その5 天使ちゃん?
背中に痛みを感じて意識が浮上した。目を開けると辺りは薄暗く、低い天井がティアナに現実を思い出させる。
夢であったならどんなによかっただろう。
ティアナは鬱々とした気持ちのまま身を起こした。
背中が痛いのは硬い木の箱を寝台代わりにして眠っていたからのようだ。薄い布が掛けられていて、頭の位置には上着が綺麗に畳まれていた。
胸元まで開かれたブラウスのボタンを閉めながら視線を移すと、ザックスが黙ってティアナを観察している。
いつからそこにいたのだろうか。着衣の乱れがないのを確認したティアナはほっと息をついた。
「あの状況で眠れるなんて思わなかったわ。けっこう図太く出来ていたのね」
「思った以上に薬が効きすぎたので落とした。眠らせてからは何もしていない」
呟いたティアナにザックスが答えた。
「落とす?」
「強制的に意識を奪うという意味だ」
魔法でも使ったのだろうか。まさかなとぼんやり見上げていると、ザックスがどのようにやったのか身振りで説明してくれた。
「どおりで首が……首だけじゃなく体中が痛い」
体を反らして伸びをするとぽきぽきと骨が音を立てた。昨日は酷い目にあった、そしてこれからもきっと。
異世界に飛ばされた人たちは皆このような経験をしていたのだろうか。
与えられた仕事にしか目を向けていなかったので、今更だが彼らがどのような経験をしたのかも調べておけばよかったと後悔する。
「異変はないか?」
「薬のことでしたら特には。それで、わたしはこれからどうなるんですか?」
「飯だ」
「え?」
ついてこいと言いながら幕を持ち上げるザックスの様子に、ティアナはきょとんとした。
大きな隻眼の男は人を恐れさせる威圧感いっぱいだが、意識を落とされる前と今とでは、向けられる感情が異なっているように感じられた。
「昨日は何も食わせてやらなかったからな、腹が減っているならさっさとしろ。うちの奴らは大食いだ、すぐになくなるぞ」
「あ、はい!」
どうやら一晩過ぎていたようだ。ティアナは上着を着込みながら急いで後を追う。
「離れるな」と言われ、彼のすぐ側を歩かされた。拘束されるではなく、好奇心でティアナに寄って来ようとする兵士たちとの接触を阻むのが目的のようだった。
ティアナが声をかけられるとザックスの左目がぎろりと相手を睨み、睨まれた相手は怯んで足を止める。
守られていると勘違いしそうになるが、もしそうなら解放されてしかるべきなので違うのだろう。
やはりティアナは危険人物として認識されているのだと思い、いつ殺されるかも知れない状況に緊張した。
天幕の立ち並ぶ端で食事は作られていた。
何百人もいる兵士たちをまかなうため、大鍋が幾つも火にかけられている。
師匠について僻地を巡っていた時には野宿の経験もあり、懐かしさと望郷への思いで涙腺が緩みそうになった。
座れと命じられ、切り倒され椅子代わりの丸太に腰を下ろす。すると「おはよう」と弾んだ声が耳に入った。
声のした方に顔を向ければ、大きな碗を器用に三つ手にした金髪の綺麗な男が、こちらに向かってにこやかにやって来た。
瞬時に経験させられた甘い感覚と恐怖が蘇る。
ティアナは跳び上がり、咄嗟にザックスの背に隠れた。
やって来た男、ラシードは、ザックスの後ろに隠れたティアナを覗き込むと、二人に向かって碗を差し出した。
「お腹すいたでしょ、一緒に食べよう」
当然のように差し出された碗をザックスは受け取る。
ザックスは副官と呼ばれていたが、ラシードとは義理の兄弟らしいので軽い付き合いなのかもしれないが、ティアナにとっては無理矢理怪しい薬を飲まされていいように扱われた相手だ。
こんな男から差し出された物を口にするのは嫌だった。
「ほら!」
口にはしたくなかった。のだが……。
どうしたのと首を傾げる男から湯気の立ち上る椀を受け取ってしまう。ティアナの意に反し腹は空腹を訴えていた。
「大丈夫だよ。昨日みたいに薬なんて入ってないから」
だから座って食べようと促される。
しぶしぶ丸太に腰を下ろすと、ザックスとラシードの二人もティアナを挟むように腰を下ろした。
本当に食べても大丈夫だろうか。
