その7 殿下を救ってくれた礼だ
二度目の夜。
昨日と同じ天幕の中では、ランタンの小さな灯りだけが頼りだ。
上手く魔法を使えるようになるにつれ必要なくなった自然な光は、ティアナに懐かしい故郷の思い出を蘇らせた。
硬い木箱を寝床がわりに整える。
狭い天幕にはティアナの他にもう一人、大きな男が木箱に腰を下ろして腕を組んでティアナを睨みつけていた。
昨夜は意識を失っていたので気付かなかったが、今夜も見張りとして居座るつもりなのだろう。
「逃げたりしませんよ」
「念のためだ」
逃がさないためかそれとも――薄暗い空間で木箱に座ったままザックスを見据える。
いつも睨んでいるのはティアナが不審者だからなのか、もともとそういう目つきなのか。それとも患った病のせいなのか。
こうして側に寄らなくても光彩の濁りが確認できるのだから、病はかなり進行しているだろう。
歩いていても何かにぶつかったりはしていないようだが、こんな状態で戦えるのか。
彼の病状を考えている自分にはっとしたティアナは、こんなこと考えるのはおかしいと首を振った。
「どうした?」
「いいえ、何も」
相手が座っているので体を横たえるのは戸惑われた。彼と同じように座ったまま、積み上げられた荷物に背を預ける。
「昼間はすまなかったな」
「え?」
突然の謝罪にティアナはぽかんとした。
何に対してなのだろうと首を傾げたが、昼間ということなので、意識のない病人に会わせたことかと思い至る。
「医者というのは疑っていなかったので、正直あのように取り乱すとは想像していなかったんだ。お前自身も薬に弱いようだし、そちらの国は余程平和だったのだろうな」
嫌味ではないのだろう。相変わらずこちらを睨んではいるが眉尻が僅かに下がっていた。
「取り乱してなんて……怪我人には慣れています。そんなふうに見えましたか?」
「酷く動揺しているように見えたが――違うのならいい」
もしかしてあれ以上のことを望まれなかったのは、心の動揺が伝わってしまったからなのだろうか。
エイドリックには戻れと言われたし、戻る先のラシードはティアナをあの場所から理由を付けて連れ出してくれた。
そう感じたところではっとする。
彼らから向けられる態度に気遣いを感じて、引き込まれてしまいそうになっている自分に気付いたのだ。
「横になって休め、疲れたろう」
「監視されながら眠るのには慣れていません」
「悪いが安全のためだ、堪えてくれ」
誰の安全だろうか。
屈強な兵士たちの中にか弱い女が一人。
彼らの手にかかれば、ティアナの首を折るなんて容易いだろう。
それこそ押さえつけ組み敷くのなんて簡単だ。
昨夜の恐怖が襲い、薄い布を頭からかぶってやり過ごそうとした。
ラシードは薬を飲ませはしたが、それ以外ティアナに対して特別な何かをしたわけではない。
ほんの少し耳に触れたり、側で囁いたりといった程度であって、ティアナが嫌悪を感じた全ては媚薬の効果が原因だ。
最後の方は記憶も曖昧で、首の後ろを叩かれ意識を奪われたのすら覚えていない。
「悪かったな、昨日は」
「どうして心が読めるのよっ!」
身を守りたくて被った布を払い除ける。
この男はどうしてこれほど聡いのか。
ティアナの恐れも考えも見抜いて、隠している物があると疑い続ける。
「読めはしないが動揺は伝わってくる。今日は一日中なにかに脅えていたな。まぁ原因はこちらにあるんだろうが」
「疑いが晴れたのなら解放してください。わたしはエイドリック様に危害を加える人間じゃないし、タフスの間者でもない。森をうろつく賊がいたってかまわない。ここはっ……ここに居続けるのはとても苦しい」
ここを出てティアナがザックスの言う通りになってしまっても自己責任だ、患者たちを見捨てる自分に対する罰ともいえる。
死にゆく彼らにだって家族があるだろう。
けれどティアナにも彼女を必要とする家族がいるのだ。
何を優先すべきかなんて決まっている。誰もが偽善者になれるわけじゃないのだ。
声を上げたティアナは涙を零さないように奥歯を噛みしめた。
「寝ろ」
