雨上がり 中
バラ園には色とりどりの花が咲き乱れていた。
「ここを覚えているか?」
「はい。なんとなくですが」
来たことがある、という程度には覚えていた。
「そうか。こっちだ」
雨の雫に煌めく花々の間を、ロイルについて進んでいく。
俺達の到着と前後して、他の生徒達もパラパラと姿を現す。
ぬかるんだ道をわざわざ歩いてきたお仲間達だ。
そんなにまでして花を見たいのかね?
ロイルは迷うことなく進み、とある花壇の前で足を止めた。
そこに植えられた植物は、他のものと様子が違う。
葉も枝も極端に少なく、花も蕾もない。
一番太い茎が折れ曲がり、全体が斜めに傾いでいた。
倒れていないのは、添え木がしてあるからだ。
緑色の葉のあちこちが黄色くなり、もう枯れかけだ。
「シズンティカだ」
ロイルが告げた。
「・・・・・・・」
枯れかけの植物なんて珍しくない。
だが、シズンティカの悲惨な姿は、何故か胸に迫るものがあった。
「見えにくいな」
ロイルはそう言うと、花壇に上る。
自身の背丈ほどの高さがあるシズンティカのてっぺん部分をつかみ、俺に見えるように引き寄せた。
「あ」
そこには、1輪の花。
黄色がかったオレンジ色で、握りこぶし半分くらいの大きさだ。
もっと大輪の花が沢山咲いているこのバラ園では少々見劣りするサイズだ。
しかし、他の花にはない特徴がある。
花びらがガラスのように透けているのだ。
太陽の光を受け、朝焼けの空のように輝いている。
「シズンティカはこの微妙なオレンジ色を出すのが難しいらしい。放っておくともっと濃く、斑模様になるそうだ。
他の花は全部なくなったが、小さな蕾が残っていたから、添え木をして水をやったんだ。
中央の茎が折れているだろ。日増しに枯れつつあるんだが、なんとか花が咲くまで持ちこたえた」
花を見せながら説明するロイル。
添え木やら水やりやらは、庭師がやったんじゃないのかね?
別にいいんだが。
「お前はシズンティカが一番好きな花だと言っていた」
「へえ・・・」
ロイルのためと言いつつ、自分の好きな花を植えちゃうとこがお嬢様だよな。
俺はシズンティカの花をまじまじと見る。
枯れかけた木の先で瑞々《みずみず》しく咲く、最後の一輪。
なんか、執念のようなものを感じる。
オレンジ色の花びらが光を透かす様は、普通に綺麗だよ。
でも、好きだとは思えない。
せっかく連れて来てくれたロイルには悪いが、この花はなんか不吉だ。
たぶん、ルジンカちゃんの思い入れがかなり強かったんだろう。
胸のざわめきが蘇り、腹の底がズーンと沈んでいくような気持になった。
ロイルが俺の反応を伺っている。
せっかく咲かせてくれたわけだし、喜んでみせるべきなんだろう。
でも、どうしても笑顔をつくれなかった。
「何か思い出すか?」
「いえ、全然」
ロイルが安堵したように、小さく息を吐いたように見えた。
自分で見せておきながら、シズンティカを覚えていて欲しくなかったようだ。
「ルジンカには何度もバラ園に誘われていたんだ・・・でも一度も応じてやらなかった」
「どうしてです?」
「・・・・・・行くべきだったな。・・・すまない」
俺の質問には答えず、ロイルは謝った。
胸に謎の痛みが走り、俺はそっと、おっぱい揉みを再開する。
ロイルがため息をつき、迷惑そうに視線を俺からさらに遠くへずらした。
もうおっ立ててはいなかった。
「お前の再三の誘いを断っておきながら、私はここにリコピナを連れて来たんだ。珍しい花だったからな」
「そりゃ酷い・・・」
思わず呟く。
ロイルが端正な顔を僅かに歪めた。
「ルジンカが私のために植えたものだとは知らなかった。お前はひどく泣いて・・・あんなルジンカを見るのは初めてだったのに、私はまともに謝罪もしなかった。話す機会などいくらでもあるからと。だが、次に会った時は記憶喪失だった」
枯れかけたシズンティカを気にかけていたのは、せめてもの罪滅ぼしだったわけだ。
「寝覚めが悪かったでしょうね・・・」
「すでに他人ごとか・・・」
俺の言葉にロイルが呟く。
だって他人みたいなもんだからな。
そう思うのに、胸の痛みは増していく。
「記憶を失った後のお前に言うのは卑怯かもしれないが・・・」
ロイルが俺に向き直る。
