その9 そなたは私の幸運の女神だ
黙々と目の前の患者に治療を施していく。重傷者の中にはすでに息をしていない者もいたが、悔いている暇はない。
立ち止まり後悔している間にも手遅れになる患者が出てしまう。
ティアナは前だけを見て必死に患者の治療を進め、周囲はそのを光景を物珍しげに眺めていた。
それは夜が深まり、夜明けを迎えるまで延々と続いた。
「腹に血がたまっていますね。痛みを感じないようにしておきますから、抜き終わったら教えてもらえますか?」
「ああ本当だ、こりゃまたたんまり溜まってやがるな。任せな嬢ちゃん」
笑顔でメスを持ったルストの様に、負傷兵は顔を青くする。
ティアナに助けを求める視線を投げたが、そのティアナは既に次の患者の手当てにあたっていた。
痛みに堪え切れず唸り声を上げる隣の怪我人を前に、彼は押し黙って自分の腹に視線を向ける。するとルストによって腹には穴をあけられていた。
痛みも何もない。なのに自分の腹が開かれて赤黒い血が流れている。
男は失い白目をむいて意識を失った。
ティアナは最後の患者を手当てし終え、大きく息を吐く。
怪我人で溢れかえっていた天幕には治療を終え、体力の回復を待つ元怪我人たち。
立ちあがったティアナは天幕の中をぐるりと見渡した後、ずっと付き従ってくれたザックスを振り仰いだ。
「信じてもらえたのなら、エイドリック様のところへ案内して下さい」
昇り始めた朝日がティアナを照らす。汗と他人の血や膿に塗れ汚れているのはザックスも同じだった。
「まずは身だしなみを整えるか」
ティアナは自分の手を見た。
両方とも血みどろで異臭を放っている。ザックスも同じだと思ったが、よく見たら彼が身奇麗に見えてしまうほど酷い。
「流石に不敬ですね」
王子といっても前線に出て戦う人なので、多少の汚れなら大丈夫だろうが、流石にこれは酷すぎる。
衣服も患者の体液で汚れ湿っているし、頭を触ると髪もぼさぼさになっていた。
「俺も汚れを落としたい」
ティアナだけではないと、ザックスが川へと誘ってくれる。
道すがら朝の炊き出しが始まっているのか、火と肉を煮る匂いが漂ってきて、空腹を覚えたティアナは顔を顰めた。
死んだ人が……ティアナのせいで死んでしまった人がいるのに、浅ましく生きる自分が恥ずかしかった。
川辺に着くと靴を脱いで、着衣のまま冷たい川に入った。真っ先に頭まで沈んで髪を洗う。
服も脱いで汚れを落とし、木の枝に引っかけた。夜までには乾くだろうかと考えて、はっとして上着の形を整えていた手を止めた。
帰ることばかりを考えていたのに、ティアナの思考回路はもう帰れないと認識しているようだ。
分かっている、帰れないと分かっているけれど……何とも言えない感情が胸に渦巻いた。
太腿までの薄い綿の下着のまま川の中に戻ると、ザックスが上半身裸になって汗を流していた。
鍛え上げられた筋肉が彼の動きに合わせて流動する。
背中にあるのはかなり古い傷ばかりで真新しいものは一つもない。
不自由な視力で後ろを取らせない戦い方ができるのはかなりの実力者なのだろう。そのくらいなら戦を知らないティアナでも予想がついた。
五百の兵で数千の敵を相手に生き残った彼らは本当に強いのだろう。
ティアナより年下の少年も治療したが、農作業で鍛えられたのとは異なる筋肉の付き方をしていた。
年齢のせいで経験は少なくとも、技量は相当に違いない。なにしろ生き残っていたのだから。
視線に気づいたザックスが「どうした?」という視線を投げかける。
ティアナは小さく首を振って肌に水を流す。ザックスのように裸という訳にはいかないし、石鹸もなかったが、かなり綺麗になった。
「砦に戻れば湯浴みもできるのだが」
ザックスの気遣いに、ああそうかとティアナは思い出した。
彼らがここで天幕を張るのは井戸に毒を入れられたからだ。
本来ならそちらの方が何かと都合がいい筈なのだが、水を必要とする怪我人が大勢いた。
その怪我人の問題は解消されたが、砦に戻ってもこれだけの兵を賄うのに必要な水を運ぶのは大変だろう。
「井戸に毒が入れられたと言ってましたね。水の浄化もできますから、必要なら連れて行って下さい」
ティアナの言葉にザックスの眉が怪訝に寄せられたが、疑いの言葉は出てこなかった。彼は冷たい川の中に立ちつくしたままティアナを見下ろしている。
魔法の存在しない世界で、身を持って経験しても恐らく半信半疑なのだろう。
