賭けの行方
さびれた町外れの廃寺、飢えから逃れるために境内を散策していた野良犬は、突然湧き上がった喚声に驚いて敷地外へと逃げ出した。寺の中から続けて聞こえる人の声は喜びとため息が半々ずつ混じっていた。もぐりの賭場であるこの廃寺の中は目をぎらつかせた男達に占められ、賽の目によってそれぞれに一喜一憂している。中でも、一人の浪人の勝負運は芳しくないと見えて、大雑把に結んだだけの髷が乗るその頭をせわしなく掻いていた。手元に残された木札に目を落としてため息をつくその浪人に、同じく浪人とおぼしき髭面の男が声をかけた。
「ここは初めてか。ひどい賭け方だ。それだとあっという間におけらだな」
そう言う髭面の手にはゆうに三両にもなりそうな木札が握られていた。ふてぶてしく笑うその様子が面白くない浪人は無視を決め込むと、今夜最後と思われる勝負を半の目に張った。それを受けて髭面は「あ〜あ」と憎らしい嘆息を吐くと、自らは丁の目に大きく張った。強気な張りに驚いた浪人は、思わずその濃く巻いた髭に覆われた横顔を見た。大きな口を歪めて笑う髭面と目が合った浪人は、憮然として髭に言い放った。
「ずいぶんと派手な賭け方だな。そのツキがいつまでも続くと思わんことだ」
「ツキ、かぁ。ふふん、まあ、見ておれ」
大勝負にも関わらず余裕を崩さない髭を一睨みして、浪人は壺振りの所作を見守った。開かれた賽の目は三五の丁。浪人は全ての金を摩り、髭は大金をせしめた。自らの運の無さに舌打ちして浪人は立ち上がろうとしたが、髭に肩を抑えられてまた尻をついた。
「何のつもりだ」
露骨に敵意を込める浪人の声を制するように、髭は数枚の木札を浪人の膝に乗せた。
「常連の話は聞くものだ。その札で次は丁に張れ。札は勝った分から返してくれればいい」
浪人はその意外な申し出に躊躇し、いぶかしげに問うた。
「ほう。で、運悪く半が出たらどうする。自慢じゃないが、返せるだけの金も持たぬぞ」
「外れることなどないさ」
余裕とは違う確信さえ感じさせる髭の表情にわずかな違和感を感じながらも、どうせ人の金だと割り切って、言われるがままに浪人は丁に張った。壺が開かれ、半信半疑で見て取った賽は目は四六の丁。倍になった木札が淡々と目の前に運ばれる様を見ていた浪人に、髭は顔を近づけて呟いた。
「次は半だ」
顔をしかめてその子汚い顔を遠ざけた浪人だったが、試しに半に全額張ってみた。やはり出た目は半。いつの間にか浪人の目の前には多くの木札が積まれていた。すった金があっという帰ってきたことに呆然としていると、髭に袖を引っ張られ浪人は立ち上がった。
札を金に替えて二人は賭場を出た。借りた分の金を突き出してぶっきらぼうに礼を言う浪人に、髭は手で制する仕草をして受け取ろうとしなかった。
「この金を受け取れば、今晩のおぬしの勝ち分はなくなるだろう。それでそばでも食ってくれ」
「しかし勝った分から返すと言う約束だ。元手が帰ってきただけで御の字というものだ」
返そうとする浪人と、それを拒む髭の押し問答が幾度か繰り返され、いよいよ浪人側が昂ぶりだした。
「とにかく、返すと言ったら返す。あんたのおかげですった金が戻ったのは間違いないが、余計な借りは作りたくない」
浪人はそう言って髭の胸倉に金を押し付けると、勢い良く頭を下げた。
「やれやれ、強情な御仁だな」
髭は渋々金を受け取って袖にしまうと、顎の髭を撫でながら苦笑いを浮かべた。
浪人は腑に落ちなかった。髭は負けそうな自分に札を分け与えただけでなく、次の目を読んでみせ、さらには貸した分の金を受け取ろうともしなかった。釈然としない浪人は、にやけ顔を崩さない髭面にわだかまりをぶつけた。
「今夜は無一文になるすんでのところを助けてもらった。まことにかたじけない。しかし、気に入らんのはその気前の良さだ。世辞にも金回りが良さそうに見えぬしな。さらには、たやすく三度も賽の目を読んでみせた。何も勘繰るなというほうが難しい」
