6.記憶の相違
遅くなりました。
「なぜお前がここにいる!」
(どうしてここに!)
ベンは目の前で怯えた表情をしている黒髪の少女、アーニャに向かって声を荒らげた。当のアーニャはベンを見た瞬間から息を呑み、茂みから現れた時に浮かべていた笑顔とは真逆の、大層怯えた表情で固まってしまっている。
「言え!」
直前まで茂みから出てくるものが自分に敵意のある者か魔物ではないか、と疑っていたベンには目の前で怯えるアーニャの姿を見ても安心できない。むしろ警戒度が増す。
(今まで“ベン”を避けてきたアーニャはなんで俺がいる可能性が高いこの場所に来た?まさか俺、というか“ベン”に復讐するためか?)
「アーニャ様ー!置いてかないで下さいよー!」
固まるアーニャと警戒心を顕にするベンとの膠着が数分続いた時、アーニャの背後から茂みを乱暴にかき分ける音と、聞き覚えのある女の声が飛んできた。
その声にようやく意識が戻ったのかアーニャは茂みに向かって振り返った。
「やっと追いつけた・・・。もうアーニャ様!先々行かないで下さいって言いましたよね!?」
茂みをかき分けて現れた白いローブを纏った女はそう言うと怒っています!と言いた気に腰に手を当てる。しかし無事に追いつけたことに安心しているのか口角が少し上がっている。
「わ、忘れてた・・・。ご、ごめんね?ミ、ミーシャ」
「もう!今度からは置いてかないで下さいね」
腰に当てていた手をアーニャに向けメッ!と言った後ミーシャは辺りをキョロキョロ見渡し始めた。
「それにしても凄いですね!アーニャ様が言った通り魔法の威力が強すぎて地形が変わっちゃってますよ!凄い才能ですね!」
ミーシャは心の底から称賛するとアーニャを見つめ、微笑んだ。
「アーニャ様が魔法を秘密で練習している場所が見れて良かったです」
「え、えっと・・・」
目を輝かせるミーシャにアーニャは目を泳がせながら口篭る。
「ここがこいつの魔法の練習場所だと!?どう言うことだ!」
(ここがアーニャの魔法の練習場所!?どう言うこと!?)
今までなぜここにアーニャとミーシャがいるのか解らず沈黙していたベンだったが、ミーシャの聞き捨てならない一言に思わず声を発してしまう。
「あれ?ベン様!どうしてベン様がここにいるんですか?」
アーニャの影で隠されていたベンの存在にようやく気付いたミーシャは目を見開き驚く。しかしそんなミーシャの反応も今のベンには興味が無い。
「だまれ!俺の質問に答えろ!」
(俺のことより質問に答えてください!)
ベンは目の前にいたアーニャを強引に押し退けミーシャに詰め寄る。
(ここが本当にアーニャの練習場所だったとしたら俺のたった一つの頼りである“ベン”の記憶が当てにできなくなる!)
今まで、そしてこれからも“ベン”の記憶を頼りにするつもりであったベンからすればこの食い違いは死活問題である。故に押し退けた拍子に地面に押し倒されたアーニャを気にする余裕は無かった。
「アーニャ様!大丈夫ですか!?」
倒れたアーニャを心配したミーシャは詰め寄るベンの脇をすり抜けアーニャに駆け寄ろうとする。しかしベンは通り過ぎようとするミーシャの手首を掴み引き止める。
「答えろ!」
(答えてください!)
「ベン様!アーニャ様が「そんなことどうでもいい!!」っ!」
ベンの怒号に一瞬固まったミーシャだったがすぐに自身を掴む手を振りほどきアーニャに駆け寄った。
「アーニャ様大丈夫ですか?」
「う、うん。だ、大丈夫」
ミーシャは倒れるアーニャを抱き起こし、心配そうに顔を覗き込んだ。アーニャはそんなミーシャに曖昧な笑みを浮かべる。何事も無いとわかったミーシャは一つ息を吐き、ベンの方に振り返った。
「見損ないましたベン様!何を怒っているのかわかりませんがちゃんとアーニャ様に謝ってください!」
そう叫ぶとミーシャは強く拳を握り怒りに震える。そんなミーシャの姿にベンの今までの激情が嘘のように覚めていく。“ベン”の記憶の中でも見た事の無いミーシャの一面を見たせいだ。
「俺は「ご、ごめんなさい!」」
(ご、ごめ)
謝るベンの意思に反して何かを言おうとした“ベン”の口だったが、それをベンの目の前に飛び出し頭を下げたアーニャの謝罪が遮った。
「ど、どうしたんですかアーニャ様!?なんでアーニャ様がベン様に謝ったりなんか」
狼狽えるミーシャを尻目にアーニャはベンに頭を下げ続ける。ベンは突然のことに身を強ばらせアーニャを凝視する。
「お、お兄様が怒ったのは私のせいだから・・・。わ、私が悪いの」
「どう言うこと、ですか?」
「ゆ、夕食の時間以外はお兄様の前に姿を見せるな、って約束を破ったから・・・」
(あー、あったなそんなの)
「でもそんなのっ!アーニャ様が謝る必要ないです!」
ミーシャの言葉にベンも内心頷く。すでにこの場所が誰のものであるか、という疑問よりもミーシャの怒りとアーニャへの申し訳なさがベンの心を占めている。
「ま、まだあるの。わ、私嘘ついたの・・・」
「嘘、ですか?」
ようやく頭を上げたアーニャはベンの目を見て身を震わせた後、ミーシャに目を向けた。ミーシャに向ける目は罪を告白する罪人のような怯えを孕んでいる。
「ほ、本当はね・・・。こ、ここはお兄様がいつも魔法の練習をしている場所なの。わ、私の使ってる練習場所じゃないの・・・。そ、それにミーシャに言ったような、お、お兄様のような魔法の才能なんて本当は私にはない・・・」
(よ、良かった!)
