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短編集・散文集

作者: Berthe

 冷えた紅茶の氷が次第に溶けてゆくのを、見るでもなくその周囲をぼんやり見つめながら、時々両手にコップをつつんで口元へ運んでは一度とめて、それから唇をそっとひらいて口をつけ一口飲む。

 実結(みゆ)は冷たさに、微かに聞こえるほどの息を漏らして、コップは胸の前に握ったまま、心ここにあらずの目が俄に色を戻すと、テーブルへコップを静かに置きながら想いは本日今後の成り行きへと馳せて行く。


 土曜の今日は一週間ぶりに紘一(こういち)と会って二人で過ごす日で、これはお互いに外せない予定でも入らなければ毎週のことなので何も珍しくなく、普段と至って代わり映えもしない週末といえばそうなのであるが、先週紘一が自分の家に泊まって明けた日曜、久しぶりで友達二人とお昼に待ち合わせて食事をしながら他愛なく何の益にもならない代わり、疲れた心を回復させるおしゃべりに花を咲かせていると、突然出し抜けに、一人がぴんと思いついたように話頭を転じて、


「そういえば、この前ね、吉祥寺で実結の彼氏見たんだけど、女の人と歩いてたから初めはわたしも実結かなと思って、声を掛けようとしたんだけれど、やっぱり違うかもしれないって、そのままになっちゃって」言い終えると、今も眼前に見るかのごとくありありと脳裏に映じて迫ってくるらしく、広すぎる二重幅がかえって美に背を向けた大きな瞳をさらに見開いている。実結は目の前の威圧とふいの衝撃に返事に窮して、

「吉祥寺で? 嘘でしょ。ほんとに。そっか。どうしよう」終わりはぼそぼそつぶやきながら視線を避けるように目を伏せてストローに紅茶を啜るうち再び瞳を返して、

「でもちょっとまだ信じられない」それだけ言うとそのまま席を一つ挟んだ窓の方を向きながら、窓枠にわずかに切り取られた午後のひかりと青空とに急激に高まる動悸を鎮める救いの手を求めても、それは絵画のごとく静止したまま何ひとつ語りかけてくれない。察したのかお友達も、

「でもちらっと見ただけで、結局ちゃんとは見なかったから」言い訳するようにそう言って、「だけど実結の彼氏モテそうだし。だから」と、そこで言葉につまると、実結が、

「そうかな」と少し照れて伏し目になって言うのに、こちらは勇気を得たのか、

「やっぱり見間違えかな。忘れて。ねえ忘れて」

「うん。でも最悪」実結はその気持ちを顔いっぱいに表して言った。

「きっと違うよ。大丈夫」隣に座る、真っ白な美肌に切れ長の目が映えて、実結を惹きつけるもう一人のお友達が言った。


 そこで危険な話題が一度途切れると、すぐに話は次へと移っていって、平らげた料理を店員がさげてそれからまた時を過ごしながら、退店の声が掛からないのをいいことに飲み物一つでおしゃべりに興じていた折には、結局先刻の話へと場が返ることもなく、実結もそのときにはもっと問い質してみたいような聞きたくないような相反する期待を抱いたままおしゃべりに耽っていたものの、今紘一が訪ねるのを待ち、いよいよこれから相手にぶつかっていきたいという段になって、もっと質問しておくべきだったと俄に後悔の念が込みあげてくる。


 紘一は実結が初めて本気で心惹かれた男である。それまで知り合ってきた男はといえば、大抵相手から近づいて来るのを最初はすげなくあしらって、それでも自分を諦めず口説き迫ってくる男に最後はこっちが根負けして親密な間柄になるというのがお決まりの流れであったのに、紘一だけは合コンで一目見た当初から彼が自分に近づいて来るなら、一考も要せずに、即座について行きたいと、言葉には考えないながらも想いの中に刹那に決意した。

 実結は乾杯するや否やたちまち夢中で計略をめぐらせて、杯を重ねないうちから酔ったふりをするうちだんだん快く酔ってくる。トイレに立って化粧を直したのち席にもどったときには、紘一の隣を占めていた子が丁度入れ違いに席を立ったのをいいことに彼の隣に何気なく座り身を寄せ、時折、洋服の生地越しに肩や腕が触れ合うのも構わずむしろ期待するままお酒のお代わりを優しい声で訊く。それに答えて彼が落ち着いた声と微笑で返してくれるのにさらに酔って酒も進むと、紘一は心配してくれながらも一緒に付き合ってくれた。

 嬉しくて嬉しくて、一軒目をでると二軒目にも勿論ついて行き、他の子も紘一の隣に座って話したいようなのに、一応一時は譲っても、またしばらくするうち彼の隣を占めてお酒を頼んだりお話を聞いたりと甲斐甲斐しく世話を焼く。周りの女子も男共もそろそろ勘づいてきたと見えて、それからさき二人の邪魔をするものがいよいよなくなると、実結は普段自分から媚を安売りしないだけかえって一倍に、しかしあくまで我は忘れず控えめに媚を売るうちいつか連絡先を訊かれると、胸を震わすときめきが面上に溢れないよう努めながらも微笑は忘れず添えて、すぐに教えた。

 淡い期待のうちその日は解散とともに何事もなく別れたものの、翌日二日酔いの頭に紘一から昨日のお礼の連絡が来ると、実結はたちまち痛みも何のその、有頂天にベッドに転がってやりとりを交わすうちどちらからともなく会う約束をして、翌週の週末に二人は待ち合わせると、そこから今の仲までは一直線だった。


 それからまだ三カ月なのである。惚れたものの弱みを知らなかった実結にとって、初めて受けた今回の衝撃は、未だまったく整理もつかず、またその方法もまるで知らない。まだ紘一の容疑は認められていないながら、お友達が見間違いをしたようにも思えないし、それにまた紘一が他の女と歩いているさまを容易に想像出来てしまう。街を連れ立って歩く二人の姿がありありと脳裏をよぎるたび、首を横に振って打ち消そうとしてみても、それは依然として消え去らずかえってはっきり明らかになって、その度に胸を辛くかき乱し、悲しく切なく泣きたくて信じたくない気持ちがほどくことの出来ない程ないまぜに混交する。

 実結はまた氷が溶けて、色の淡くなった紅茶を手に取りゆっくり引き寄せ口をつけると、今度は一気に中程まで飲み干し、胸の前にコップを握ったまま、またしても思案を始めて、今日これからぶつかって行くにしても、わたしはこれからさきどうしたいんだろう。紘一に否定してほしいのか、それとも真実を質してもう浮気はしないと誓ってほしいのか、それとも彼と別れることになっても平気なのだろうか。それらの問いが稲妻のように心頭をとらえて渦巻のように絡まると、避けられない未来の葛藤へと一気に思いが飛び、たちまち動悸にとらわれる。

 実結は息をつきながら静かに立って窓辺に寄り、レースのカーテンをあけて穏やかな雨模様の空に助けを求めた。すると、初めて本気で心惹かれた男である紘一の、いつもの優しく柔らかい、それでいてどうしても近づけない硬質な微笑がひらめいて、実結はどうしようもなく胸が一杯になると、下を向いたままベッドへとぼとぼ歩いて行き腕を枕にひたと突っ伏した。

読んでいただきありがとうございました。

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