しばらくの沈黙の後に端的に告げたザックスに、ティアナは不満げに声を漏らすと布を被って硬い木箱に身を沈めた。
帰りたい、一刻も早くこんな場所から離れたいのに、ティアナ自身には帰る手立てはないのだ。
ただ魔法を使わないように、それだけを注意しながら時がくるのを待つしかない。
嫌で嫌で心が震え、怪我人だらけの天幕を思い出して絶望しそうになる。
魔法なんて知らない彼らにティアナの力を予想するのは不可能だ、だから彼らはティアナを責めない。
その分だけ罪悪感が時を刻むごとに大きくなって、ティアナの胸に重く圧し掛かかっていた。
帰りたい、帰りたいと呪文のように呟きながらやがて眠りにつくティアナを、ザックスがただじっと無言で見守っていた。
翌朝も前日と同じ。目が覚めるとザックスがいた。
上着を着たまま眠っていたせいで服が皺だらけになったのが唯一の変化。ヴァファルのどこかでないことに絶望して、心は沈み憔悴していた。
朝食をよそってくれたのはザックスだ。ラシードの姿はない。
食欲は全く湧かなかったが、貴重な食料だと分かっているので残さず食べた。
食事を終え、昨日同様あの天幕へと連れて行かれるとラシードがいた。
彼は横たわる怪我人の側に座り込んで背を丸め、肩を落としている。
高く結われた髪が美しい横顔を隠していて、表情は見えなかったが落胆しているようだ。
足を止めてぼんやりとラシードを眺めていたティアナにザックスが気付く。
「奴の友人だ、今朝息を引き取った」
すっと血の気が引いた。
崩れ落ちたティアナをザックスが受け止める。
太く強い腕だ。細身のラシードも同様に筋肉質な力強い腕をしていた。きっと彼の友人もそう、けれどこんなにもあっさりと死んでしまう。
「わたしのせいだ――」
「違う。戦とはこんなものだ」
呟いたティアナに当たり前の出来事だと、高揚のない声が落とされた。
確かにそうだ、戦争なんて人と人との殺し合い。殺さなければこちらが殺される、それが当たり前の世界だとティアナにだってわかる。
けれど目の前で起きた死にはティアナも関わった。
昨日確かに彼を診察した。
大怪我を負っていたけれど、声は明るくて。元気そうに見えたのを覚えている。
診察した一人一人の顔をティアナは忘れない。
あの時確かに彼は息をして、この世界に生を繋ぎ止めていたのに。
望郷への想いに縛られ、見殺しにした命。
きっと彼だけではない、一夜明け命の灯を消した者が他にもいるだろう。
それなのに何も知らない彼らは、誰一人としてティアナを責めない。
彼らの仲間を見殺しにした張本人がここにいるのに、誰一人として気付かず、ただ仲間の死を悼み声を無くしていた。
体の中から込み上げてきたものを堪えていると、ザックスに抱えられ外に出された。下ろされた先で堪え切れず食べたものを嘔吐してしまい、ザックスに背中をさすられる。
「悪かった」
何に対して謝っているのか。平和な世界に育ったティアナに、衝撃的なものを見せたと勘違いしているのだろうか。
大きな手に優しく背をさすられ、吐いても吐いても吐き気が治まらない。
「何もしなかったっ……」
「薬も不足し手立てが限られている。お前だけじゃなく俺も、軍医にも何もできなかったんだ」
違うとティアナは首を振る。きっと彼らには分からないだろう。
けれどティアナが彼らを見殺しにしたのは事実なのだ。
「違う、違うの。責めてくれていい。どうして助けないんだ、自分さえよければそれでいいのかって罵倒して!」
吐く物がなく、嘔吐きながら肩を震わす。
誰よりもティアナを疑っていたザックスの手が優しすぎて、その温もりが更なる罪悪感を抱かせた。
「あの状態をなんとか出来る医療技術がお前の国にはあるのか?」
違うだろうとの意味を込めた問いかけに体の震えが止まらない。
どんなに後悔しても失った命は戻らない。
罵倒してと吐き出したくせに、この場に及んでも秘密を口にしない我が身を最低だと感じた。
「イクサルドの技術が他国に劣る訳じゃない、この状況ではしょうがないんだ。お前は特別な薬を持っている訳ではないのだろう? すまなかった。自分を責めるな」
