その8 秘密を知りたかったのでしょう?
ティアナを乗せた馬は、指示していないのに軽やかに歩みを進める。
長閑な田園風景の中を戦も知らず、ただ気ままに散歩でもすようにまっすぐ西を目指していた。
馬の鬣に顔を埋めたティアナの思考は停止していた。
けれど馬の背に揺られている内に本当にこれでいいのかと自問自答が始まり、これでいいのだと答えを出しては首を振って考えを否定する。
間違えていない、後悔はしない。だってヴァファルに家族がいるのだ。自分の生きる場所に想いを馳せ、見捨てる命を振り切るかに唇を噛んで馬の鬣を握る手に力を込めた。
ぎりっ、と、手の中の金属が鈍い音を立てる。
ザックスに握らされたそれに目をやると、緑色の石が金の鎖に繋がれていた。
石には文字が刻まれているが、ティアナには何が書かれているのか分からない。言葉は理解できるのにこちらの文字は理解できないようだ。
じっとその石を見ていると白く濁ったザックスの目を思い出す。最後に目を合わせた彼は「感謝する」と目礼し、ティアナを疑ってはいなかった。
「わたしは帰るのよ。ヴァファルにはわたしを必要としている家族がいる。わたしは間違ってない!」
石を握り締め声を上げる。急に上げられた声を不快に感じたのか、若い芦毛の馬は首を左右に振って順調だった足取りに乱れをきたした。
「わたしは間違ってない。後悔なんてしないわ!」
叫んで顔を上げたティアナは、言葉に反して掴んでいた馬の鬣をぐいっと引っ張ると、首尾を逆に向けて馬の腹を蹴った。
急に踵を返したことに腹を立てたのか、暴れだした馬の背に必死に掴まり来た道を戻る。
いったいどれほどの時間を言い訳に充てていたのか。既に陽は西に傾いていた。
自らの意思で馬を走らせる。
本当は戻りたくなかった。踵を返したくなんてなかったのに駄目だった。
あまりにも粗末な医療設備に死を待つ兵士。彼らを見捨てる罪悪感にティアナは負けてしまった。
ヴァファルを捨てたいわけじゃない。帰りたくてたまらない。だからここまで耐えたのに、やはりどうしても駄目だった。
馬にしがみついて戻ると彼らはまだ森にいた。
タフスの侵攻が早まっていたらどうしようと焦っていたが、どうやら間に合ったようだ。
既に日が沈んだ陣に馬で乗り入れると剣を抜いた兵士らに取り囲まれたが、聞き覚えのある声が闇に響くと剣が下ろされた。
「なぜ戻った!」
罵声を浴びせられるが、それはティアナの身を案じてのことだ。
芦毛の馬から転げ落ちるようにして降りると大きな男が支えてくれる。
鞍のない裸馬を操ったせいで足ががくがくと震えてしまい、まともに立てなかった。
それでも支える男の服をぎゅっと掴んで顔を上げた。
「彼らを救います!」
ザックスにしがみ付いて大声で訴えれば、焚かれた篝火に彼の眉が顰められたのが映し出された。
彼はティアナを憐れんでいた。
「もういいんだ。お前は帰りたかったんじゃないのか?」
諭すように腕を掴まれ強く揺すられたが、ティアナは必死で首を振った。恐ろしかった隻眼の大きな男ももう怖くはない。
「秘密を知りたかったのでしょう? それを今、あなたの体で知ってもらいます」
問答無用でザックスの着ける眼帯を取り去れば、真っ白に濁った眼球がティアナを睨みつけていた。
一瞬怯んだティアナにザックスは自虐的な笑みを浮かべる。
「恐ろしいだろう?」
「そうですね、恐ろしい。でも秘密を知ればあなたもきっとわたしに恐れを抱くわ」
「どんな秘密だ?」
言ってみろと挑発するザックスの首に、ティアナは腕を回してぐいと引っ張った。
これほど酷くなるまで放置されるなんてヴァファルでは有り得ない。
恐らく右の視力を失ってから随分と時間が経っているだろうが、病の伝染を恐れ、眼球をくりぬくといった処置がされなかったのは幸運だった。
片腕をザックスの首に回したまま、もう片方の手で彼の右目を覆う。
「恨まれるでしょうね、どうしてもっと早く教えなかったのかと。事実を知ったあなたは拷問してでも吐かせるべきだったと後悔するかもしれません」
「どういう意味だ?」
ザックスは自分の右目を覆うティアナの手を払いのけた。
その途端に狭かった視界が一気に開けたのだろう。訳が分からないといった彼は、衝撃に襲われて言葉を失っている。
ヴァファルでは治療の後は誰もが笑顔になってくれた。ティアナのする治療がごく当たり前の方法だから、大人しく受け入れて、手を払いのけるなんてことはしないし、こんなふうに言葉をなくしたりもない。
