0011超人類は今日も進化します
だから俺を助けるため、身代わりになったってのか。馬鹿な。
「解毒剤は? あんたが死んじまったら、神族たちも全員死んじまうんだろう? どうすりゃその『ハーフ』って毒は消える?」
ハンシャは横倒しになって苦しそうに呼吸した。もうこちらの声は耳に届いていないらしい。いつの間にか、周りには心配する野次馬たちが集まっていた。大観衆が寂として声もない。
「バクー湖の巨大ザメよ」
ミズタが口を開いた。
「ここから少し北西に行ったところにバクー湖が広がっているの。そこに生息する巨大ザメの舌は、万病に効く力を持っているというわ。前女王のクキョク様も、病床にあられた際、その薬で余命を伸ばしたわ。その直後に女王位を継承しているの」
「どけ、どけ!」
そこへ群衆を掻き分けて現れたのは、神族ナンバー2のレンズだ。どうやらハンシャ女王の危難を聞いて、急遽駆けつけたらしい。その手にした紐は、縄で縛り上げられた女と繋がっている。女は顔面をボコボコに腫らし、どうやら先ほどの乱闘騒ぎで捕まえられた、黒い矢の射手と思われた。
そいつにレンズが尋ねる。有無を言わさぬ迫力があった。
「どうだ、魔女。お前の矢の毒『ハーフ』は、巨大ザメの舌で解毒出来るのか?」
前歯が欠けた魔族の女は、自暴自棄に笑った。死ぬ覚悟を決めた人間のみに可能な笑い方だった。
「さあて、あたしが知るものかね! 何せ今まで射殺してきた奴は、みんなさっさとくたばっちまったからね。まだ生きているハンシャ女王の生命力には驚かされるよ!」
群衆が怒りの声を発し、魔女を蹴りつけようとする。レンズが大声を出した。
「やめんか! こやつは生かしておき、後でたっぷり尋問するのだからな。……それより研磨、ミズタ、マリ」
レンズが俺たちに苦渋の命令を下した。
「俺は女王について看病する。ハンシャ様のお命が続いているうちに、お前らは急いでバクー湖へ赴き、巨大ザメの舌を取ってくるんだ。出来るな?」
出来るも糞もない。俺はハンシャに喧嘩で負け、傷を治してもらい、その上に命まで救われた。これで解毒剤を取りにいかなかったら、それこそ恥知らずだろう。俺は胸を叩いた。
「任せろ。これでも将来有望な助っ人超人類様だぜ。半日で取ってくらあ。ミズタ、マリ、案内頼む」
「分かったわ」
「行きましょう!」
俺たちはコロッセオを後にした。
城を中心に、闘技場や家々が球状に取り巻く神族の首都。それが遠く離れ、辺りには森林と丘陵に帯状の田畑がわずかに覗く、何とものどかな光景が広がっていた。鳥のさえずりの中、点々と散らばる平民神族の農作業が見受けられる。ここらにはまだ魔族の手は及んでいないらしい。平和なものだった。
俺の前で先導するのは、眼鏡っ子で赤いショートボブのやや幼げなマリ。その衣がヒラヒラ舞って、ピンク色のパンツが覗けている。
「あんたどこ見てんのよ! キモっ!」
これは俺の隣を飛ぶミズタの罵声だ。金色の長髪をなびかせ、横乳をはみ出させながら、俺を火を吹くように睨みつける。
「マリの下着を凝視するなんて、変態よ変態! そんな趣味の持ち主だとは思わなかったわ。やっぱり人間の男は異常性欲者ばかり……」
俺は自意識過剰なこのアホに言ってやった。
「たまたま見えたからちょっと気を取られただけだ。マリの下着で喜ぶほど俺は変態じゃないぜ。……だいたい、女王が死に掛けてるのにえらい元気だな。あいつが弱まったらおめえらも弱まるんじゃねえのか?」
答えたのはマリだった。
「研磨、女王は神界のシンボルである黒曜石に誓い、常にただ一人がその玉座につきます。女王位継承の際、全ての神族の命は新しい女王と繋げられ、共に生きる道を歩み始めるのです。しかし、健康状態そのものまで一蓮托生というわけではありません。それでは女王が風邪を引けば神族みんなが寝込んでしまいます。あくまで女王の生命の継続のみが、皆に共有されるのです」
じゃあミズタやマリの状態から、ハンシャの病状を知ることは出来ないか。もしこいつらがいきなり死んだら、それはハンシャが息絶えたってことになるんだろうけどな。
「ところで、私の下着で喜んだら変態とは、いったいどういう意味ですか?」
聞いてたのかよ。俺はとっさに話を変えた。
「で、バクー湖はまだか?」
「もう着きましたよ」
ひょうたんのように大小の湖が連結している、広い――広大というほどでもないが――水面が視界に入ってきた。俺らはその上で浮遊する。さて、どうやって巨大ザメを釣ろうか? 釣竿もルアーもないんだけどな。
ミズタが生真面目な顔で俺に話しかけてきた。どこか悲壮感を漂わせている。
「バクー湖の巨大ザメは凶暴で、わずかな血液にも反応するというわ。研磨、私がサメをおびき寄せるから、あんたはマリと協力してその舌を手に入れて」
おびき寄せる? どうやって……
「何考えてんだ、ミズタ。まさか……」
「そう、そのまさかよ」
ミズタが手刀を作り、自分の左手首をカットした。赤い鮮血が噴出し、どぼどぼと湖面に波紋を立てる。俺は怒号し、彼女の手首を素早く押さえた。
「馬鹿野郎! 何やってんだ!」
ミズタは激痛に歯をガチガチと鳴らし、全身をおこりのように震わせている。その顔は血色を失っていき、今にもバクー湖に落下しそうだ。俺は振り向いてマリに訴えた。
「マリ! 何か血止めするもん寄越せ! 早く!」
だがマリは俺の叫びを微動だにせず受け止めると、ゆっくり首を振った。
「研磨、これがミズタの覚悟です。ハンシャ女王が逝去なされれば、全ての臣民が道連れになるでしょう。しかしミズタが死ぬ分には大丈夫。今は女王から毒物『ハーフ』を取り除くための解毒剤が必要なのです。そのためならミズタだけでなく、私にも死ぬ覚悟が出来ています」
そんな……。俺は気力を振り絞って濁流のように血を流し続けるミズタを見やった。その瞬間、いつぞやの商店街で考えていたことが、不意に再び頭をよぎった。
俺は何で生きているんだろう?
他人に迷惑をかけっ放しで、いつ死んでも周囲は何ら問題にしないであろう、ただうざいだけの俺の命。それでも俺は生きている。今度はハンシャに借りを作って、神界の絶体絶命の危機にただなす術もなく手をこまねいている。そんなことでいいのか?
生きているなら、生きていていい証を立てなければ。
俺は自分のシャツ――既にボロボロだったが――を引き千切り、それをミズタの手首に巻いた。ミズタが弱々しく抗議する。もはや俺に物理的抵抗する余力さえないのだ。
「何やってんのよ……。まだ巨大ザメは現れてない……」
マリが湖面を指差して指摘した。
「いや、寄ってきたようですよ、ミズタ」
俺は上半身裸の状態で、彼女の指し示す方向を見た。映画『ジョーズ』のようなサメの背びれが、水上にその姿を見せて泳ぎ回っている。どうやら都合よく近くに1匹いたようで、ミズタの血におびき寄せられたのだとうかがわれた。その影は確かに巨大だ。