その6 姉さんは五年も前に死んだんだ
予感通りティアナが連れて行かれたのは同じ天幕の中の、意識のない人たちが横たえられている場所だった。
兵士たちと同じ軍服を着ている中年の軍医が自らをルストと名乗ると、ティアナを怪しむことなく状況を説明していく。
ここには頭を打って動かなくなった者や、怪我の状態が酷く薬で眠らせるしか方法のなかった者たちばかりが寄せ集められていた。
強い薬で眠らせていても、痛みのせいなのか唸り続ける声が聞こえるが、その声すらも頼りない。
「薬も薬品も足りなくて、これ以上苦痛を取ってやれない状態なんだ。今夜にも薬が切れた者から順番に目を覚まし苦しみだすだろう。あんたは優秀なんだってな。もし何か苦痛を和らげる方法があるなら教えてくれ」
思わずザックスを見やる。出来がいいから監査部に放り込まれたというのを信じてくれたのか。
ヴァファルの基準は魔法を使いこなせる素質と魔力の量こそが力となるのでそう表現したのだが、まさかこんなことになるなんて。無意識に腕を掴んだ。昨日自身で噛み付いた箇所が痛むが、更に強く握り締める。
「あまり苦しむようなら安楽死させることになる」
信じられない言葉に、ルストと名乗った軍医を凝視した。彼の真剣な目は冗談ではなく、ただ真実だけを語っているのだ。
死んだ方がましだという苦しみの経験などティアナにある筈もない。
多くの患者を診てきたが、いかなる病や怪我も魔法で癒やしてきたのだ。治せないものはないが、ここでは無理だ。
彼らはティアナの家族でも何でもない、たまたま居合わせてしまっただけの、世界を超えた、本来なら交わることのない人たち。
「こんな状態で……こんなっ!」
診断するのすらできなかった。
恐れで心臓が弾けそうなほど暴れる。
いっそ弾けてなくなってしまわないだろうかと、自分大事さに目の前の、確かに生きている彼らを見捨てる我が身に呆れ、呪い。それでも手を差し伸べない自身に絶望する。
帰りたい、ヴァファルに帰るんだ。全く知らない関わるべきでない世界。ここにティアナの居場所はないのに、突き付けられる現実が心を乱して混乱を招く。
赤黒く染まった包帯だらけの意識のない人間。
どこの誰かなんて知らないのに、彼が助けてくれと声を上げ、見捨てるティアナにむかって血だらけの手を差し伸べているように感じた。
「できません。ごめんなさいっ」
ようやく絞り出した声に、軍医からは「やはりそうか」と落胆の息が漏れた。口にした彼も安楽死を望んでいる訳ではないのだ。
嘘付き、なんて醜いのとティアナは自分を罵る。
エイドリックを助けたからと自らの安全を要求したくせに、治療を拒否して死にゆく人を見捨てるのだ。
ほんの一月前までは、医師として辺境を巡っていたのになんてことだろう。
魔力を持たず力のない者ほど帝国の端へ押しやられる。
ティアナの家族もそうだ、貧しい生活から逃れるには偶然生まれたティアナのような魔法使いに頼るか、勉強して職を得るしかない。
勉強するにも農作業に追われていては暇もなく、だからティアナは幼くして親元を離れてお金を稼いだ。
少しでも多くのお金をと、知らぬ間に貴族の養子となっても腹を立てなかった。
監査部になんて興味のかけらもない。医師と異なり仕事に情熱なんてもてず、皇太子の訪問時刻ばかりを気にしていた。
そうだ、ティアナはヴァファルでも病や怪我で助けを待つ人たちを見捨てるのに等しいことをしていたのだと気づく。
多くのお金を得るために、流れに逆らわなかった。完璧な治療を行える優秀な医師はどこに行っても歓迎されるのに、私欲のために流れに身を任せてしまった。
金銭を望んだから、いらぬ欲を出したから罰があたったのだろうか。
皇太子の側室となるよりも監査部に在籍する給金が目的で、養父の望み通りの行動も起こさなかった。
そういったあさましい考えの持ち主だったからヴァファルはティアナを弾きだしたのだろうか。
唇を噛み手首を強く握るティアナを、怪我人を助けられないことで自分を責めているとでも勘違いしたのか。
エイドリックがティアナの強く掴んだ手に硬い手を重ね、労うかにぽんぽんと叩いた。