まっすぐに見据える浪人の目を受け流すように明後日の方を向いて頬を掻いた髭は、存分に間を取って口を開いた。
「確かに変に思うかもしれぬ。見知らぬ男からいわれのない親切を受けたとあっては、こそばゆくて仕方なかろうしな。賽の目を読んだこと、あれは運でもまぐれでもない。いかさまだよ」
髭の言葉を聞いて浪人は怪訝そうに眉を寄せた。注意深く壺振りの仕草を見ていたが、全く怪しげなところがなかったためだ。浪人の反応を見て髭が話しを続けた。
「東海道の宿場町の名前、それを日本橋から辿って行くんだ。一回目の勝負は日本橋、二回目は品川、三回目は川崎とな。日本橋の読みは五字で半、品川の読みは四字で丁って具合さ。あの時は丁度三十回目の勝負だったから、浜松、舞坂、新井で、丁、丁、半となる。決められた順番通りに目を出していくわけだ。賽の目を揃えるなど壺振りにとっては朝飯前だからな」
いかさまの仕組みを聞いて浪人は唖然とした。実は賭場に来たことさえ初めてだった浪人は、毎度毎度真剣に目を予想して張っていたのだ。あらかじめ出る目は決まっていたと知って、ふつふつと悔しさがこみ上げてきた。
「許せん。賭場に戻って悪事を正す」
そう言って引き返そうとする浪人を、髭は慌ててなだめた。
「待て待て。損をした訳ではあるまい。それに不正を訴えたところでどうする。脅して金を巻き上げるつもりでもなかろう」
浪人は納得せざるをえなかった。からくりの仕組みに翻弄されこそすれ、髭のおかげで損せずに済んだのだ。しかし、ここに至って浪人ははたと気付いた。
「何故そのからくりを知っているのだ。奴らの仲間か」
そう言って警戒心をむき出しにする浪人になかば呆れた髭は、笑いながら問いに答えた。
「それが世の常というものよ。胴元というのは、客から取りすぎず取られすぎず、上手に賭け事を成り立たせるものだ。そこで俺のような調整役が必要になる。あんたみたいな一見さんが、負けた腹いせに番所に駆け込むこともありうるのでな」
藩を出て流浪の身になったばかりの浪人は、つくづく自らの世間知らずを思い知った。浮世の理など知らぬまま賭け事をやり、助けられた相手に喰ってかかり、挙句いかさまを知って激昂するとはなんたる醜態か。みるみる肩をすぼめる浪人を見て、たまらず髭が励ました。
「どうやら裏の世界にあまりなじみがないようだな。まあ、よい勉強ができたではないか。いかさまの仕組みまではわからずとも、警戒しておけばひどい負けは免れる、ということだ」
すっかり気の抜けてしまった浪人は力なくうなずくと、顔を上げて髭に問うた。
「して、そこまで話す理由はなんだ。ただの調整役にしてはいささか親切が過ぎると思うが」
その浪人の言葉を聞いて、髭は待ちわびたと言わんばかりに前のめりで本題に入った。
「当然下心があってのこと。ちょっと人手が要ってな。腕が立ちそうな侍を方々で探していた」
「恩を売ってたらしこむって寸法か」
浪人の口ぶりには皮肉が混じっていた。それでも髭は引かずになおも畳み掛けた。
「おぬしも金が要るだろう。誘い方が気に食わんと言うなら謝る。どうだ、力を貸してくれんか」
髭の言葉が終る前に、浪人は不機嫌そうに背を向けた。髭はその様子を見て、今夜もまた空振りかと空を仰いだ。しかし、次の浪人の言葉は意外なものだった。
「気に入らん。気に入らんが、あんたには借りがある。どうせろくな仕事ではなかろうが、ここまで身分を落とした俺には相応かもしれん」
「強情だが義理堅くもあるようだな。たいした貸しを作った覚えはないが、それを返したいと思うのならばついてきてくれ。そばでもすすりながら仕事の話しをしよう」
そう言って歩き出した髭に、浪人は最後の問いかけをした。
「何故に俺に目をつけた」
髭は少し考えて口を開いた。
「博打の下手な奴は信じることができる。仕事を任せるのならばなおさらにな」
