三十八話
インは地下室の入り口で己が主人の帰還を待っていた。
何度かマルクスや丁稚や女中といった店の従業員達に『部屋で待っていたらどうだ?』と言った趣旨の事を言われてだがインは『マスターをここで待ちます』と言ってここで待っている。
別に己の主人が拷……尋問中に返り討ちを受けるから。その保険と言う訳ではない。
彼女は心配なのだ。己の主人が地下室に降りる際に見せた悲しそうな背中が。その背中が彼女の電脳の中を行ったり来たりと駆け巡る。出来るだけ"あの人"の近くに居たい。
だから彼女は入り口前で待っていた。直ぐに己の主人、鴉羽守孝に駆け寄る為に。
そうしている内に地下室へと続く入り口が開いた。彼女は一瞬、警戒したが入り口から見える顔を見ると、直ぐに駆け寄る。
「マスター!どうでしたか?」
「何だイン、ここで待っていたのか」
「勿論です!マスターのお側に居るのが私の使命ですから!」
守孝は入り口で待っていたインに少しビックリしたが、彼女が笑顔で出迎えてくれた事が嬉しかった。拷……尋問と言うのは。その手の趣味を持ってない者には苦痛でしか無い。そして彼は持っていない。
「それは嬉しい事を言ってくれるな……おっと」
彼は忠犬の様に待っていた彼女の頭を撫でようとしたが……すんでのところで止めた。
「あれ?どうしたのです……あ、マスター手に血が……!」
「唯の返り血だ心配するな。それよりも黒幕の正体が分かった。マルクスの所に行くぞ」
守孝はタオルで簡単に返り血を拭うとインを連れマルクスが待つ店主室へと向かう。店主室に向かう道すがら、すれ違う丁稚や手代、女中達に頭を下げられる事が何度もあった。
誰もかれもマルクスの娘、ミシェルが助け出されて喜んでいる。勿論、自分の職が無くなる事がなかった。という安堵もあるだろう。
だが、それよりも、ミシェルが助かって良かった。そう言う気持ちがひしひしと伝わってきた。
そんな感謝の念を受けながら守孝達は店主室へと向かい、そして部屋に入る。
中には店主マルクス。その妻ミリィ。そして娘のミシェルが居た。椅子に座っていたマルクスは守孝達が入ってくるのを見ると立ち上り彼等の方へと向かう。
「モリタカ。何か分かったのか?」
「ああ、あの男と丁寧にお話をしたら喋ってくれたよ……」
守孝はそう言うとチラッとミリィと彼女に抱かれているミシェルを見て、マルクスに目配せする。彼は、彼女達には少し刺激が強い内容と判断していた。その視線の意図を理解したマルクスは彼女達の方を向く。
「ミリィ済まないがミシェルを連れて、席を外れてくれないか?」
「ええ分かりました、あなた。もう、夜も遅いですし眠りますね。さあ、ミシェルも行きましょう。モリタカさん。本当にありがとうございました」
ミリィとミシェルは守孝達に深々と礼を言うと部屋から退室する。そして店主室には守孝とイン、そしてマルクスが残される。
「それで……どんな収穫があったんだ?」
マルクスはどっかりと執務机の椅子に座り、守孝達も長椅子に座った。
「先ずはあの男の状態を話しておく。尋問で情報を抜き出すために、右腕から手にかけて八本の五寸釘をぶっ刺したら快く話してくれたよ。デカイ血管は外してあるから死ぬことはない。後はそっちに任せるぞ」
守孝は『俺"は"殺さない』と言う名も知らない誘拐グループのリーダーとの約束は守るつもりだった。しかし、他の人は知らない。それだけだった。
「……そうか」
マルクスは少し考える仕草をし、そして考えがまとまったのか口を開く。だが、それは守孝の考えていた言葉とは違っていた。
「じゃあ俺はこの国の法律に則りアイツを衛兵に突き出すぞ」
「……ほう。何故だ?」
この国にも法律と言うモノは存在する。衛兵や騎士団に下手人を突き出せば、この国の法律に因って罰せられる。
だが、この国……いや、この世界には私刑も存在する。これは国の権力が及び難い僻地や裏の薄汚れた世界で横行し、ある種の暗黙の了解となっている。
そしてこの国の法律には私刑を罰する刑罰は無いのだ。その実例を彼は王都に来るまで、マルクスとの会話で知った。
「俺はな……この国で商人として立身し、この国で出世した。俺はこの国の国民であり、この国の法律に従う義務がある。それにな……俺は商人で、俺の部下達も商人だ。人殺しでは無い」
マルクスは真剣な眼差しだった。それは彼の本心だった。"己が商人の流儀を突き通す以上。この国の流儀(法律)は守る"。
「分かった。じゃあ、あの男はそっちで引き渡しといてくれ」
守孝は素直に応じた。商人は商人らしく商売をする。成る程、道理だ。
「それじゃあ俺の様な傭兵は傭兵らしく仕事の話をしよう。さっそく黒幕の正体なんだが……あの男は[クリーズ商会]と言うところから雇われたらしい」
「……はぁ、[クリーズ商会]……成る程そう言う事か」
守孝の口から出てきた[クリーズ商会]。その名前を耳にしたマルクスは、成る程と言った様に何度か頷う。
「何か因縁でもあるのか?」
「ああ、[クリーズ商会]は家と同じ王都に居を構える店で、家よりも創立は古いが……規模でいえば少し差は有るが、ほぼ同じぐらいだ」
同じ場所に居を構える同規模の店。相手は此方より古くこの地で居を構えているが、規模でいえば変わらない。言ってしまえば商売敵だ。
その[クリーズ商会]からしたら堪らないだろう。後から来た新参者が、今や自分達と同等になっているのだから。
「彼処とは少し前までは仲は、良くなかったが悪くもなかった。客層が違ってたからな。家はどちらかと言うと中流層が客層で、彼方さんは上流層だ」
客層が違うのならば、それにともなって客のニーズは変わってくる。マルクスもそう言う所を気を付けていたのではないか。そう守孝は思う。
しかし今回、彼等は実力(物理)で[マルクス商会]を排除しようとした。そうなった理由は幾つか上げられるだろう。客層が被ったか、店の間でいざこざが遭ったか、もしくは……
「モリタカは俺と初めて会った時を覚えているか?」
「勿論だ。確か大口の商談の帰りだったな」
「そうだ。その大口の商談ってのがな……守秘義務で人名は言えないが、とある貴族との商談だったんだ」
もしくは彼等の客を此方が獲ったかだ。