「すまなかったな、ルジンカ。私は心無いことをした」
そう謝った。
胸の痛みが耐えがたくなる。
ぼんやりとしか思い出せなかった夢の内容が突如鮮明に蘇り、自分の中に沁み込んでいくのがわかった。
そうだ。いまさら俺に謝るな。
その言葉が必要だったのは今じゃない。
あの時言って欲しかった。
本当は追いかけてきて欲しかった。
目の前の男に対して生まれた憤りを、視線に乗せて投げつける。
ロイルが逃げるように目を逸らす。
いつもそうだ。
こいつは俺をちゃんと見ない。
しかし、ロイルは思い直したように、俺へ視線を戻した。
今度こそ真っ直ぐ見つめ返して来る瞳。
この空の晴れ間よりも、真夏の青空よりも、青く澄んでいる瞳。
この目が好きだった。
自分を映して欲しかった。
「ルジンカ」
ロイルが一歩、足を踏み出す。
その手にはいつの間に摘んだのか、朝焼け色の花が握られていた。
シズンティカの最後の1輪だ。
「美しいシズンティカだった。ありがとう」
そう言って、俺に差し出した。
変だ。
差し出す方が礼を言うなんて。
育てたのだってお前じゃない。
でも、ありがとうと言ってくれた。
謝ってもくれた。
ロイルが俺に。
胸の痛みが熱い塊りになって、涙になった。
両目からポロポロと溢れ出す。
無論、ロイルのことなんて何とも思ってない。
シズンティカに思い入れなんてあるはずもない。
それは俺の記憶じゃない。
だが、揺れているのは間違いなく自分の心だった。
ルジンカの記憶に、俺の感情が引っ張られている。
それに衝撃を受けつつ、どうすることもできない。
この花は受け取れない。
受け取ったら、きっとロイルは・・・
花を差し出してくれたことが嬉しかったのに、手を乳から離すことができない。
ただ泣きながら、首を横に振った。
俺の涙に戸惑ったロイルが、差し出していたシズンティカを下ろす。
それが悲しくて、また胸が痛んだ。
「これを使え」
ロイルが花の代わりに、ハンカチを差し出す。
「いや、それ俺のじゃん」
先日ロイルにゲロったときに渡したハンカチだ。
つい素でつっこんじゃったよ。
だが、おかげで少し頭が冷える。
「“俺”・・・?返そうと思って持っていたんだ」
いぶかしげな顔をしつつ、ロイルが近づき頬の涙を拭いてくれた。
また涙が出る。
もう全然止まんないな。
「ルジンカ」
ハンカチを手にしたロイルが、改まった様子でもう一度俺の名を呼んだ。
直感でわかった。
悪い話だ。
花を受け取らなかったのに。
「いい。聞きたくないです」
続く言葉を拒絶して、後じさる俺。
ロイルは開いた距離をそのままに、こう告げた。
「私はお前を妻にはできない」
瞬間、涙も止まった。
やっぱり、と思う。
そんなはずない、と思う。
終わった、と思う。
なんで俺がショック受けてんだ?と思う。
全部がごっちゃになって、呆然とロイルの顔を見つめた。
「陛下のご命令があれば別だが、おそらくそれはないだろう。お前の気持ちには応えてやれない」
体が痺れたように動けなかった。
「もう私を追うな。ずっとはっきり言ってやらなくて、すまなかった」
苦しげに顔を歪め、ロイルはそう続けた。
なんでお前が苦しそうなんだよ。
罪悪感か?
苦しいのはこっちだ!
納得できない。
こんなのは無理だ。
絶対に!
焼け着くような焦燥感に襲われた。
「どうして!?」
理由が知りたい。
悪いところがあれば、全部直すから!
「お前が知る必要はない」
ロイルの表情は硬い。
「私が嫌いなんですか!?」
「嫌いではない。だが私情は関係ない」
「嫌いじゃないなら、どうして結婚できないんですか!?理由も言えないなんて納得できない!!」
「何度も言わせるな」
「でも!」
「くどい。もう諦めろ!」
食い下がる俺を、ロイルが一喝する。
決して大声ではなかった。
が、空気がヒリつくような威圧感に、俺はへたり込んだ。
「すまない、ルジンカ・・」
その謝罪は結婚できないとことに対してか、理由を言えないことに対してか、声を荒げたことに対してか。
きっと全部だ。
地べたについた尻や足が冷たい。
ぬかるみに座ってるからな。
服が地面の水を吸い上げているんだろう。
おかげで我に返れた。
広。
ちょっと冷静になろう。
な?