二日後、浪人の姿は廃寺から数里離れた屋敷にあった。屋敷と言っても永い間誰も住んでおらず、そこかしこから初冬の冷たい風が吹き込む廃屋だ。その中では五、六人の浪人たちがたむろし、安酒を酌み交わしながらいつ始まるかわからない仕事を待っていた。浪人とはいえ、侍が集まればそれぞれに出自を語りだすのが相場というもの。やれ名家の出だ藩内一の剣客だと、虚しい自慢話で己を慰める話の数々にうんざりし、新入りの浪人は屋敷の外へ出た。屋敷の外には小さな下り坂があり、その先には小川が流れている。白くなったすすきがゆれる川岸にしゃがんで、浪人は川に向って小石を投げた。浪人に身を落としても家柄や禄高にこだわる武士の性分は変らないものだと、自嘲気味にうすら笑いを浮かべた浪人だったが、そばをすすった屋台での話を思いだし沈鬱な表情へと変った。
髭が語った仕事とは、おおよそ浪人も察していたとおり、押し込み強盗の手伝いだった。なんでも、狙う醤油問屋にはすでに手引きの者が一年も前から入り込んでおり、押し込むと言っても家人の命を取るようなものではないらしい。しかしその問屋が腕利きの用心棒衆を突然雇ったことから急遽人を集めたのだという。斬るのはその用心棒だけという髭の言葉を信じて浪人は根城であるこの廃屋まで来たものの、悪事に手を貸そうとしていることに踏ん切りがつけないままでいた。
もともとは武家の次男として生まれ低い禄高に耐えながらも忠勤に励んでいたが、三代続く祐筆を継いだ兄が起こした不祥事により兄弟ともども俸禄を取り上げられ一家は断絶した。独り身だったため逃げるように江戸までやってきて浪人となった自分と違い、今も故郷で生き恥をさらしながら暮らしている兄とその家族を思い浪人は胸が痛んだ。ここまで落ちてしまった自分を兄はなんと思うだろう……。浪人は過去の自分と落ちぶれた今の自分との狭間で苦悩していた。
その時、がさごそと草を踏む音がして、こちらに誰かが近づいてくるのに気付いた浪人は、柄に手をかけながら様子をうかがった。すると、すすきの間から子供の顔が覗いた。近所に住むと思われるその子供をよく見ると片方の瞼が赤く腫れていた。不機嫌そうに口をへの字に曲げてしきり鼻をにすすっている。
「どうした。親父に殴られでもしたか」
そう聞く浪人に子供は鼻をすすりながら頷いて答えると、思い出したようにべえべえと泣き始めた。浪人は眉を下げて困った顔をすると、子供に近づいて頭を撫でた。
「何かつまらんことでもしたのだろう。帰って素直に謝れば許してくれるかもしれんぞ」
慣れないながらも精一杯の慰めをした浪人だったが全く効果はなかった。ひっくひっくとしゃっくりを続ける子供を相手に、さてどうしたものかと思案していると、子供の袖から小さな袋が落ちたことに気付いて浪人はそれを拾い上げた。中身を見ると小判が一枚入っている。子供が持ち歩くには過ぎるほどの金子だ。
「まさか、これを家から盗んできたのか」
浪人の問いに子供は小さく頷いた。ため息をついた浪人がその行いを窘めようとしたその時、子供はおかしなことを言い出した。
「お侍さん、その金子をあげるからあいつを斬っておくれよ」
突拍子も無いその言葉に呆れた浪人は、笑いながら聞き返した。
「何を馬鹿なことを。あいつとは親父どののことか」
頷く子供の目は涙で濡れつつも真剣そのものだった。ただ叱られてむきになっている子供のそれとは明らかに違う様子に戸惑ったものの、自分の父親をあいつと呼ぶその性根が浪人には許せなかった。
「自分の親をそんなふうに呼ぶもんじゃない」
「あいつはあいつだよ。本当の父ちゃんは一年前に死んだんだ。あいつは急に来て家にずっといるようになった。働きもしないで母ちゃんやおいらを殴るんだ」
真剣にそう訴える子供を前にして何も言えずにいた浪人だったが、突然背後から声をかけられて慌てて振り向いた。そこにはいつの間にか出先から帰ってきていた髭の姿があった。