ザックスはラシードのように軽々しく不確かな言葉を漏らさなかった。
「殿下のところに行こうか」
ザックスは、木の枝に引っ掛けられたティアナの服を取ると、ぎゅっと絞ってから差し出す。
ティアナは洗っても着替えがないことに今初めて気づいて、上着以外の服を濡れたまま身に着けた。
イクサルドでは三度の夜を過ごした。
たった三日。
それ程の時間しかたっていないのに、エイドリックの顔色は当初の倍は悪くなっていた。
土気色に染まった肌の色にティアナは眉を寄せる。
「兵の命を救ってくれたそうだな。礼を言う」
立ちあがらずに座ったままのエイドリックは笑顔を見せていた。対するティアナは見捨てた命の重さを感じ胸を痛める。
逐一報告を受けているのだろう。後ろにいるザックスは何も言わない。
ザックスを振り返ると一つ頷かれた。自分で説明しろと言うことだろう。
「礼には及びません」
出し惜しみしたことを拗られてもおかしくないのに、ザックスも、エイドリックも何一つ責めない。
「私にも神の力の恩恵を与えてくれるか?」
「神の力などではなく、魔法です」
「君の世界ではそうだろうが、こちらでは神の業だ。ラシードは君のことを天の御使いだと振れ回っているぞ」
ティアナはエイドリックの手を取ろうと側に寄ったが、ここに落ちた当初を思い出して、触れていいものかと戸惑う。
そんなティアナに、エイドリックの方から土気色の両手を差し出してきた。
ティアナは狭い天幕の中でもう一歩前にでてエイドリックの手を取る。
彼の手はとても冷たかった。
「やっぱり毒による後遺症ですね。熱や皮膚疾患は出ていないようですが、傷む場所はありませんか?」
「摂取してより発熱はあったが、そなたが来た日には下がった。中りを付けて毒消しは飲んだが効果がない。痛みは……とにかくだるいな」
失礼しますと一応声をかけてからエイドリックの体に触れる。
背中と腹、そして胸。口を開かせ口腔内と瞳の色を注意深く観察しながらティアナは首を傾げた。
「摂取した毒は一種類ではないのでは?」
「何故そう思う?」
「大切な臓器に、徐々に蓄積されていたようにみえます。今のところ表面上にでている症状よりも、臓器の損傷の方が酷いです」
日常的に毒を盛られていたのだろうか。それもかなり昔。おそらく幼少期からだろう。
そのころから第一王子やその取り巻きと折り合いが悪かったのかもしれない。
お家騒動的なことに口を出すのはどうかと思うが、命に関わることだ。言うべきだろうかと思案していると、エイドリックが先に答えをくれた。
「子供の頃より毒に慣らしている。おかげで今までは毒を盛られても回避できていた。今回は信頼していた者の裏切りで多量接種に至ったまでだ」
エイドリックはだるそうに、けれど特別なことでもないといったふうに告げた。
「こちらでは子供の頃から体に毒を取り込む習慣が?」
驚いてエイドリックとザックスを交互にみやると、ザックスが首を振った。
「殿下は王族で特別な存在だ。毒殺を回避する術として体を毒に慣らす。お前のいう皇太子もそういう立場なのでは?」
「いいえ毒など……魔力の大きな皇族の方々には不必要です。それにほんの少しでも魔法が使えれば毒の浄化は簡単にできますので、子供時代より毒に慣らす意味がありません」
驚いた。魔法が使える如何によって習慣も異なってくるのか。
肉体的に同じ人なのにと驚きつつエイドリックの処置を始める。
体のだるさは蓄積された分と新たに血液に混じった毒のせい。
臓器に蓄積されたものに関してはてこずるが、血液に交じった毒は簡単に取り除けるのだ。
エイドリックには横になってもらい、対象となる部分に治癒を施していく。
怪我と違って体内疾患の治癒は見た目には分かりにくいが、土気色の肌が急速に戻る様に、エイドリックは息を呑んで天を仰いだ。
「まさか。神の悪戯か」
感嘆し、思わず漏らしたエイドリックの声。
ティアナが魔法だと訂正を加えると、エイドリックは暫し思案した後声を顰めた。
「魔法という言葉は使うな。悪意を持つ者より魔女と蔑まれ、命の危険に曝されかねない」
「未知の力は恐れを抱かせますか?」
驚かれはしたが誰も怖がってはいなかったのに。ザックスを振り返れば、彼もエイドリックに賛同し頷いた。
成程、世界が異なれば常識も違う。
ここは素直に従ってなるべく口を開かないように気をつけよう。