俺は再開したパイ揉みに全神経を集中させる。
冗談でも、ロイルへの見せびらかしでもなく、マジでメンタルがピンチだった。
気を抜くと、また感情を持っていかれそうだ。
誰だよ?
37年間の記憶がアイデンティティーをバッチリ支えてるとか豪語してた奴。
早くもグラグラだよ。
お願い、誰か助けて!
もうこうなったら、禁断の乳首つんつんに移行するべきだろうか?
「・・・・・それいつまで続けるんだ?さすがに気が散るんだが」
軽く引きながら、俺のパイ揉みを指摘してくる。
乳首つんつんを交えてみたが、効果はまあまあだった。
「今やめるのは無理ですわ。私の心の安定剤ですわ」
「安定剤・・・・それが?」
あまり揉むと形が崩れるらしいからな。
俺は乳首つんつんの割合を増やして、暴れる感情をやり過ごそうと試みる。
「とにかく、立て。服が汚れるぞ」
ロイルが腰をかがめ、手を差し伸べて来た。
もう片方の手には、受け取り損ねたシズンティカが握られたままだ。
朝焼け色の花が視界に入った途端、パイ揉みで回復しかけた心がメリメリ軋み始める。
胸が引き裂かれるように痛み、ロイルの腕に抱き着きたい衝動にかられる。
16歳の乙女心はパワフルだな。
俺はロイルの手を取らず、地面に手を付き大きく息を吸った。
落ち着くべきだ。
分かっちゃいるのに、胸がえぐられたように痛い。
「ちょっと、その花・・・視界に入るとなんかいろいろヤバいんです・・」
ロイルに窮状を訴える。
「そうか・・・わかった」
ロイルがシズンティカをその辺にポイっと投げる。
女心を解さない無神経な対応に、思わずブチ切れる俺。
「はあ!?なんで捨てんだよ、ふざけんなよ!?」
「す、すまん・・?」
慌てて拾いに走る王子様。
「では・・・枝に戻してくるか??」
「どうやって!」
「それなら・・こうか?」
ロイルがシズンティカを後ろ手に持ち、俺の視界から隠す。
何も間違っていない。
もうシズンティカは見えない。
捨ててもいない。
だが、苛立ちがつのった。
「私にくれたんじゃないんですか!?」
まだ涙の乾かない目で、ロイルに思いっきりメンチを切る。
自分でも正解が分からない。
花を見ると心が激しく乱れるが、見えない所に行ってしまうのは嫌だった。
殺気だった俺に怯んだロイルは、花を掴んだまましばらく所在なげに立ちつくしていた。
「なかなか難しいな・・・」
困惑を隠さず再び俺の前にかがみ込み、地面に片膝を付く。
目の前にロイルの顔が迫り、額に息がかかった。
湿気でいつもより跳ねている金色の髪。
なめらかな白い肌。
すっと通った鼻筋。
きまり悪そうに引き結ばれた唇。
涼しげな青い瞳に、今は俺だけが映っている。
「これなら見えないだろう・・?」
少し骨ばった指でシズンティカを摘み、俺の左耳横の白いリボンと造花の中に挿し入れた。
ロイル温かな手が、俺の耳と頬をかすめて行く。
「・・・・!!」
喜びが胸いっぱいに広がる。
きっとこれが正解だ。
髪に挿してもらいたいと、ずっと思っていたっけ。
でも、すぐに打ち消した。
こんなのは違う。
嬉しいはずなのに悲しい。
苦しくて痛い!!
こんなの無理だ!