アーニャはそう言うと苦虫を噛み潰したような顔で自嘲し自らの掌を見た。一方それを聞いたベンは自身の持つ“ベン”の記憶に間違いが無かったことに安心する。
「さ、最初は私にも魔法の才能があると思ってた。け、けど内緒でお兄様が魔法の練習をしている所を見たときにね、わ、わかったの。わ、私に才能なんて無かったんだって・・・」
掌に力を込めアーニャは石ころ程度の大きさの火球を作って見せた。それを見たミーシャは何かに耐えるように唇を噛み、ベンは内心でアーニャの火球に純粋に感心する。“ベン”とは違いベンは魔法を使うことがまだ出来ないからだ。
しかしそんなベンの気持ちも知らずアーニャは火球をかき消しミーシャに目を戻す。
「ね、ね?・・・で、でも私、み、認められなかった。う、ううん認めたくなかったの。わ、私に誇れるのは魔法しか無いから・・・。だ、だからミーシャにいつも嘘ついてたの・・・。わ、私の魔法は凄いんだって・・・。」
ミーシャはそんなこと!と叫んだが、アーニャの姿を見て力無く俯いてまた唇を噛む。
「ほ、褒めて欲しかったの・・・。こ、ここに嘘ついて連れてきたのもミーシャに褒めて欲しかったから・・・。わ、私を褒めてくれるのはミーシャだけだから」
そう言うとアーニャは泣きそうな顔でミーシャに微笑んだ。それを見たミーシャは遂に堪えきれなくなったのか自らのローブの袖を握り締め静かに涙を流す。
「だ、だからね?わ、私が悪いの。お、お兄様の場所を私なんかの場所だなんて言ったから・・・。お、怒られて当然なの・・・」
アーニャは最後にもう一度ベンに深く頭を下げ、判決を待つ罪人のように力無く俯いてしまう。
(く、空気が重い・・・。でも褒めて欲しかった、か)
アーニャの独白を聞いたベンは記憶の中の“ベン”とアーニャを重ね合わせて見る。ミーシャ以外の誰からも恐れられていた“ベン”、ミーシャ以外の者からは腫れ物、厄介者のように扱われてきたアーニャ。
(なんか似てるな。性格や境遇は真逆でも根底にあるのは純粋に褒めて欲しいって言う欲求なんだもんな・・・)
面倒くさいと言う理由で無視しても良かった。しかし“ベン”に向ける同情的な感情と同じ様なものを抱いてしまったベンは、目の前で力無く項垂れるアーニャへの対応に悩む。口を開けば暴言に変わってしまう自らの口が憎らしい。
そして唯一この状況を打開できそうなミーシャも今は黙って泣きながら俯いているだけで当てに出来ない。
風の吹く音と草木の擦れる音が嫌に大きく聞こえる。ベン、ミーシャ、アーニャの三人が黙り込んでしばらく経った時、ミーシャがこの膠着状態を打ち破った。ミーシャは勢いよく顔を上げると、アーニャに近付き力強く抱きしめた。
「アーニャ様!アーニャ様はとっても優しい人です!私が体調を崩した時いつも真っ先にアーニャ様が気付いて心配してくれます!それに私のくだらない話にもいつも笑ってくれますよね!だからアーニャ様とお話する時間はいっつも楽しいです!」
涙声で突然アーニャを嵐のように褒め始めたミーシャにアーニャは目を白黒させ、うわ言のようにう、うん、と呟くことしか出来ない。
「あとアーニャ様はとっても可愛らしい方です!私がアーニャ様を褒める時いっつもそ、そう?なんて言ってクールに決めようとしてますけど、本当は嬉しいこと知ってます!だって顔がだらし無く緩んでますもん!それに後ろに組んだ手をモジモジさせてますよね!私!そんなアーニャ様をいっつも可愛らしいなぁーって思って見てます!」
それに!それに!とアーニャを褒めることを止めようとしないミーシャに初めは驚いていたアーニャだったが、次第に目に涙が浮かび、遂にはミーシャの背に手を回し泣き出してしまった。そんなアーニャを見てミーシャもまた泣き出してしまう。
「アーニャ様には良い所がたくさんあります!優しくて可愛らしいアーニャ様が私は大好きです!だから、だから私には魔法しか無いなんて言わないで下さい!」
アーニャは力強く頷きミーシャの耳元で何度もごめんなさい、ありがとうと言い続ける。