ザックスを窺うが彼は碗に口を付けない。やはり怪しい。今度はどんな薬が入れられているのだろう。大勢の人の前で乱れるのだろうかとティアナは絶望的な気分で碗を見つめた。
「毒など入っていない、安心して食え」
隣でザックスが促す。毒は入っていないだろうが別の、昨日の媚薬が適量で混入され、今度こそ彼らの思うように踊らされるのだろう。
自分で食べなければまた無理矢理口に入れられるに違いない。それ位なら自分でと思うが、なかなか意を決せなかった。
「媚薬もだ。皆が食べているのと同じで薬の類は何も入っていない」
そんなことを言われても勇気が持てない。反対隣ではラシードが笑顔を浮かべていて、その笑顔がティアナを更に不安にさせた。
黙って俯いてしまったティアナから碗が取り上げられる。驚いて顔を上げると、ザックスが取り上げた碗の代わりに、自分の碗をティアナに渡した。
「これなら安心だろう」
そう言ってティアナから奪った碗に口を付けると、ラシードも「礼儀に反するけど」と笑ってからティアナに見せるようにして口を付けた。
どうやら彼らはティアナが先に口を付けるのを待っていたようだ。
こちらでは食事の席に女性が同席した場合は女性優先となる風習なのだろうか。
罪人同然の女に礼儀など必要なのかと首を捻る。昨日とられた行動は明らかに今と違っていた。
「食べなよ。本当に大丈夫だからさ」
「あ……ありがとうございます」
二人に礼を言って口を付ける。冷めかけた碗の汁は薄い塩味だけだったが、空腹の胃にはちょうどいい味付けだった。
食べ終わるとラシードが三人分の碗を片付ける。
ティアナはザックスに連れられ森に入った。
森の中で殺されるのではと身構えたがそうではなく、すぐ側に流れる川で顔を洗い身支度を整えるようにと教えられる。
言われるまま顔を洗って口をすすいで戻ると、ラシードが合流して大きな天幕に案内された。
光を取り入れるために上げられた天幕の中を覗いたティアナは、すぐに後悔して顔を背ける。
嫌な予感がして、それは決して予感では終わらなかった。
「お前にはここを手伝ってもらう」
「わたしなんかにどうして!」
昨日までは敵と認識されていた筈だ。それがなぜ急にとティアナは拒否した。
「お前は医者なのだろう?」
「でもっ……わたしなんかを信用していいんですか!?」
天幕の中にいたのは多くの怪我人だった。
ティアナは魔法を使って治療するがこの世界は違う。
元の世界に帰るためには魔法を使ってはいけない。今のティアナにいったいどんな治療が出来るというのか。
手当の仕方を見て医者じゃないと疑われるのがおちだ。
そうなれば今度こそ拷問されてしまうとティアナは真っ青になる。
「完全に信用していないが、疑っているわけでもない。ただこちらも軍医が不足している。お前には薬も渡さないし刃物も握らせないが、その代わりにおかしな状態の者がいないか診断して欲しい」
「診断……ああ、診断だけなら。そうですね」
天幕の下に横たわる怪我人たちをざっと見る。
既に傷の手当ては済まされているが、本当にそれだけのようだ。
彼らの世話をしている兵士はいるが、みな同じような動きしかしておらず、ティアナにはいったい誰が軍医なのか判別が付かない。
せいぜいやれるのも傷の消毒と包帯を取りかえたりといった、ヴァファルでいう所の応急処置的な範囲だろう。
応急処置はティアナのような医師のいる場所に連れて来るまでに行われるため、実際に医師が応急処置をやることはなかったが、見立てなら魔法を使わなくても十分にできる。
「一応は僕が付くから」
笑顔で自分を指すラシードに、ティアナはびくりとする。
手が足りていないとはいえ、怪しい人間を一人にするのは危険なのは理解できた。
それはわかるが、ラシードよりザックスの方がずっとましだ。警戒心丸出しのティアナにラシードは声を上げて笑った。
「昨日のことを怒ってるんだ? 僕だって命令でやったんだ、許してよ」
「怒っているというか……」
またやられるんじゃないかと警戒しているのだ。
それに男ばかりの集団で、見たところ女はティアナ一人。その気になられたらどうしようもない。
「媚薬は飲ませたけど必要以上に触れてないでしょ?」
あれは任務だ、自分自身は無害だとでもいうかに笑うラシードの本心なんてティアナには全く読めない。