ああ、やっぱりここは異なる世界なのだと実感させられた。
「ヴァファルは魔法の国。異なる世界に落ちて魔法を使ったら、二度とヴァファルには戻れなくなる。使わなかった者だけがヴァファルに帰ることができたのよ」
漆黒の瞳からぽろぽろと涙が溢れだした。
後悔するかもしれない。けれどあのまま逃げたら更に深く後悔する羽目になっていた。
「お前は……」
衝撃を受けたザックスが唖然と問いかける。ティアナはその彼の左目にも触れた。
今度は払い除けられない。ただ、驚いた表情でティアナを見下ろしている。
手を離すと濁りのない翡翠色の瞳が大きく見開かれた。
きっと彼には長く見えなかったものが見えているはずだ。
「お前は……いったいお前はなんだ?」
稀有なもの、得体の知れない現象に恐れよりも戸惑いを含んだ声。ザックスはとても美しく輝く瞳でティアナを凝視している。
「わたしはヴァファルの魔法使い。帝国魔法省監査部所属、ティアナ=レドローク。一月前までは帝国魔法省医療部に所属していました」
ティアナはぽろぽろと涙を流しながら言えなかった事実を吐きだしていく。
「わたしは助けられる命を踏みにじり、自分の欲のために逃げ出しました。ごめんなさい。命は謝っても取り戻せないと承知しています。責めは受けます。だからどうか、わたしに彼らの治療をさせて下さい」
頭を下げ、嗚咽を漏らしながら懇願した。
魔法のない世界にティアナはどう写るのか。
ここで拒絶されたら戻った意味も、故郷を捨てた意味すらも無くなってしまう。
※
起きた事実に衝撃を受けるザックスは言葉を失ったまま、信じられないと目を見開きティアナを凝視した。
そこへ異変に気付いたラシードが駆けつけると、ティアナを見つけて首を傾げる。
「天使ちゃん? ザックスが逃がしたんじゃなかったの?」
どうして君がここにと、不思議そうなラシードの声に、ザックスは弾かれたように顔を上げて呟いた。
「天使……」
エイドリックの窮地に天から落ちて来た娘。
まさかそんなと驚愕するザックスに、ラシードがはっとして目を瞬かせる。
「あれ? ザックス。なんか目が綺麗な緑になってるけど?」
問われたザックスは周囲を見渡し、最後に天を見上げた。
空には満点の星が煌めいている。
狭い範囲しか見えていなかった視界が一気に開かれ、周囲を鮮明に映し出していた。
数年ぶりかにまともに見えるという感覚がじわじわと浸透してきた。
これは……一体なんだ?
この娘はなんと言った?
魔法使いだと?
そんな馬鹿な……いったいなんの冗談だと頭の中で否定するが、身を持って知った現実を笑い飛ばすことなんてできない。
泣きながら頭を下げて動かなくなった娘の手を取る。彼女の体がびくっと跳ねたが構っていられない。
ザックスはティアナの手を引いて、無言で傷病者たちがいる天幕を目指した。
途中、ティアナの歩みが遅いのに苛立って抱えて走り、目的の天幕に飛び込んだ。
そこでは小さなランタンが幾つも掲げられ、痛みに耐えかねた重症者に軍医のルストが最後の薬を投与しようとしていたところだった。
「やめろっ、待つんだルスト!」
ドスの効いた怒鳴り声に、慣れているルストもびくりと肩を弾かせた。
「なんだザックス、貴重な薬を取り落とすところだったじゃないか!」
文句を言いながら振り返るったルストの目が、驚きに見開かれる。
なにしろザックスはティアナを小脇に抱えていて、まるで山賊か何かが若い娘を攫って来たような恰好になっていたからだ。
「あれ、その娘。逃がしたんじゃなかったのか……って。お前、目はどうしたんだ?」
ルストが軍医としてここの配属になった時から、ザックスの右目は使い物にならなかった。
白く濁った眼球は見た目が悪く眼帯を着けていたのにそれがないのだ。
しかもその目がまるで入れ替えたように綺麗な色を取り戻していたのだから驚くのも無理はない。
「硝子玉……じゃないよな?」
「ルスト、そこをどけ」
ザックスは空いた手でルストを押しのけると、抱えたティアナを下ろした。
ほんの少し走っただけなのに興奮で息が上がっている。
訳が分からないが、それでもティアナの言葉と我が身に起きたことは、緊急の見逃せない出来事として理解できていた。
起きた奇跡を現実だと思えなくても、現に薄暗い周囲はくっきりと広範囲に渡りしっかりと見えている。
魔法というのは、ザックス達と彼女の使う言語の違いというだけで、奇跡ではなく何かしら理解できない治療法かもしれない。
ザックスは息を整えて徐に膝を折ると、ティアナの背に手を添え顔を寄せた。