「それは難儀だったな。しかし、我らはちと忙しくてな。すまんがまた日を改めて来てくれ」
いきなり話に割り込んできた髭は、深い事情も聞かずに子供の訴えを退けてしまった。
「まあ待て。話しだけでも聞いてやろうではないか」
そう言ってなおも子供の話しを聞こうとする浪人だったが、髭が強引に肩をつかんで引き離した。
「どういうつもりか知らんが、余計なことには関わらぬことだ。我らの仕事がどこからか漏れるとも知れぬ」
「すぐに仕事に入るわけではなかろう。しばし待て」
そう言ったきり、浪人は子供の話しを親身になって聞き入ってしまった。
日が傾いて空を柿色に染めるころ、浪人二人と子供の一行は町へと続く細い道を歩いていた。子供を先頭に置いて案内させ、その後ろから浪人と髭が並んで続いた。黙々と歩く子供の後を追いながら髭が仏頂面で呟いた。
「まさかおぬしにお節介の趣味があるとは思わなかった。こんなことをしている場合ではないと何度言わせれば気が済むのか」
「ほおっておく訳にはゆくまい。義父とはいえ、自分の親を殺してくれと頼むのは尋常ではない」
そう神妙な顔で言い切る浪人を一瞥して、髭はため息とともに首を振った。それでも「件の義父と一度話してみなければならぬ」と言ってきかない浪人に、髭は執拗な制止をやめなかった。あまりにしつこく髭が止めるために、浪人も語気を強めてそれを振り払った。
「心配には及ばぬ。誰も付いて来てくれとは頼んでおらんだろう。すぐに戻るから帰っていてくれ」
それっきり二人の会話は途切れたまましばらく共に歩いたが、ついに髭が足を止めた。
「どうにも強情な奴だ。もう止めぬから好きにすればいい。先に帰ってるぞ」
呆れ果てたようにそう言うと、髭はもと来た道を帰り始めた。軽く手を挙げてそれに応えた浪人は歩みを止めることなく子供の後を追った。
それから百も歩いただろうか。突然浪人は刀を抜くと、そのまま身体を反転させながら後方に向けて振り払った。金属がぶつかり合う高い音が響いた後、浪人は回転を止めて下段に構えをとった。その見つめる先には、鬼の形相と化した髭の姿があった。二丈ほどの距離をおいて刀を前方に突き出し、片膝を着いて浪人を睨んでいる。
「訳を聞こう」
浪人は構えを解くと、刀を抜いたまま髭に問うた。だまし討ちの真相を聞くのは当然としても、その落ち着き払った浪人の姿は、先ほどまでの実直だが不器用そうな印象からはかけ離れている。
「やはり相当腕が立つようだ。後ろからの不意打ちならばあるいは、と思ったが……」
髭は悔しさを隠さずにそう言うと、後ずさりしながら立ち上がった。そして、十分な距離を取ってから破顔すると、ようやく本性を現した。
「すまんが、おぬしを生きて帰すわけにはいかん。おとなしくここで斬られてもらおう」
髭の宣告を聞いても浪人は動じない。姿勢はそのままにまた聞いた。
「制止に従わなかったことが癪に障ったわけではあるまい。何か理由があるはずだ。訳もわからず切り結ぶほど落ちぶれてはおらぬ」
「問答無用」
言い終わらぬ前に髭は上段から斬りかかった。浪人は一歩下がってかわしたが、すかさず下段から斜め上に刀身が跳ね上がった。次の瞬間、鈍い音と共に叩き落された髭の刀はその手を離れ、道の脇に群がる枯れ草の中に飛んでいった。右手を押さえて髭はうずくまったが、次の行動を制するようにその首元に浪人の刀がつきつけられた。
「言え。何故に俺を斬ろうとした」
こうなっては答えざるをえない。髭はうやうやしく地に伏せると、躊躇なく額を土くれにこすりつけた。
「すまなかった。だが、俺は火盗改に指図されるままに動いただけなんだ」
火盗改という言葉を聞いて浪人は眉を寄せた。さらに吐くように促されると、髭はぺらぺらと喋りだした。