「無理を言って悪かった。ラシードのところに戻ってくれ」
言われたとおり、先程の少年の場所に戻ろうとすると、ラシードが大きな籠を持っていて外に誘ってくれた。籠の中身は洗濯物でほとんどが汚れた包帯だ。
「これから洗うんですか?」
既に夕暮れ間近だ。明日の方がいいのではないかと感じて訪ねたのだが。
「できる時にやっとかないとね」
いつどうなるか分からないからとの言葉が続くように感じる。
ティアナは罪悪感に苛まれ、ぎゅっと胸が締め付けられ続けた。
朝に身だしなみを整えるために、ザックスに連れて行かれたすぐ側の川に入って包帯を洗う。
白く長い布が川の流れで伸ばされていくのを何となしに目で追いながら黙々とこなした。
「昨夜、副官とは何か話した?」
ふいに聞かれて手を止め立ち上がる。ずっと屈んでいたので腰が痛く、思ったよりも重労働だったのだなと、遠い昔に同じことをしたのを思い出した。
「昨夜は何も」
どうしてと眉を寄せればラシードがふふっと声を上げる。
「可愛い女の子と一晩中二人きりだから、みんな気にして天幕の周りをうろうろしてたんだ。あっちへ行けって副官に怒鳴られてたよ」
「怒鳴られた……ごめんなさい。気付きませんでした」
「よく眠ってたんだね。ザックスには何もされなかった?」
「ええ、何も」
彼はいったい何を言いたいのか。
男の人がこういった話が好きなのは知っているが乗る気はない。上着は脱がされブラウスのボタンは外れていたがそれだけだ。
昨日ラシードにやられたことに比べたらなんでもないようなことだが、彼に命じたのはザックスらしかったのでラシード一人を恨むのも筋違いだろう。
それにしても今の話からすると、ザックスは一晩中ティアナと同じあの天幕で過ごしたということになる。
変な男が入って来ないように見張ってくれていたのだろうか。好意的な考えに慌てて首を振った。ただ逃げ出さないように見張っていたに違いない。
「あれ? 本当は何かあったの?」
「何も」
「本当に?」
しつこく楽しそうに同じ質問を繰り返すラシードを睨みつける。
「あなたの義兄なのでしょう? 疑うのはお姉さんのためでしょうが、信用されてはいかがですか?」
「やっぱりあの話知ってるんだ」
「あなたから聞きましたので」
ザックスを義理の兄と呼んでいるのだ。それにお姉さんとエイドリックに関わる美しい恋の話。姉がザックスの妻になったのだと誰にだって連想できる。
話は終わりとばかりに腰をかがめて手を動かすと、ラシードが水音をたてながら寄って来た。
「死んだんだよ。姉さんは五年も前に死んだんだ」
驚いて顔を上げると、寂しそうに微笑む美麗な青年がいた。
「僕と姉さんは双子でね。僕が言うのはなんだけど、それはそれは綺麗な人だったよ」
ラシードと同じ血を引く姉なら当然だろう。彼女も美しい金髪に碧い瞳をしていたのだろうか。
「姉さんは生まれた時から殿下の婚約者だったんだ。でも十四の時に病を発症して余命宣告を受けた。殿下は姉さんをとても愛してくれていたから、それでもと望んでくれたけど姉さんは違った。姉さんが好きなのはザックスで、でもザックスと姉さんでは身分が違い過ぎて許されなかった」
いつも笑っている人があまりにも悲しく微笑んでいたせいで、ティアナは聞きたくないと思ったのに、制止をかけられず黙って聞き耽る。
「殿下はね、ザックスに強くなって功績を上げるよう命じたんだ。そうして姉さんを奪い取れと。ザックスは姉さんを得るために危険な前線ばかりに赴いて名を上げて行った。ザックスが功績を上げ、名を轟かせるたびに、姉さんは不思議と持ち直すんだ。そしてとうとう五年前、殿下と姉さんの望んだとおりに、ザックスは姉さんを花嫁にした」
「五年前……」
それはラシードの姉が死んだ時期だ。
「十四で余命宣告を受けた姉さんはザックスへの希望だけで十九まで生き延びたんだ。殿下は愛する婚約者を臣下に譲り、ザックスは身分を超えた。その間ザックスと殿下の間には友情ともいえる主従関係が築かれ、ザックスと結婚して僅か半年で姉さんが死んでしまうと、身分違いのこの話は美談となって国中を巡ったんだ」