多分、おそらく必要以上に触れてはいないが、無理矢理飲まされる際に口付けられた。
抗議したとしてもあれくらいと思われるだろう。初めての経験で驚くほどの衝撃を与えられたのに、その相手はまったく意に介していない様子。
「君が怪しい素振りを見せない限り、触れないから安心していいよ」
自己申告の安心なんてできるわけがない。けれど拒否できる身でもないティアナは去っていくザックスの背中を、不安な気持ちで見送るしかなかった。
対峙した怪我人たちは誰も彼もが動けない状態だった。
動ける人間は次の攻撃に備えているらしいが、動けても戦える状態にまで回復していない者が多いだろうと予想される。
天幕の中には、身を起こして元気に見えても足を折った者、深い傷で出血が止まらない者や、傷口が開いたままの状態の者ばかりだったが、ティアナが声をかけると驚きながらも嬉しそうにしてくれた。
若い娘がいるというだけで気持ちが元気になるらしい。
ティアナが直接傷の治療をすることはなかったのでザックスはそれを求めたのだろうか。
怪我人を前にしてティアナの気持ちはどんどん沈んで行く。負傷者の冗談に笑顔で対応していたがそれもすぐに限界がきた。
ほんの一月前までは多くの患者を癒やしていたのだ、それも十年関わっている仕事。
痛みをこらえる彼らを癒やしてやろうと思えばすぐにしてやれるのに、自分がヴァファルに帰るために魔法は使えない。
偶然ここに落ちてしまったが、そもそもティアナは存在すべき人間ではないのだ。
そう自分に言い聞かせながら診察し、何も出来ないまま次の患者と向き合う。向き合う患者の数が増えれば増える分だけ、後ろめたさと罪悪感が積み重なり下腹が痛んだ。
「先生どうしたんですか?」
腕と足に怪我をした若い兵士に触れたまま動かなくなったティアナに、患者の方が心配そうに声をかける。
歳の頃は十六か十七の、ティアナより年下の少年だ。
子供とも大人ともつかない顔立ちの、イリスと名乗ったこの少年の未来はどうなるのだろう。
数日もすれば戦いが再開され、その時動けない彼らはいったいどのような扱いを受けるのか。
自然治癒を目指すなら、半月から数カ月の時間を必要とするものばかり。そんな彼らを移動させていないのはその手段がないからだ。
「天使ちゃん?」
隣で様子を窺っていたラシードも、動かなくなったティアナを心配そうに覗き込む。
ティアナは零れそうになる涙を必死でこらえた。見捨てる自分に泣く権利などない。
「何ですか天使ちゃんって」
「君の事だけど。落ちてきたでしょ?」
妙な呼び名に込み上げた涙は引っ込んでしまった。わざとそんな風に呼んだのかと思ったが、昨日の件を思い出して視線を反らした。
「向こうの人たちは?」
誤魔化すようにティアナは天幕の奥へ顔を向ける。
つられて少年とラシードもそちらを向いたのだが、笑顔しか見せないラシードの表情が一度だけ硬いものへと変わった。
「意識を失ったままの人たち。彼らは軍医が診ている」
ああ、それは……と、ティアナは言葉を飲み込む。
死を待つ人たちのことだろう。
助けるつもりがないのに聞いてしまったのを後悔していると、エイドリックとザックスが入ってくるのが見えた。
二人に気付いた軍医らしき人物が腰を上げ、なにやら話し込んでいる。その三人の顔がこちらに向いたのでティアナはすかさず視線を外した。
嫌な予感しかしない。
イリスが「エイドリック殿下」と、名を呼んで身じろぎする。俯いたティアナの視界に彼らの足が入り込んだ。
「動かなくていい、そのままで」
「申し訳ありません」
イリスは怪我で動けないというのに、上官かつ王子であるエイドリック相手に礼を取れないことを申し訳なさそうに謝る。
彼らの足しか見えていなかったティアナの視界に、ついにエイドリックの膝までうつり込んだ。
彼が目の前で腰を落としたのだ。
「一緒に来てくれるかい?」
穏やかな物言いだが従わなくてはならないのだろう。
顔を上げると疲れているのか、昨日よりも顔色を悪くしたエイドリックがとても近くにいる。
そのエイドリックの後ろでは、とても高い位置からザックスが影を落としていた。