そんな光景を見ているベンは自分を置き去りにした目まぐるしい状況に良かったと言う感情と、少しの嫉妬を覚える。
「いい加減目障りだ」
(あのー・・・)
数分後、目の前のミーシャとアーニャの抱き合う姿に耐えきれなくなったベンは、口を開き自身に注目を集める。
当のミーシャとアーニャもようやくベンを置き去りにしていることに気付いたのか、目にも止まらぬ速さで抱き合うことを止めベンに謝り始めた。
「も、申し訳ありません!ベン様を置き去りに、と言うよりベン様にあんな口の聞き方までしちゃって!」
「ご、ごめんなさい、お、お兄様!」
「耳障りだ」
(別に怒ってないですよ)
ミーシャとアーニャのあまりの声の大きさにベンは一瞬眉を潜め、二人に怒っていないことを伝えた。相変わらず意図はまともに伝わってはいないが。
「す、すぐに出て行きます・・・」
ベンの言葉に怒っていると勘違いをしたアーニャは肩を落として元来た茂みへと歩を進める。
「待て」
(待って)
ベンの静止の声に茂みに足を掛けた状態のアーニャとその後に続こうとしていたミーシャの動きが止まり、振り返る。
「・・・」
(俺も悪かった。ごめん)
ベンの口はうんともすんとも言わない。
「・・・」
(ごめんなさい)
ベンを見つめる二対の目が不安に揺れる。
「・・・」
(・・・だめだこりゃ)
終ぞベンの口が謝罪の言葉を口にする事は無く、引き止めておいて何も言わないベンにアーニャの顔は不安で真っ青になっている。
(意地でも謝罪の言葉を言いたくないってか・・・。ん?あれはなんだ・・・?)
謝罪の言葉を言わない自らの口に頭を悩ませるベンだったが、アーニャの背後の森の奥から何かの大きな影がこちらに向かってきていることに気付いた。それは物音を立てずに器用に木々の隙間を縫い、とてつもないスピードでこちらに近付いて来る。
木々の隙間から漏れる太陽の光の下をその影が通過した時、正体が判明した。
(あれは・・・魔物!!)
狼の様な獣の漆黒の体毛に描かれた魔物特有の白い、蛇がのたうち回ったような模様。それは“ベン”が文献に書かれた魔物の特徴と、その文章に添えられていた挿絵に酷似していた。
ベンがその事に気付いた時にはそれはすでにアーニャの背後数十メートル程まで接近していた。
「っ!逃げろ!」
(っ!逃げろ!)
咄嗟のことでまともに頭の回らなかったベンは逃げろと叫びながらアーニャに向かって駆け出す。そしてまだベンの近くにいた、何の事か分からず呆然としているミーシャを魔物の直線上から外すため突き飛ばし、そのままの勢いでアーニャとの距離を詰める。
魔物はベンに気付かれたことを察したのか、木々を縫う不規則な走りを止めなりふり構わず一直線にアーニャへと肉薄する。
「後ろだ!」
(後ろだ!)
ベンの声と背後から何かが近付いてくる音に反射的に振り返ったアーニャは、間近に迫る魔物の姿を見て声にならない悲鳴を上げ腰を抜かす。そんなアーニャの姿を見てベンは舌打ちを一つすると走る速度を上げようとする。
しかし今まで運動などろくにしてこなかったベンの足は思うように動かず、無情にもアーニャとベンとの距離は思うように縮まらない。
(間に合え!!)
アーニャと魔物との距離が目と鼻の先程にまで縮まった時、ついにベンの手がアーニャに届いた。
ベンはアーニャの脇に手を入れると、アーニャを抱き込むようにして魔物の直進方向の真横に飛んだ。その瞬間、ベンの鼻先を魔物の爪が掠める。
アーニャと共に地面に飛び込んだベンはすぐさま体制を立て直そうとするが、立ち上がれないことに気付く。地面に着地する時足を痛めたようだ。
ベンはくそっ!と悪態を吐くと、膝をついた状態で魔物の方へ目を向ける。
魔物はアーニャを捉えることが出来ず、勢いを殺せなかったにも関わらず体制を崩すこと無く、すぐさま身を翻してベンたちを睨み、唸っている。
「ノーブル、ウルフ・・・」
ミーシャの蚊の泣くような声で呟かれた言葉に、止まったはずの汗がベンの背中をまた伝い始めた。
ようやくファンタジー感が出せた・・・。