0001超人類は今日も進化します
どうなってやがるんだ。俺は目の前の事態が理解できなかった。いや、したくなかった、という方が正しいか。
燃え盛るキッチンで、目の前に転がるのは二つの焼死体。俺の親父とお袋だ。さっきまであんなに元気だった二人が、今や炭化して黒焦げになっている。ぴくりとも動かず、もはや生命の息吹は微塵も感じられない。
そして両親をそんな無残な状態にしたのは、目の前に立ちはだかる怪物。人型に燃え盛り、頭部に二個の目玉だけを有した紅蓮の炎。全身が火で出来た怪人だった。
その目が笑った――ように見えた。
「悔しいか坊主。悔しいだろう。俺様を憎め。憎悪で泣き叫べ!」
充満し始めた黒煙が俺に息苦しさを味わわせる。壁や天井まで舐め始めた熱が、俺のシャツを通して肌をあぶった。
ちくしょう。何だこれは。俺の日常は、ごく普通の家庭は、どこへ行っちまったんだ――
半日前のことだった。
「何か鏡さん、最近やたらと強くなってねえっすか?」
俺が後輩の輝とつるんで屋上へ赴き、授業をさぼっていると、そいつがそんな言葉を口にした。
まあ、な。思い当たる節はあった。喧嘩最強を目指すこの俺、鏡研磨様のパンチ力が、近頃めきめきとパワーアップしていたのだ。何か知らんが、嬉しいことに……。昨日も他校のろくでなしどもに囲まれたが、2人対13人でも負けなかった――輝は早々に伸びてたけど。今でも青たんこしらえてやんの。
「鏡さん、何で不論戸高校――うちの番長になってくれないんすか? 勢力伸ばしましょうよ。今の鏡さんならプロボクサーが相手でも勝てそうな気がするんすが」
俺は軽く不快になり、輝の頭をはたいた。「何するんすか」と丸刈りの頭部を撫でて抗議する後輩に、俺はそれらしくうそぶく。
「勝てそう、じゃねえだろ。勝てるっつーの。昨日は喧嘩しながら、むしろ相手に大怪我させねえように手加減してたぐらいだからな」
「マジっすか。やっぱ最強っすね、鏡さん」
まあな。何で拳打が威力向上したのかは分からねえが、最近の俺はとにかく絶好調だった。パッキャオやメイウェザーも、今の俺なら楽勝な気がする……と、これはさすがに自信過剰か。でもそう自惚れるくらい、調子いいんだよな。
と、そこへ。
「ここにいたか、鏡研磨!」
扉を開けて現れた闖入者一名。俺らと同じ黒い学ランに身を包んだ太っちょのこいつは、一個上の先輩で不論戸高校番長・吉良メクル。一昨日俺にノックアウトされて、もう懲りたかと思ってたのにな。そのげじげじ眉毛と太い鼻に絆創膏を貼り付けて、ポケットに両手を突っ込んだまま近づいてくる。
何だ、俺とやる気か? この無敵の俺様と?
俺が立ち上がって指の骨を鳴らすと、吉良は先日の痛みを思い出したか、ちょっとビビッて後ずさりした。
「おいおい逸るなよ。今日は拳骨をもらいに来たんじゃねえ。番長の座を、どうしてもおめえに献上したくてな」
俺は拍子抜けして腰に両手を当てた。
「はあ? そんなもんいらねえよ。俺は喧嘩が好きで好きでたまらなくて、んでもって弱っちい相手とはやりたくねえ。それだけだ。吉良さん、あんたも俺からしたらほぼ喧嘩の対象じゃなくなっちまったんだよ。失せな」
これには吉良もいくらか気分を害したみたいだ。そのこめかみに怒りの青筋が走る。だけど憤激より恐怖が勝ったらしく、唇を噛み締めて必死に耐えた。
「……そこを何とか。最近他校が連合組んで、おめえを潰そうって動きがあるんだ。おめえをかしらに持ち上げた方が、こっちも人数が集まりやすい。なあ、自分の身を守るためだと思って、一つ心意気を見せてくれよ。鏡……」
けっ、馬鹿馬鹿しい。俺は膨れっ面になった。
「やなこった。それが嘘でないって証拠はどこにある? ともかく番長なんかになって、よその弱い連中の相手をしなきゃならなくなる不都合はごめんだね」
ああ、何かむしゃくしゃしてきた。俺はひざまずくと、屋上の床に敷き詰められたコンクリートのブロックに拳を当てた。すっと弓のように引くと、気合を入れて殴りつける。ブロックが轟音と共に粉砕され、修理が面倒そうな穴が出来た。
これには輝も吉良も感嘆の声を吐き出さざるを得なかったみたいだ。
「す、すげえ……!」
「俺はこんなパンチをもらってたのか……」
あほ。手加減してたっちゅーに。俺は拳についた埃をはたき落とした。
「ちっ、優雅に休むことも出来ねえ。輝、そろそろ昼だ。購買行って飯でも買おうぜ。おめえのおごりでな」
「はっ、はい!」
俺は目の前で小ネズミのように震え上がる吉良をうっとうしく感じた。
「どいてくれよ、番長さん」
邪魔だとばかり、手刀でぐいっと押しのける。そのときだった。
「痛っ!」
吉良が情けない悲鳴を漏らした。見れば、俺の手刀が当たった部分の学ランが裂け、垣間見える肌に細い血の線が走っている。
え? 切れたの?
これには吉良や輝だけでなく、俺自身も驚いた。俺の手刀が吉良を傷つけた、としか考えられない状況だったからだ。
「ば、化けもんか、鏡……!」
吉良が傷口――どうやら浅いようだ――を押さえて尻餅をついた。輝もさすがに引いている。
「ど、どうなっちまったんすか、最近の鏡さんは……」
いや、俺が知りてえよ。
それから俺は手刀を作らないよう気をつけて、たまには真面目に勉強するかと午後の授業に参加した。しかし数学教師の話も何もかも、頭の悪い俺には到底ついていけない。窓際の席だったので、視線は外に広がる青空に向けられた。遠くを鳩が飛んでいるだけで、雲ひとつなく澄み渡っている。もう2年生になって一ヶ月が過ぎようという頃、俺は退屈さにあくびをかました。眠いなぁ……
「鏡さん、授業やる気あるの?」
熟年の女教師は恐る恐る俺を注意した。
「あぁ?」
俺が睨みつけると小動物のように目線を外す。教室に気まずい空気が流れた。それは俺に対する非難の心に満ち満ちている。俺は急に馬鹿馬鹿しくなった。
「やる気ないんで帰るわ。じゃあな、先生」
それは本音だったし、やっぱいても邪魔だろうな、俺みたいな生徒は。鞄を手に立ち上がり、後ろのドアから外へ出る。
「あ、あの……」
女教師のうろたえる声も無視して、俺はさっさと教室を後にした。くそ眠い。家に帰ってさっさと寝るとしよう。その前に小腹が空いているし、コンビニで食いもんでも買おうか。輝の奴、金がなくて俺に焼きそばパン一個しかくれなかったし。だが財布を開けると千円札すらなかった。お金は……4、5、6、7……82円。道理で軽いと思った、この財布。
「何でえ、おにぎりすら買えねえじゃねえか」
俺は自嘲の笑いを浮かべた。小遣いをくれていた暴走族の女とはこの前別れたし、早急に新しい金づるを探さねえとな。
ああ、何か無性に腹が立ってきた。適当に殴れそうな他校の連中とか現れないものか……