「聞かれてなんと答えるのが正解でしょうか?」
「神の奇跡と」
神を信じない自分としてはどうも嘘くさいが、イクサルドの王子であるエイドリックの助言ならそれで間違いないのだろう。
「女神の世界はこことどう違う? 他に何がてきるのか詳しく聞きたい」
見えなかったザックスの視力を取り戻し、多くの怪我人を一晩で回復させた。
報告を受けただけではなんの仕掛けかと疑っても、我が身を持って経験すればもう認めざるを得ないのだろう。
エイドリックの碧い瞳がきらきらと輝く。
その奥には純粋な羨望だけではない、策略めいた何かが見え、ティアナは巻き込まれる予感に不安を覚えた。
「今の我々には援軍を待つよりも、精鋭たちの復活は何よりも大きい。一気に形勢逆転できる可能性が出てきた」
エイドリックがぐっとティアナの手を掴んで離さない。そればかりか抱き込もうとでもしているのか、ぐっと引かれてしまった。
「そなたは私のもとに落ちてきた。そなたは私の幸運の女神だ」
未知への興奮からか、熱を孕んだ眼差しが恐い。
思わず怯えから後退れば、「殿下、その前に」と、後ろからザックスが口を挟んだ。
「彼女は毒に侵された水の浄化もできるそうです。事実かどうかの確認のために、砦に戻り試したいのですが」
「それは真か! ああいや、疑うのはよそう。ヴァファルとやらにはいつ連れ戻されるやもしれぬ身なのであったな? そなたには悪いが、帰還の時まで我らに女神の力を貸してほしい」
帰還の時までなんて。
ティアナはみるみる顔色を悪くして俯いた。その様にエイドリックは首を傾げる。
「無理やり従えようというのではない。詰問の件は謝罪する。どうか気を悪くしないでくれ」
「殿下、違うのです」
「ザックス、何が違う?」
言葉をなくして下を向くティアナに代わってザックスが答える。
「異なる世界で魔法を使えば二度と元の世界……ヴァファルへの帰還は叶わぬそうです」
ヴァファルから異界に落とされた魔法使いは一部は戻り、一部は帰還叶わず。
その違いは落ちた先で魔法を使ったかどうかだけ。
悲痛に訴えたティアナの様子を思い出したのか、エイドリックに聞かせるザックスの声は硬い。
「それは……そうなのか」
エイドリックにしたら幸運なことだろう。声色に喜びが混じっている。
その気持ちはとてもよく分かる、誰だって自分が一番だ。しかもエイドリックはティアナと違い、多くの部下を預かる軍の将なのだから当然だ。
それでもしまったと思ったのだろう。「すまない」と謝罪されて、ティアナは首を横に振った。
選んだのは自分だ。
顔を上げ、漆黒の瞳でエイドリックの碧い眼をしっかりと見つめた。
「わたしはこの世界に留まるしかありません。もう、帰れない。だから生きるために力を貸します。そのかわり生きる場所を、わたしに生きるのに必要な知識と場所を下さると確約願いたいのです」
怪我人を見殺しにしておいて、自分の身の安全を優先させる。なんて厚かましいのか。
だけどティアナには帰る場所がない。ここで居場所を見つけ生きて行くしかなくなってしまったのだ。
「それはこちらとしても有り難い申し出だ、遠慮なく受けさせてもらおう。そなたの望みは可能な範囲で約束しよう」
「ありがとうございます」
ティアナの魔法が重宝される限り、そしてティアナが彼らに逆らわない限り、彼らはティアナを傷つけない。
権力者が女神と讃えようと、本気で女神と思っているかといえば違うのだ。
今の彼らは魔法を知らず、特別なものとして受け入れているが、神の力なんて思っていない。
きっと平和で時間がある世の中だったら、魔法がなんなのか、自分たちが使いこなすために解明しようとしたに違いないのだ。
「ティアナ、そなたは奇跡の娘だ。奪われるわけにはいかない。そなたには今後もザックスをつけよう」
エイドリックは立ち上がると、ティアナの肩に手を置いてくるりと反転させる。
ティアナは目の前の大きな男を見あげた。
「これは私の右腕だ。驚くほど強く頼りになるが自身でもその身を案じてくれ。そなたは稀なるたった一つの存在なのだからな」
急に特別視されて驚くが、確かにこの世界から見ればそうだろう。もしかしたら命運を左右しかねない。
生まれた時から持っていた力だ。けれどこの世界はヴァファルではない。ティアナはこの時初めて魔法という存在の重さを感じた気がした。