唖然とした。
いったいどんな拷問だ。
どうして責めないのかと、ティアナは汚物で汚れた顔をザックスに向ける。
「どうしてっ、わたしなんかにどうして優しくするんですか」
「お前が患者を助けられないのを悔い、その死を悼んでいるからだ」
違う、これは悼んでいるんじゃない。見捨てた自分に絶望して、嫌気が差しているだけだ。
「お前は力のない、どこにでもいるか弱い女だ。なんの訓練も受けていないのは一緒に行動していれば一目瞭然だったのに、隠されていることが気になって酷いことをしてしまった」
謝罪しながら吐瀉物で汚れたティアナの顔を拭いてくれる。
「エイドリック殿下を救ってくれたことに感謝する。これからお前を解放しよう」
ザックスの言葉に、驚いたティアナは目を見開いた。
「ここももうすぐ戦場になる。ヴァファルなどという国がどこにあるかは知らないが、帰りたければとにかく遠くへ逃げることだ」
「怪我をっ……怪我をした人たちはどうなるの?」
「動ける者は砦に戻り、そうでない者はここに置いて行く。砦が落ちれば捕虜になるだろうが仕方がない。が、お前は女だ。捕虜にされた女がどうなるか分かっているな?」
捕虜になるという意味など分からない。けれど慰み者になるというのはザックスの口調から理解出来た。
ここに落ちたティアナは、エイドリックを助けたという意味で守られていたが、イクサルドと敵対し戦いを仕掛けるタフスにとっては敵国の女としか認識されない。
怪我人よりも自分を心配しろと、腕を掴んで力ずくで立たされ引き摺られる。
落ちた当初と同じように腕を掴まれているが、ザックスの態度はティアナが害をなす者としてではなく、ティアナ自身の身を案じての行動だった。
つれて行かれたのは馬が草を食む一画で、ティアナの髪と同じ色をした、青毛の軍馬が数えきれない数の群れをなしていた。
恐ろしく大きな馬たちの中で芦毛が一頭、黒い集団の中で小さい体ながら一際目立っている。
男ばかりの戦場に迷い込んだ自分に似ているとぼんやり感じていると、ザックスはティアナを芦毛の馬の前までつれて行き、抱え上げて裸馬の背に跨らせた。
鞍のない馬に跨るのは始めてだ。驚きながらも落ちないよう芦毛の鬣に捕まってザックスを見下ろした。
「街道沿いに西へ向かえば村がある。村人は既に避難していないだろうが、そこで水と食料を手に入れろ。それからこれを」
言いながらザックスは、服の中から何かを取り出し引き千切った。どうやら首飾りをしていたらしくそれをティアナに握らせる。
「もし援軍とぶつかったらイーク=ロヴァルスという男にこれを見せて保護してもらえ」
「イーク=ロヴァルス?」
繰り返した名にザックスは「俺の師だ」と告げた。
「事情を話せば、必要な装備を分けてくれるだろう。お前はお前の望む場所へ帰れ」
ザックスは芦毛を歩かせ軍馬の群れから離れる。ティアナは馬の背にゆられながら突然の出来事に思考が付いていけなかった。
解放されるのは嬉しいが、こんな突然にどうしてなのか。
手荒に扱われたりもしたが、二晩世話になったのに挨拶もなしにこの場を離れるのか。
沢山の人間が死んでいくのにたった一人だけ、ヴァファルに帰るために逃げ出す。
「馬は駄目です、歩きます」
これから戦いが待っている彼らにとって馬は貴重だ。そう訴えたが、ザックスは首を振った。
「これはまだ若く戦場には立てない。歩きとなればタフスに追いつかれるぞ」
それは東の砦が突破され彼らが死んでしまうということ。怪我人だらけの彼らが勝利するのは難しいだろう。
ティアナは「馬は貰えない」と足掻いたが、ザックスは首を振った。
「殿下を救ってくれた礼だ。ティアナ=レドローク、心より感謝する」
馬上から大きな男を見下ろす。唖然とするティアナが次の言葉を言うより先に、ザックスが馬の尻を叩いた。
合図と共に芦毛の馬は西を目指して走り出し、裸馬から投げ出されないようティアナは馬の鬣にしがみついた。
二日を過ごした森を抜けるとすぐに街道へと出る。
呆気なく解放された我が身が信じられなくて、ティアナはしがみ付いた馬の鬣に顔を埋めた。