強烈な胸のうずきが生む衝動に身をまかせた。
目の前に跪いているロイルの首に腕をまわし抱き着く。
虚をつかれ、見開かれる青い瞳。
身を引こうとしたロイルの唇に、自分の唇を押し当てた。
その唇は、思っていたよりヒンヤリと冷たく、やわらかく、弾力があった。
少し開いた口から熱い吐息を感じたとき、肩をつかまれた。
自分の気持ちが届いたのだと思った。
しかし、
「!?・・・っやめろ、ルジンカ!」
口づけは一瞬だった。
あっという間に引き離される。
「こんなことをしても何も変わりはしない!」
ロイルの表情は険しい。
拒絶されたことがショックで、俺は固まる。
涙だけがとめどなく溢れ、嗚咽が喉をふさいだ。
「・・男は私だけじゃない。お前を大切にしてくれる者は他にもいるだろう」
再び泣き出した俺に、ロイルは少しトーンダウンして言葉をかける。。
「ベアドは優秀な男だと聞いている。ルジンカの結婚相手としてきっと申し分ない。もう私を追ってきてくれるな」
肩をつかむ手に力を込め、真剣に諭す。
意味が分からない。
なんで今ベアドの名前を聞かなくちゃならない?
よりによってロイルの口から!!
もう、お嬢様の芝居をする余裕もない。
この時の俺は暴走している自覚すらなかった。
派手にしゃくりあげながら、嗚咽交じりの涙声で胸の内を叫ぶ。
「あん、たに・・何がわかるんだ!?あいつ・・・は、俺のノー・・パン靴下・・を、お・・かずに抜、いてるよう、な奴だぞ・・!?今だって貞・・操の危、機を感じな・・がら、一緒に住んでん、だぞ・・!?そんな奴、に、俺を、押し付け・・て逃げるの、か?俺は・・あんたがい、いって・・言ってるの、に、なん・・でそんなこと、言うんだ・・!?」
ベアドが悪いわけじゃない。
でも、あいつが人より秀でているせいで、ロイルは躊躇なく俺を振れるのだ。
そんなのおかしいだろ!
そのまま激情にかられ、ロイルに掴みかかろうとする。
だが、あっさり制された。
殆ど動けないまま、華奢な両腕を取り押さえられる。
「やめろ。お前のその感情は本心じゃない!!なぜなら、お前は―――っ!」
何かをいいかけたロイルだが、すぐに口をつぐむ。
眉を寄せてため息をつき、静かに告げた。
「・・・とにかく、ベアドは例えだ。他の男でもいい。お前はいくらでも選べる立場だ。気持ちを満たしてくれる相手をゆっくり決めればいい。私以外でだ」
完璧なお断りだった。
振られたのだ。
完全に。
「そんな・・・・・・」
全身から力が抜けて行く。
ロイルが腕をつかむ手を離したため、俺はそのまま地面に突っ伏した。
額や鼻の先が、ぬかるみに沈む。
納得できない気持ちが悲鳴を上げ続ける中、ただ泣き続けた。
だが、突っ伏したことでロイルもシズンティカも視界から消える。
暴走する記憶にぶん回されていた感情が、なんとか離脱を試み始めた。
今は引くんだ。
食い下がるほど心証も悪くなる。
無理やりキスなんかしても嫌われるだけだ。
というか、そもそもロイルなんて好きじゃないだろ。
俺はルジンカじゃない。
俺の女神は無限美ちゃん・・
必死に自分に言い聞かせて、全力でクールダウンにあたる。
濡れた服が気持ち悪いな。
めっちゃ疲れた。
泣きすぎて頭がガンガンする。
そんな風に思えるまで自分を取り戻せた頃、涙も止まっていた。
ふう。
やれやれ、まさに、我を失ったって感じだったな。
ロイルとキスとかしちゃったしな。
どうせならアーニャちゃんとかリコピナがよかった。
泣き止んだばかりだが、さっそく泣きたい気分だ。
ルジンカちゃんの恋心はちょっと強烈すぎないか・・?
さすがにおかしいよ。
日常生活どうなってたんだろうな。
地面に突っ伏していた上体をノロノロと起こす。
「大丈夫か?」
ロイルは花壇の淵に腰掛け、俺が起き上がるのを待っていた。
「すみません・・・急に記憶が戻ってきて混乱してしまいました」
目が合った瞬間に、再び抱き着きたい衝動にかられたが、なんとか抑えて謝罪する。
涙と鼻水と泥で自慢の美貌は見る影もないだろう。
全部まとめて飾り袖で乱暴に拭う。
「もう落ち着いたのか?」
「なんとか」
しゃくりあげながら答える。
自分の声とは思えないほど、ガラガラで掠れていた。
「そうか・・・立て。ひとまず食事にしよう」
俺の言葉に大きく息を吐いたロイルに、腕を引かれ立たされた。