愛する婚約者の望みを叶えた王子様。
身分違いの恋をした綺麗なお姫様。
姫を手に入れるため、死地に赴き功績を上げる武人。
婚約者を失ったエイドリックと、ザックスの間に芽生えた硬い絆。
確かに世間が、特に若い娘が喜ぶおとぎ話だ。
「いいお話ですね」
でも何かが違う。何かが歪だと感じるティアナに、ラシードは彼らしい、いつもの微笑みを向ける。
「殿下は今も姉さんを愛してくれているんだ。家同士の取り決めだったけど、殿下は確かに姉さんを愛してる。でも姉さんは貧しい軍人に恋をして、病に犯されてからは正直に生きる道を選んだ。でもザックスは最後まで姉さんを愛さなかったんだよ。情を抱いても愛は抱いてくれなかったんだ」
始まりはエイドリックの言葉から。愛しい人を奪う男になれと命じられ、それに応えはしたが、ザックス自身はエイドリックと同じように彼女を愛することはなかった。
「ザックスさんを恨んでるんですか?」
大切なお姉さんを愛さなかったから恨んでいるのかと問えば、ラシードはまさかと声を上げて笑った。
「十九まで姉さんが生き延びたのはザックスのお陰だからね、感謝しているよ。式の時には寝たきりになっていたけど、花嫁衣装を着て神前で誓いも立てられた。姉さんは幸せだったんだ。君もそう思わない?」
「わたしは恋をしたことがなので分かりません」
考えれば彼女は幸せだったのだろうと想像できる。
けれど果たしてザックスはどうなのか。婚約者の願いを叶えるために、奪い取れと命じたエイドリックも。
そして彼女が愛しい人の愛を得られていなかったと気付いていたとしたら、彼女はどんな気持ちでわがままを貫いたのか。
ごまかせばいいのに、三者の思いに考えを向けていたせいで、ついまともに答えてしまっていた。
そんなティアナに、ラシードは思わずとい言った風に声を上げた。
「君は恋もしたことないの!?」
「……わたしにはそんな暇もありませんでしたから」
「駄目だよ天使ちゃん、恋は乙女を綺麗にするんだから!」
「はぁ……」
大げさに驚くラシードにティアナは気のない返事しか返せなかった。
師に付き医学を学んで毎日忙しく必死だった。
それでも病気や怪我で苦しむ人たちを癒やし、感謝される毎日は充実していて。誰の命も取り零すことなく、不自由なく未来が繋げるように手抜きの一切ない完璧な治療を目指し、誇りを持って挑んでいた。それなのに今は――
「天使ちゃん?」
暗く沈んだティアナをラシードが覗き込む。
「天使なんかじゃありません」
自分のことだけに必死な悪魔だ。
目の前で苦しむ人を見捨ててヴァファルに帰ることばかり考えている。
だって仕方がない、ヴァファルでは自分を必要とする家族がいるのだからと言い訳した。
「どうしてこんな話を?」
彼は何がいいたかったのだろうと、ティアナはラシードを見上げた。
「だってイクサルドが終わったら、この話を知ってる人もいなくなってしまうじゃないか?」
彼の言葉にティアナの時が止まる。
「もし君が国に帰ることが叶うなら、この美しい恋の話も誰かに語り継いでもらえるんじゃないかって思ってさ。僕はさておき、早くに死んでしまった姉さんを誰かに覚えていて欲しいんだ。君は天から降ってきたんだよね? 天上の人たちが姉さんの物語に耳を傾けるなんて最高じゃない?」
イクサルド東の国境。ここが落ちれば早かれ遅かれ国は終わる。それ程重要で、そしてエイドリックに従う兵士たちの力は強かったのだ。
たった五百人でなん人相手にしたと言っていただろうか。
大きな被害を出したが退けたのは途方もない数だ。
その時には責任者たるエイドリックやザックスは万全でなかっただろうし、他の兵士たちもしかり。
それでもやってのけた彼らは魔法を持たない生身の人間だ。どれ程強いのかと、ティアナは彼らの戦力についてこの時初めて考えた。
怪我人が多いわりに沈んだ雰囲気はそれ程感じられない。けれど確実に死は近くに迫っているのだと、意識のない怪我人たちが脳裏を過った。
妙に明るいラシードは性格なのか、あえてそうしているのか。
頭がずきずきと痛む。手にした包帯がすり抜けて流れ行くる光景は酷く寂しく感じられた。