これは現実、手品や魔法の類じゃない。
それでも「お前は天使なのか」と尋ねたくなるのは、不思議な現象を身を持って経験してしまったからだ。
※
「お前は天使なのか?」
低く耳元で囁かれ、ティアナは首を強く横に振った。
天使などではなく欲に塗れた人間だ。
昨日の時点で決断しておけば救えた命がいったい幾つあったのだろう。
目の前には苦しみ唸る兵士がいる。
俯いていたティアナは顔を上げて涙を拭い、わけが分からず立ち尽くす軍医を振り仰いだ。
「治療は重症者から行います。ルストさんはわたしが次の患者に行き着くまでに、患者の包帯を外して患部をさらしておいて下さい」
言いながら目の前で苦しむ患者の包帯を手早く剥いでいく。
隣にいたザックスも反対に回り込んで手伝い、膿んで赤黒く腐りかけ、異臭を放つ患部を剥き出しにしていった。
折れた手足の添え木も外すと、絶望的な怪我の状態が目の前に曝け出される。
包帯を剥ぎながら手元に目をやると、白かった指先は怪我人の膿や血で汚れていた。
患者から臭う体液は淀んでいる。
腐りかけの肉はどれ程の苦痛を味合わせたのか。
申し訳なさと自分への嫌悪から涙が滲み、泣く資格なんてないと汚れた手で拭った。
意識さえ失わせてくれない苦痛に喘ぐ男から最初に奪ったのは感覚。痛みを取り除くと骨まで剥き出しになった傷を指先でえぐり、腐った部分から回復させていく。
指先から溢れる目には見えない魔力が肉体の再生を呼び、繋いだ肉を綺麗な皮膚が覆い隠した。
内臓に届く腹の傷も同様に指を沈める。
患者の肉の中は熱く、生きていてくれることにほっとした。
悪い個所を探りながら肉体の再生を促し、折れた骨を繋げ、神経に異常がないのを確認して治療を終えた。
死の淵で体力が落ち切っているので細かな傷までぬかりなく癒やし、予定より時間がかかったと顔を上げれば、とても近くで緑の瞳と目があった。
ティアナは驚きに染まるザックスの視線から目を反らす。
説明を求められるより治療が先だ。
次の患者は……と、ルストを探せば、ティアナの側に立ちつくしたままだった。
「優先させるべき患者は?」
「……何をしやがった?」
夢でも見たかに瞳をを瞬かせるルストの前に立つ。同様に驚いているザックスも徐に立ち上がった。
「怪しい術じゃない、俺の目も彼女が見えるようにしてくれた」
「いや、術じゃねぇって一体どういうことだ?」
「だから天使なんだって」
乱入したラシードの声にティアナは身を竦め、彼と視線を合わせるのが恐くて瞼を閉じて息を吐く。
ラシードの友人を死なせた後ろめたで向き合う勇気がなかったのだ。
「質問には後で答えます。まずは治療です。優先するべき患者を教えて下さい」
ルストに問えば、彼は訳がわからないと頭を掻き毟りながらも足を動かし、意識のない怪我人の前に膝をついて呼吸を確かめた。
「生きてるな」
確認して呟くルストの向かいに座ったティアナは、意識のない患者の包帯を解いて行く。
頭を打ったのか血の止まった頭部は陥没していて、右腕は切断されたのか肘から下が失われていた。
「欠損した腕はありますか?」
「はあ? 何言ってやがる。潰れたんで戦場で落としてきたに決まってんだろ」
阿呆かと吐きだしたルストに、ティアナは冷静に淡々と告げた。
「接いで元通りにできるので、次は必ず持ち帰ってください」
「冗談は……」
ないならしょうがない。
限られた時間を有効に使うため、余計な会話は無視して患者に集中する。
ティアナは患者の頭部にある傷を手で覆い、陥没していた部分が元踊りに戻して傷を塞いだ。
その様を目の当たりにしたルストは言葉を無くす。
治療で削いだ部分の髪だけがない状態だ。
切断した腕の部分を撫でたティアナは異変に気付き、横たわる患者の背に手を入れた。
「落馬でもしたのでしょうか、腰の骨が折れています。繋げますから引っ繰り返すのを手伝って下さい」
お願いしても動かないルストに目をやると、ぽかんと口を開けて唖然としていた。
すかさずザックスとラシードが患者をひっくり返してくれ、ティアナは治療を施す。
「次の患者は……ルストさん。ねぇルストさん!」
「天使ちゃんこっち。ルストなんてほっときなよ」
ラシードがティアナを手招きする。それに気付いたルストはようやく我に返り声を上げた。
「ああいや、こっちが先だ。そっちは普通に寝てるだけだぞ」
ルストはティアナの指示通り包帯を外しにかかる。それをザックスが手伝い、ティアナは剥き出しになった部分から順を追って治療を施して行った。