昨今、江戸の治安は悪化する一途だという。その理由の一つに急増する浪人者の問題があった。各藩から食い扶持にあぶれた武士が浪人となって江戸に流れ着き、やけとなった輩が狼藉を働いているという。火付盗賊改方も強盗などに関わった多くの浪人者を斬り捨て捕縛していた。その仕事量はいつしかまかないきれぬものとなり、火盗改の悩みの種となっていた。そこで火盗改の長官は一計をめぐらせた。悪事に手を染めそうな浪人共を餌を蒔いて一箇所に集め、罪のあるなしに関わらず一気に捕縛する、逆らうようならば斬る、という乱暴なものだった。その集められた中に自分が入っていたと知って、浪人は愕然とした。自分は武士を捨てたわけではないとどこかで思ってみても、実際にはまんまと策にはまり悪事に加担することを了承していた。火盗改から見れば、素行の悪いそこらの浪人と全くの同種なのだ。
「今頃、根城だったあの屋敷には火盗改の精鋭が一斉に踏み込んでいるだろう。予定では酉の刻だった。あんたが屋敷を離れたと知れれば俺の責任になる。免ぜられて使われている身分ゆえに、失態は許されなかった」
額をつけたまま事情を明かした髭を見下ろしながら、浪人は震えだしそうな身体を必死に押さえつけていた。姑息な手段、裏切り、火盗改の横暴……、そしてふがいない己への憤りがそれらを飲み込み、身体がぐらぐらと煮えたぎる錯覚をおぼえた。そんな浪人の心情を知ってか知らずか、髭は恐る恐る口を開いた。
「怒りはもっともだ。ただ、あんたは借りがあると言っていた。恥をしのんで頼む。命だけは助けてくれ」
土下座をして命乞いをする髭は、息を飲んで答えを待った。しばらくして、突きつけられていた刀が引かれた。
「ありがたい」
そう呟くと、髭は勢いよく頭を上げた。それと同時に空気を割くような音がした。頭を上げきった髭の口はいびつに尖っていた。しかし、次の瞬間には驚きのあまりぽかんと口を開けてしまっていた。
「なぜだ……、なぜわかった」
浪人の顔は垂らした袂で遮られ、白茶に染められたその袂には、数本の針が刺さっていた。髭の含み針を先に読み、袂で防いだのだ。
「その髭、どうにも気になっていた。確信はなかったが、やはり髭の中に針を忍ばせていたか」
「お、おのれ……」
「からくりはわからずとも、警戒はしておけ……。おぬしの口から聞いた言葉だ」
髭の次の行動は速かった。使えぬ右手ではなく左手で脇差しを抜くと、逆手に持って弾けるように斬りかかった。二人が交錯するその寸前、髭のすさまじい突進は止まった。その首は浪人が突き出した刀によって鍔元まで貫かれていた。
血の泡を吹きつつ動きを止めた髭は、もごもごと口を動かしたあとに絶命した。浪人は首から刀を引き抜くと倒れた髭を見やった。
「おそらくはどこからか流れてきた忍びの者か」
振り向くと、ずいぶんと離れたところから子供がこちらの様子をうかがっていた。刀を納めてそれに近づき、不器用な笑顔を見せて頭を撫でた。子供は倒れて動かない髭のことを案じたが、浪人は心配ないと言ってまた笑った。
再び子供と共に歩きはじめた浪人は、髭が何故自分を選んだのかを改めて考えていた。敵わぬと知っていたかのような髭の戦いぶりを見る限り、浪人の力量は解っていたはずだ。にも関わらず浪人を策に引き込み、策が叶わぬと知れば自ら刀を抜いて斬りかかった。安寧の世に自らの居場所を失い、本意ではない仕事をせざるをえなかった髭は、実は死合える相手を求めていたのかもしれない。
「博打下手は信じられる、か……」
浪人の呟きを聞いた子供が不思議そうに見上げた。すると、何かを思い立った浪人は子供に尋ねた。
「ところで、親父どのは博打はやるのか」
「うん。だけどいつもからっきしだよ。てんで弱いみたい」
そう聞くと、浪人は自然に笑うことができた。
「そうか。ならば大丈夫だ」
子供は首を傾げて理由を聞いたが、浪人は笑ったまま大丈夫を繰り返した。
テーマは「敗北」です。浪人にしても髭にしても、あるべき姿からはかけ離れ、時代にはじかれてしまった存在です。情けなくてかっこ悪くて、でも生きていかなければならない、そんな思いで書きました。




