。彼女が好む恋愛や感動系に、螢はまったくもって興味がない。特に彼女が本命ジャンルとするオカルトには、何の価値も見い出せない。UFOとか幽霊とか河童とか言われても困る。七不思議だって、それらとたいして変わらない。
オカルト本を読まされることもまた、避けるべき面倒事だ。どうやって断ろうか、と考えていた螢だったが、運の良いことに、助け舟がやってきた。
戸のガラス越しに、ひょこひょこと女の子が顔を覗かせている。どこかで見た顔だと思ったら、さっき彩香が廊下で大声を出した時に、こちらを見ていた子だ。
「彩香、来客みたいだよ。君の友達じゃないのかい?」
螢が言った途端、彩香はバタバタと戸まで走って、乱暴に開け放った。なぜか知らないが、女の子は『バレたッ!?』とばかりに苦笑いを浮かべている。
「……何してんの?」
彩香が問いただすように言うと、女の子は「あはは」とごまかしてから、コソコソと耳打ちを始めた。
――みるみる彩香の顔が真っ赤になっていく。しまいに彼女は、また大声を出した。
「余計なお世話だよ! 帰れ、早く帰れぇええ!!」
女の子は目を見開いて、一目散に去っていった。
ピシャリと戸を閉めやって、俯き加減の彩香が戻ってくる。なんとなく、話しかけづらい。
「……あ、彩香。今のは、なんだったの……?」
「べ、別に、なんでもないです…………」
そんなわけがない。しかし、あまり詮索するのは野暮ってものだ。
――図書室は、いい感じに冷えてきている。会話も途絶えたことなので、螢は鞄から本を取り出した。
「さて、僕はそろそろ読書に耽るとするよ」
「あっ……あのぅ…………」
「ん、なんだい?」
「……あまり読書ばかりするのは、やっぱり、不健康だと思います……」
何を言うのかと思いきや、また妙な話題を掘り返してきた。どういう意図だろうか。
螢が首を傾げていると、彼女は十秒ほど経ってから、ようやく続きを話しだした。
「で、ですので、たまには本から離れてみても、いいんじゃないかなぁ……なんて…………」
「……でも、読書以外の趣味なんてないし、それこそ退屈で死んでしまうよ」
「えっと、偶然ですよ! ホントに偶然にも、遊園地のチケットが二枚手に入りまして……。今週末にでも、一緒に、行きませんか……?」
「んん……。予定はないんだけど、遊園地に本は無いからなぁ」
「………………」
彩香の瞳が潤んだ……ように見えた。
「……分かりました、今の話は忘れてください。私、事務室にいますから、用があったら遠慮なくどうぞ」
そう言うと、彩香はいつもの笑顔に戻って、事務室に入っていった。
ポツンと、図書室に取り残される。
彼女なりに、健康を気遣ってくれているのだろうか。そう考えると、せっかくの気遣いを無下にしてしまったことになる。
(……とりあえず、後で謝っておこう)
そんな風に気持ちを切り替えた螢は、読書に没頭すべく視線を落とした。ペラリと表紙を捲ると、途端に高揚感が胸を貫いて、文字列となった未知の世界に潜行する至福の感覚が訪れる。脳内で再現された仮想空間は、螢の五感を徐々に吸い込んでいった……。
――揺らぎ燃える太陽が、校舎を茜色に染め上げている。
コトリ、と廊下で物音がした。顔を上げた螢は、窓から差し込む陽の色を見て、読書を始めてから優に一時間以上は経っているのだと思い至った。最終下校もあるし、時計を確認しようと思ったが、丸い壁掛け時計は電池が切れているのか、六時前を指して止まっている。ポケットから携帯電話を取り出してみるも、なぜだか電源が入らない。
静寂が支配している……。はて、運動部の声も、ヒグラシの鳴き声も、何も聞こえない。螢がテーブルに本を置いて立ち上がった時、床を蹴った椅子の音がやけに響いた。
「彩香、ちょっと出てきてくれないか。 ――彩香?」
事務室に向かって声を張ってみたが、返事はなかった。居眠りでもしているのだろうか。事務室は図書委員と教師以外は立ち入り禁止だし、勝手に入ると怒られそうなので、螢は呼び出すのを諦めた。
そうすると気になり始める。先程の、コトリ、という物音。
無人の廊下に出る――と、校舎中央の階段付近で、小さな球体がキラキラと、夕陽を反射しながら転がっているのが見えた。それは壁にぶつかって方向を変え、階下に消えていった。
追いかけて、それがビー玉だと分かった。踊り場の壁に張り付いた古めかしい姿見の前を通り過ぎて、また階段を下り始める。床が微妙に歪んでいるのか、止まる気配がない。
ほどなく一階まで下りきったビー玉は、真正面にある下駄箱の間を抜けると、夕陽を浴びる石畳の上でようやく停止した。
――螢は土間に足を踏み入れず、下駄箱の間から、じっと見ていた。
あれは誰が持ち込んだのか。なぜ持ち主は取りに来ないのか。いや、持ち主だけじゃない、ここに来るまで誰の姿も、声すらもなかった……。
自分とビー玉以外の存在を感じることができない。
もしかすると、どこか得体の知れない場所に、自分だけが隔離されてしまったのだろうか――などと考え、螢は自嘲気味に笑うと、背にうっすら浮き出した冷や汗を、単に暑いから出ただけだ、とごまかした。
立ち止まってから、幾許かの空白――、
「――ねえ、君」
急な声に、螢はビクリと体を震わせた。反射的に振り返ると、自分から三メートルほど距離を開けて、制服を着た、膝まである漆黒の長髪が印象的な女生徒が、階段を背にして立っていた。
知らない顔だ。
「ねえ君、不思議な話、興味ない?」
彼女の口ぶりに、螢は、いつぞやか面識があっただろうか、と思ったが、いくら記憶を探れど彼女の姿は出て来なかった。
「すいません、どなたですか?」
「さあ、どなたでしょう」
淡々と、からかう様に言われ、螢は訝って、それから腹立たしく思った。
黙秘するのなら暴くまでだ、と躍起になった螢は、ひとまず学年を確かめようと思ったが、彼女は学年章を付けていなければ、あまつさえ上履きすらも履いておらず、黒のソックスで床を踏んでいる。どうりで足音がしないはずだ、なんて考えていたら、今度は嫌な予感が湧いてきたので、それはできるだけ考えないことにした。
冷静に推測する。まず同級生ではない。二年生は三クラスしかないので、名前はうろ覚えだとしても、顔だけなら全員を把握している。ならば一年生だろうか、と考えて、ちんちくりんの彩香を引き合いに出すまでもなく、どうにも年下には思えなかった。
背丈は男子平均の螢と同じか、やや低いくらい。キリっと均整の取れた顔立ちをしていて、切れ長の瞼の奥から、大きな目玉が突き刺すような眼光を放っている。端的に、ついで下世話に表現すれば美少女なのだが、少女と言うにはいささか雰囲気を異にしていた。制服を着ているからには生徒に違いないのだろうが、やたら妖艶で大人びているし、仮に彼女が私服やスーツを着ていたなら、螢は真っ先に教師だと思っただろう。もっと言えば、彼女の落ち着き払った様子を見ていると、事故か何かで目の前で人が死んでも平然としているような、そんな冷酷さも感じられた。
「……あなたが誰だか知らないが、もうすぐ最終下校でしょう。悠長に話をしている時間はないと思いますが」
「帰ってしまうの? それは悲しいことだわ」
そんなことを言う彼女だが、なんだか薄ら笑っているようにも見えるし、やっぱり淡々と言うので、螢は一層、不気味に思った。
しかし、まあ、彼女は人間だ、それ以外であるはずがない。どうせ自分を年下だと思っておちょくっているだけなのだ――そう思うと俄然、腹立たしさが前へ前へせり出してくる。
螢は語気を強めて言った。
「わけのわからないことばかり言ってないで、先生に怒られる前に、早いとこ帰った方が賢明だと思いますけどね」
「そう、なら仕方ないわね。さようなら」
何か仕掛けてくるかと思いきや、とんだ肩透かしである。もし彼女が幽霊だったらどうしよう、とか少しビビったりもした螢だったが、そうでもなければイタズラ娘でもなく、ただの変人だったらしいと結論した。
さて、恐怖心も薄らいだし、彼女がおよそ無害だと分かった途端、今度は螢の方こそ帰路から遠のいた。彼女は自分から意味深に絡んできて、そのくせ断られれば、何の未練もなさそうに『さようなら』と突き放すのだ。これではあまりに一方的すぎるし、生殺しである。
螢はなんだか、彼女に小説を与えられ、没入の寸前で取り上げられたような気持ちになった。不思議な話とやらもさる事ながら、やはり素性も気になる。こうなると、もはや無視して帰る選択肢はない。
「――それで、不思議な話っていうのは?」
「じゃあ、こっちへ」
彼女は廊下を歩きだした。どうやら場所を移すようなので、螢は取り残されてしまわないように、サッと彼女の背後に付き従った。
一時は正論を言ってみたりもした螢だったが、そもそも授業をサボる程度に不真面目なので、最終下校など無視することにさほど抵抗はない。むしろ今は、彼女には多少なりともおどかされたことだし、ひた隠しにしている素性を暴くなり、一泡吹かせるまで帰ってなるものか、くらいの気持ちでいた。
さて、探りを入れるなら受け身ではダメだろう。先導する彼女の背を見ながら、螢は試しに、一つ仕掛けてみることにした。
「僕、二年の樋上って言います。あなたは先輩ですよね、なんて呼んだらいいですか?」
こう尋ねれば、彼女は自身の名前か、あるいはアダ名なんかを答えるかもしれない。取っ掛りの罠としてはちょうどいい質問だろう。
螢がニヤついていると、彼女は振り返りもせずに言った。
「名前なんて無いわ。私は、私」
どうにも抜け目ない。しかし、まだ様子見をしてみただけだ。それに最悪、明日には生徒を虱潰しにあたって、素性などすぐに知れるだろう。螢は内心で、ほくそ笑んでいた。
「――ここよ。さあ、どうぞ」
どこかの部室にでも案内されるのかと思っていたが、目的地は下駄箱から左手に歩いて二部屋を横切っただけの、目と鼻の先だった。通り過ぎた進路相談室と小会議室は、螢にとって馴染みがない。そもそも一階は授業と関係ない部屋ばかりなので、強いて世話になっているといえば、職員室くらいなものだ。
螢は、彼女が立ち止まったこの部屋が何の部屋か知らなかったが、たぶん物置とか、用務員室だろうと思った。
「……こんなとこで大丈夫なんですか? 職員室も近いですし、誰か来るとマズいですよ。上の階の方が、まだ安全だと思うんですが」
「そうかもしれないわね。さあ、どうぞ」
他人の話なんて、彼女は聞いてやしないのだ。螢は投げやりになって、言われるがままに、小さな部屋へ、そろりと足を踏み入れた。